サテライト・サロン活動

■第47回サテライト・サロン吉祥寺報告
・日時:平成31年11月29日(木)午後6時30分
・演題:
「75歳、ウズベキスタンでの日本語教師の楽しさ(5月26日〜8月25日まで滞在)」
・演者:西村興八、和子
<ウズベキスタンへ>
ソ連が崩壊した後の、シルクロード、中央アジアが今どうなっているのかを知りく旅に出たいと思っていた。
そんな中、突然、某大学の国際部から、「ウズベキスタンからの留学生を増やしたい。日本への留学生の関心が高まってきた。日本人の先生は始めてである。歓迎したい。是非、サマルカンドに行って欲しい。」と派遣要請を受けた。
「何か社会の役に立ちたいと考えていました・・・」、「中央アジア地域の未知、神秘と知的なものに」魅了され、中国四川大学、カンボジャ ロイヤルプノンペン大学で経験の在った和子夫人が「これはおもしろいわ」と一緒に渡航を決断した。
期間は6月から8月、ボランティアの条件で日本語センターに赴任した。
成田から首都のタシケントまで6030km、午前0時30分に出発、宍道湖から北緯35度を西へ、シルクロードの上空で夜明けと共に眼下に雪の天山山脈がそびえ、南にタクラマカン砂漠、強烈な日差しが照りつけ、干し上がった川床が幾つも見える。「感激、感動の別世界の景色を眼下にする事が出来ました。」
午前6時30分に到着、飛行時間は9時間30分、現地のスッタフの出迎えを受け、また、空路で約1時間のサマルカンド空港に到着。それからはタクシーで30分、市の中心部のレギスタン広場、大きな松の木とポプラに囲まれた官舎(宿舎)に到着しました。
気温47度だが壁の厚さ40cmで室内は暑くなく、蚊はいない。
<ウズベキスタン共和国>
面積は日本の1.2倍、人口は3200万人。公用語はウズベキ語、タジク語、ロシア語。
多民族国家。イスラム教(国教)だが影響力は弱く、街中にコーランは放送されていない。
若い女性は日本や欧米と変わらない洋装でノースリーブ、女学生やOLは体にピッタリした白いブラウスに黒のタイトスカートです。
イスラム教の女性は18歳で結婚が普通です。
相続は遊牧民の風習で、末っ子の男子がする。
お酒は禁止。お茶を飲まずに食事の時は2gのペプシコーラ、紙袋に入れて持ち歩いている。
資源は石油、天然ガスは豊富だが、輸出産業への移行が上手くいっていない様で、また、大型の建設工事が途中で止まっている。若者達に仕事が少なく、「物作り」への投資が進んでいない。
<日本語学校(レギンス公園内のビジネスセンターの隣)>
生徒数は50人で女性は4人、大学生、社会人。
他の英語学校等は女性が70〜80%、大学の入試に使う。
留学生は40人、うち男性38人、女性は2人、外へ出たがらない。
日本の日本語学校に入学してから専門学校、大学、大学院に進路を取る。アルバイト等して、小金を稼ぐのが 精一杯。
国内の教育制度が良くない。日本への出稼ぎで小金持ちになるのが精一杯。
現地のスッタフは6人、和子夫人は漢字、興八氏は会話、聴講を担当。
和子夫人は個人的に書道(フェルトの下敷、筆、墨汁、和紙、しかし文鎮は忘れる。)、お茶会(和室に掛軸を掛ける)30人を2回開きました。
着物を40枚持参して、現地人へ着付けた。
<暮らしと食べもの>
「アッサローム・アレイクム」ウズベキスタン語でこんにちは!
サマルカンドはシルクロードの東西通路とシベリアとインドを結ぶ南北通路の十字路。
抜ける様な青空の広がる下に、鮮やか青緑のトルコ石の色をしたモスクのドームが陽光を反射して輝く美しさから「青の都」とも「東方の真珠」とも呼ばれている。また、「地球上にある最も歴史の古い街」だと地元の市民は誇りにしている。
ブハラが奈良なら、サマルカンドは京都と呼ばれ、中央アジアで最大規模のオアシス都市で、中央部の公園には大きな噴水が3ヶ所もあっあった。
山は岩で緑はないが、水は豊で、ブハラには湖があって、静かで落ち着いている。
顔つきは日本人に似ていて、恥ずかしがりやで、若い人は「おしん」のテレビを見て、「良かった」、「貧しいのに堪えて」、また、アジアの経済大国、先端技術、と興味を持っている。
そして、恥ずかしそうに「こんにちは」と言ってくれる。
子供が生まれたら日本では花子?太郎?と尋ねますけど、此方では狐?狼?と尋ねる。
日本人は200人位いる。
韓国人は抑留されてから残っている。韓国製の白物(洗濯機、冷蔵庫、テレビ)が多い。
鉄道のキップはパスポートを持って、購入します。学校の職員が同行、IDカードを持っていないと、キップを売ってくれない。
買い物はタクシーで行って、人参、キャベツ、玉子、を売っている所が違う。魚は2回見た。1回目は鯰で生きていた。2回目はフライで油が強く食べられなかった。
<暮らしと食べもの>
豊富なブドウからワインを、更に地ビールもあり安い。酒は自由に飲め、蚊がいないので公園でビアホールが開かれ、賑わっており、中ジョッキが100円で手ごろでした。
名物料理「プロフ」は、炒めたご飯の上に千切りに刻んだ人参が山ほど盛り付けられます。 「シャシリク」は「カバブ」と言う串焼き肉が名。
日常の食材不足、「食の閉塞感」には、日本人には辛いものを感じます。
田舎では家畜を飼い、農作物は小麦、ジャガイモ、タマネギ、人参、キュウリの自給率は100%を誇っている。
日常生活で面白い仕種を見掛けます。食事が終った後、お碗の様な形をした両手で顔を撫でる。
<日本語学校にて>
HIS社からの日本人ツアーの見学並びに交流会を2回して、この機会に始めて多くの日本人に会ったと生徒は感激していた。
また、日本人のツアー客から、現地でボランティアをしている西村ご夫妻を見て、「こんな所で日本人が教えていると感動した」と言われた。
<日本との繋がり>
広島に原爆を落とされた8月6日の後の8日にソ連が宣戦布告して、今まで戦争行動が無かった満州帝国に攻めこんできた。敗戦後に武装解除の日本軍兵士を強制的にシベリアに連行し抑留したうちの2万数千人が、1945年から1948年にかけて当地まで送られて来た。
その時建設したナボイ劇場は 1966年のタシケント大地震でほとんどの建物が壊れても、無傷で残った。今でも、劇場の完成にかけて貢献した日本兵を讃えるプレートが飾られている。
日本を含めた西側諸国は、ソ連が崩壊した直後から この地区のにおける改革を支援してきた。日本はその中でも、経済的な発展を重視し、その為に、少なからぬ規模の援助を継続的にしてきた。
出席者
演者:西村興八氏、演者:西村和子夫人、大島洋子、大橋基光、金子浩、神崎忠男、木村康雄、小清水敏昌、近藤裕、副島一義、高橋郁子、高橋重之、田中清介、鳥橋祥子、西村智磨子、原山恵津子、平山康司、宮川清彦、山口峯生、里島安子 計20名


■第30回サテライト・サロン立川報告
―― 第4回「先輩の山の話を聞く会」 ――
開催日時 12月3日(月)午後6時30分
講師   野口いづみ
 この企画をスタートさせて、4回目で初の女性講師でした。登山教室卒業生は、圧倒的に女性会員が多いこともあり、女性の話を聞きたいとのリクエストが多数寄せられていました。受けて頂けたのが、野口支部長でした。さすが「女性は、依頼されたら断ってはいけない」を有言実行されている姿に感服致しました。
 当日は、『世界の山・日本の山・心のアルバムにページを加えて』と題し、写真を中心にお話を聞きました。
 最初に驚いたのは、支部長が双子であり、ご自身でも「どっちが自分かわからない」と仰有るほどに瓜二つ。生い立ちの写真には、可愛い女の子が二人写ってました。1年半ブラジルの学校に通った経歴にも驚きました。武蔵高校に入学し山歩きを始め、奥秩父テント縦走中に甲武信岳でたまたま埼玉県の観光宣伝映画撮影隊に登頂シーンを撮られたとの話にも驚きでしたが、写真の中の支部長は、可愛い中にボーイッシュさのある高校生でした。
 大学で少林寺部に入部したのに、いつのまにか山岳部になっていたお話も、本当に驚きの連続でした。
この頃から、かなりの健脚だったそうです。その後、忙しく国内の日帰りハイキングをしていたそうですが、40歳過ぎて海外へ。次から次へ海外の山の写真が実に見事でした。仕事しながら、これだけの山へ行くバイタリティーと経済力にも驚かされました。お忙しい中、色々工夫されていて、学会の日にちをやりくり行ったり、手術着を雨具にしたり、支部長ならではのユーモアが会場を包みました。オラウータンとのハグがあったり、水着の翌日雪山だったり、地元の人との交流あり、子供達の笑顔あり、加えて高山植物の美しさ。写真の美しさにひきこまれ、支部長の体験に感激あり笑いありで、私達は行った事ない見た事ない世界を楽しみました。
 ご自身の最高峰は、ペルーのワスカラン北峰(6655M)。支部長のお話を聞いていると簡単に行けてしまうような気になってしまうのは、なぜでしょう。
質疑応答で、高山病への対処のお話も興味深かったです。
 2000年代になり、長期のお休みがとれなくなり、国内の山(沢登り・山スキー・バリエーションルート・)へ。国内の山の素晴しさを再認識されたそうです。
登山家というのか、冒険家というのか、ドクターでした。
本当に沢山の山の表情を見せて頂きました。
 最後に「支部長にとって、山の魅力とは?」との質問に「一番苦手な質問です」と仰有ってました。
『どこの山もよかった』『日本の山は美しい』と。ご自身が病気であることも、、、『好山病』と。
会場の皆が、「私もなりつつある」「私もそうだ」と、思いを一緒にしたところで、終了しました。
参加者  29名
赤坂憲子、赤坂優貴、内村直子、岡義雄、小河今朝美、鹿嶋陽子、下野武志、神埼忠男、河野悠二、齋藤理恵子、清水茂美、杉崎敬子、数見直、諏訪久美子、竹内恭江、田中清介、富澤克禮、内藤誠之郎、仲谷朋尚、中村哲也、西村智磨子、西山さより、野口正江、濱野弘基、人見茂子、山内ひとみ、吉川三鈴、中原三佐代、山本憲一


■第46回サテライト・サロン吉祥寺報告
・日時:平成30年9月26日(水)午後6時30分
・場所:吉祥寺本町コミュニティーセンター
・演題:「会報・支部報をつくり続けて二十年」
・演者:高橋重之氏
1939年(昭和第十四己卯年)生れ、5月〜8月 日本軍がソ連と戦闘
ノモンハン事変、9月ドイツ軍がポーランドへ侵入。
1946年(昭和二十一年)、国民学校 一年生。
1962年(昭和三十七年)、日本経済新聞社に入社した。
1964年(昭和三十九年)、東京オリンピック開催を契機に福岡に転勤した。九州の山に登るようになった。背振山、九重山、霧島山、雲仙岳、由布岳・・・。会社に山岳部をつくった。屋久島/宮浦岳には1968年6月 に登った。
公正・中立、正確に書くことを教わった。固有名詞と数字を間違えてはいけない。名数確認。事実を書く。意見は書かない。重要なことから書く。同じ言葉を繰り返し使うな。文法を守れ。紋切り型になるな。
1972年3月、東京経済部に赴任。佐藤首相が官邸での記者会見で「新聞記者とは話たくない」と言い、退陣を表明した。驚いた。田中角栄が福田赳夫と争って首相に。列島改造ブーム、日中国交回復。パンダが上野にやって来た。
1975年、石油ショック、狂乱物価、ロッキード事件、田中退陣。
1994年(平成3年)、日本山岳会の会員になった。会報編集委員となり、総会・年次晩餐会を報道した。年次晩餐会は12月第一土曜日に開催される。記事は翌年1月号に掲載された。12月号に載せるよう訴えた。10日までに原稿を出す条件だった。
印象に残った通常総会は、2001年(平成13年)通常総会。役員・評議員の改選で熱くなった。評議員会が推薦した候補を否決、緊急動議を採択した。議事は3時間を超える長丁場となった。
2011年(平成23年)通常総会。公益法人を選択し定款変更した。議事は5時間30分を超えた。
東京多摩支部が2010年(平成第22庚寅年)に日本山岳会の29番目の支部として設立された。支部報「たま通信」の発行が決り、広報委員会が担当することになった。
○次のような原稿に出っくわした。なにか妙だ。
従来から利用している貸切バスが便利であります。参加者23名で欠席した1名を除いて全員が時間通りにJR立川駅北口多摩信用金庫横公園公衆便所横に集合した。そして07 :30より出発した。美濃戸口の登山口より赤岳に向かった。赤岳の頂上まで約5時間位であった。ようやく赤岳の頂上に登頂できた。楽しみにしていた今回の山行ではほぼ真 南の富士山を初め北岳、仙丈ヶ岳、甲斐駒ヶ岳はもちろん木曽駒ヶ岳、穂高岳、槍ヶ岳などがずらりと見えます。しかし今日は曇ってて全く眺望が見えなかったことは参加者は非常に残念がっていた。それから記念写真撮影をして下山した。立川にて解散。平均年齢は65才。帰りの車中で訃報に接した。享年85歳。
△「多摩百山」の編集で悪戦苦闘した。゛専門家゛ではなく、だれでも分かる言葉を選びたい。
「万六の頭の腰を巻いた」「一上一下の山稜である」「尾根の肩をからんで登った」「一本立てよう」「掻き登る」「頂上まで一投足の距離だ」「左見右見」「登りあげる」「急下降したが、道形はしっかりしていた」「ボサ漕ぎ」「下りはバリエーションルートを取った」「坪足で歩いた」「ランブリングした」「倉沢谷のマイモーズをのぞきこんだ」「閉鎖圏だった」。
◎短く分かりやすく、同じ用語を繰り返さない。
分かり易く、読みやすく書く。つじつまは合っているか、文中で矛盾したことはないか。陳腐な表現はないか。 ○文章は短く。平均50字以内に納める。漢字を使い過ぎない。
○オーバーな表現はないか。同じ言葉を乱発していないか。
○接続詞を、なるべく使わないように。句読点を適切な使う。
△山の美しさ、山登りの楽しさを伝えよう。
◇未知なものに向かって挑戦する心を忘れないように。
◇日本山岳会が山の好きな人たちの集まりであることを忘れない。
◎美しい日本語を使おう?
講演会は終了しました。
参加者
市川義輝、石塚嘉一、岡義雄、小口治、鬼村邦治、神崎忠男、河野悠二、小清水敏晶、小嶋一男、近藤裕、酒井俊太、下田俊幸、菅沼満子、副島一義、高橋郁子、高橋重之、田中清介、土井友子、辻橋朋子、富澤克禮、鳥橋祥子、夏原寿一、西村智磨子、西谷隆亘、野口いづみ、原山恵津子、平井康司、山口峯生。 28名


■第45回サテライト・サロン吉祥寺報告
・日時;平成30年5月30日(水)午後6時30分
・場所;本町コミュニティセンター 3階会議室
・演題;「持続可能な山の会を創る」
・演者;小尾 隆氏 (会員No.16107)
・講演;第45回吉祥寺サテライトサロンを始めます、との開会の挨拶に続いて、日本山岳会会員番号16107番で、山の日事業委員会に所属しております。
・武蔵野市役所の山岳部でしたが一昨年退職して新たに「むさしの山岳同好会」を結成して武蔵野市山岳連盟(略称は武岳連)に加盟しています、と自己紹介をされました。
・演題の「山の会を創る」は新たに創造しながら創る、からこの字を充てるました。
◎武岳連は昭和31年のマナスル登頂の記念する年の3月7日に地元の青年会、国鉄(吉祥寺駅員、三鷹駅員、武蔵境駅員)、商店会、の5団体で設立しました。現在は23団体、446名が加盟しています。
・組織は、理事長、副理事長、事務局(庶務、会計)、事業部、指導部、交流部、及び監事 で任期は1年間、毎年4月に新旧理事会を開催して自薦、他薦で決めます。
又、遭難対策委員会は事故発生時には二重遭難を避けるため連盟員は救助には出掛けないで、市内に対策本部を立ち上げ、現地には連絡所を造り、現地の警察・消防等に協力し情報提供をします。
・事業は武蔵野市教育委員会、武蔵野生涯学習振興事業団の野外活動センターの委託事業を受託しています。
○初心者登山教室は 昭和49年から一般市民を対象に開講、第一期修了生が「むさしの山の会」を作り、加盟しました。平成29年度までは9月から3月までの半年間の講習会の机上講座 @基礎とマナーA装備B計画書C地形図とコンパスD概念図と比高断面図、カロリー計算E食糧F天候G楽しみ方、と登山実習5回の山行では連れていって貰い、楽しく学ぶ事を目的にしています。
○登山スクールは 平成4年の山登りゼミナールから 、平成10年に野外活動センターの委託事業へ加えられ、2000m位の山を自分で計画して安全に登れる目的で、1年間毎月1回体育館の会議室で土曜日、日曜日に山行する班に分かれて、スクール生自信で計画書を作り、全員が交代してCL、SL、を担当して山行を実行します。2名の指導員が同行しますが、コースを間違えても 5分位黙っていて、その後アドバイスして修正します。
◎平成30年度からは教室とスクールの長所を纏めて、4月から3月までの1年間で、体育館での机上講習を12回、登山実習は10回の新しい 初心者登山教室を実施しております。
△スクールの修了生は 安全登山を目的に新しい山の会を創り、連盟に加盟して頂きます。
・連盟の普通指導者講習会へ有償で参加して頂き、6回の講習を受講された方には 普通指導者証を授与します。その翌年から、初心者登山教室の実習に同行して、研修生として実地で学んで頂き、次世代の初心者登山教室の指導者になります。
・普通指導者が上級指導者講習会を受講しますと 普通指導者講習会の指導者へ昇格します。
・雪山研修会で技術の向上も計れます。
☆春・秋(の)に開催する市民体育大会の登山の部では。山を安全に楽しんで頂き、山の魅力をPRする目的で、70歳までの市民を公募して、保険代金10円で安全に注意しながら山行を計画、実施しております。
・交流部は 新しく山の会を作ったが 自分達だけでは山行が不安な仲間と、昔からの山の会とが一緒に登り、色々体験談を聞いたりして、交流を図り懇親を深めて頂けます。
◎武蔵野市山岳連盟を持続させる方策。
1)新しい山の会を創る。
前記の通り、計画を立てて仲間と打ち合わせして、計画書を地域の警察署に届け出て、体調を整えて、準備体操、ゆっくり歩き、休憩では水分と行動食を補給、の安全、安心の山行を初心者登山教室で学び、体験して、新しい山の会を創り、武岳連に加盟する事が持続させる最良の方策でしょう。
2)武岳連へ加盟するメリットを教え、お知らせする。
前記の通り、
・交流部で先輩の山の会の方々と一緒に山行をして交流、親睦を図り安心、安全、に活動ができます。
・指導者講習会、雪山講習会で自分自身の技術を向上出来る。
・遭難した時、武岳連全員でご家族へ支援、対応、応援出来ます。
3)指導者を確保する。
前記の通り、指導者講習会等で自前の指導者を作り、確保できる。
4)武岳連の組織を運営していく役員、資金を確保する。
・登山活動では初心者でも、社会生活ではベテランで経験者が多くの山の会に在席されていらしゃいますので、積極的に運営へ参加して頂きます。
・資金は、日本山岳会は個人の会費が収入源ですが、武岳連は山の会が一団体3000円で23団体の会費だけです。
これだけでは連盟の活動費は不足しますので、市事業団から登山事業を受託し、担当した机上講習、登山実習の講師やの受付をされた会員の皆さんからの寄付金で運営をしています。連盟会員のご厚意からの寄付金に依っています。
▲登山界の現状分析
1)一人だけの単独山行が多い。
・一人だと山行日程、歩行と休憩の時間が自由になる。
・インターネットにより全世界の最新情報(ルート、天候、等々)が簡単に収集できる。
・装備、食糧、等が軽量化して品質が格段に向上している。
・GPS機能が充実していて、地形図が読めなくても現在地が判り不安が無い。
・登山口までの林道が整備されて、自動車で手軽に早く到着できる。
・警察、消防等の救助体制が整ってきている。
・通信可能な山域が拡がってきているので、救助要請が簡単にできる。
・都心部、近郊の山での各種講習会が安価で増えている。
・アルプス、ヒマラヤ、等々の高山へも公募で登頂できる。
・山岳保険が充実して、選択して加入できる。
2)武岳連の山の会では?
・連盟員が高齢化して、組織の運営を担う役員、山行での指導員を派遣できない理由で 連盟を退会してしまう。
・若い方々は部署の移動、転勤、中年の方々は家族の介護等で山の会を退会する。
・指導者講習会等で技術を修得した後、連盟で指導する時間があったら、自分自身の山行を優先したいので退会する。で武岳連等での団体での登山活動が減っています。
☆まとめ☆
当日に配布されたレジュメの文章を記入します。
(1)事業
@魅力ある事業:会員になりたくなるような魅力ある事業を行う。
・ガイドブックで紹介されている山々に、安心で楽しく行く事がでる。
・山行の日程も計画段階で参加者の日程を調整し、希望の日程で実施できるようにする。
・本人が遭難や事故に遭遇しても、親族や友人の要請に基づき適切に対応、支援する。
A会員の満足度:入会した会員のニーズに答える事業を行う。
・行きたい山に行けるような登山技術を身に着けられる講習の機会を作る。
・登山装備の購入相談や使用方法の指導が受けられる機会を作る。
・地形図や天気図などの読図の知識を習得できるような機会を作る。
(2)運営
@負担にならない運営:会員の負担にならないような登山団体の運営を行う。
・各種連絡、情報はインターネットやHPなどを利用して、簡単で最新の情報が入手できるよう整備する。
・会費等はなるべく安価で個人負担が高額にならないよう配慮する。
A継続性の確保:役員づくり。
・新人会員でもやる気のある会員なら、登山団体の運営に参加できる体制づくりが必要。
・登山団体の運営に参加した新人会員が次期の幹部会員へと成長していくよう育てる。
(3)指導
@指導者育成:組織内指導者。
・会員の満足度を保つために、登山技術、登山装備知識、読図の知識などの指導が出来る組織内指導者を確保していく。
A指導者確保:外部指導者。
・より高度な技術指導や講演を受ける事が出来るため外部指導者名簿などを整備し、テーマに沿った指導者にお願い出来るよう準備しておくと良い。
参加者
石鉢宗男、岡義雄、小尾隆、神崎忠男、木村康雄、小嶋一男、近藤裕、小清水敏昌、副島一義、鳥橋洋子、仲谷朋尚、西村智磨子、野口いずみ、長谷川公子、山口峯生  計15名


■第29回サテライト・サロン立川報告
―― 第3回「先輩の話を聞く会」 ――
4月5日(木)18:00開催
講師:竹中 彰
今まで支部長としての竹中さんに接する事が多かったのですが、今回は丸ごと竹中彰氏のお話しが聞けたように思いました。
1942年誕生。沼田・名古屋・大阪と移り住んだ生い立ちのお話しから始まり、高校、大学山岳部時代のお話しが中心でした。
次から次へと語られるエピソードに、引き込まれるように聞きいりました。
私は、山歴6年弱。竹中さんの学生山岳部の体験は半端なく想像を越える凄さがあり、異世界の話に興味津々でした。 高校時代→初めての北アルプスで、夜行で出かけ、睡眠不足の為、疲労困憊し足がつって、ザックを持ってもらい辛い思いをした針ノ木峠での思い出。奥穂高岳往復し涸沢テント泊した時の紅葉を目の当たりにして、山の楽しさと美しさに目覚めた思い出。アイゼンの紐をしめすぎて、凍傷になりかけたOBの思い出。etc.
ついこの前の出来事のように、楽しくお話しされていた竹中さんの姿が印象的でした。
大学時代→1960年安保条約改定年で、日本中大騒ぎ、デモに参加。親から山岳部は禁止されワンゲルに入部するも合わず、下宿の為親の目は届かないので内緒で、夏前に山岳部に入部。このあたりのお話しは、今の竹中さんからは想像できず、意外な一面でした。
夏合宿で、針ノ木岳でまた痙攣。針ノ木岳は竹中さんにとって鬼門のようです。
冬合宿でクリスマス寒波に襲われ6日間閉じ込められ、食べて寝て歌って話して時々雉ウチ。雪でテントが潰れるのを防ぐ為に交代でテントの雪を払う。
歌のありがたさを身に染みて体験し、本当の意味で、山の唄をいとおしく歌えるのではないかと思いました。
悲しい体験も沢山されていて、仲間の滑落事故やご自身の怪我。また、救助活動のお話しも生々しいものでした。
改めて、経験豊富な先輩方にご指導頂けて、幸せだなと感じました。
最後に感想文の中から抜粋紹介させて頂きます。
・青春の素晴しさを感じた。
・本格的な学生山岳部の活動を生々しい語りで聞けた。
・豊富な経験をもっと聞きたい。
・人柄にホレ直した。
・生まれ変わったら若い頃から山登りをしてみたいと思った。
(報告文/中原三佐代)
参加者
植草由利、河野悠二、川尻久美子、清水節美、岡義雄、富澤克禮、西村智磨子、吉川三鈴、清水茂美、齊藤理恵子、小口治、竹中彰、高砂寿一、松田慎一郎、鬼村邦治、野口正江、竹内恭江、富永真由美、西山さより、中村哲也、中村敦子、山内ひとみ、内藤誠之郎、石原和子、鹿島陽子、吉田敬、中原三佐代、山本憲一  計28名


■第44回サテライト・サロン吉祥寺報告
・日時;平成30年3月28日(水) 午後6時30分
・場所;吉祥寺本町コミュニティセンター 3階 会議室
・演題;「台湾の山」と「台湾の生活」
・参加者;市川義輝、大島洋子、岡義雄、鬼村邦治、小野寺斉、神崎忠男、河野悠二、小嶋一男、下田俊幸、徳永泰朗、鳥橋洋子、仲谷朋尚、中原三佐代、夏原寿一、西村智磨子、西谷隆亘、平井康司、廣田博、宮川清彦、山口嶺生、北原周子、副島一義(文責) 計22名
  ー御講演の報告書ー
・ご準備;ご持参の重いパソコンの他 プロジェクターまでもご用意頂きました。本町コミセンの古い機器では上手く働きませんでしたのでご準備頂きました素敵な写真を投影出来ませんでしたので本当に助かりました。
・ご持参の資料;台湾百名山の詳しいので厚く重たい案内書物を2冊。台湾を紹介しました 2冊(司馬遼太郎著 街道をゆくー40 台湾。蔡焜燦著 台湾人と日本精神。)
・台湾の登山地図;実際に登頂されました際にご使用されまして赤線でコースを記入されました登山案内図も沢山御準備下さいまして本当に台湾の山々が身近に感じられました!
☆ご講演の内容 ;
「台湾の山」 では△五嶽(中嶽;玉山 3952m。北嶽;南湖大山 3742m。西嶽;雪山 3886m。東嶽;秀姑巒山 3805m。南嶽;北大武山 3092m)
▲三尖(北尖;大覇尖山 3492m。中尖;中央尖山 3705m。南尖;達芬尖山 3208m。)
□五山脈(雪山山脈。中央山脈。玉山山脈。阿里山山脈。東部の山脈。)

実際に登頂されました山行の方法、困難差、又、台湾の方々の登山期間、そして高山でも樹木や石楠花等の咲いているを花を 綺麗な写真でご紹介下さいまして有難く、嬉しくて、又、訪れて 登りたくなりました!
「台湾の生活」 では 実際に7年半も駐在されて おられました事から街角の風景は 朝の公園での 太極拳、ダンス、夏至の頃の太陽の影、又、ミニのお姉ちゃんのバイクの乗り方、マーケットの品々、春節の挨拶文、等々。
普段の生活で重要な決断の時に 占い師に判断を問い合わせします。
例えば、駐在中、社員の退職時も 占い師の判断で退職を止めて留まる事が有りました。
美味しい食物 では 小籠包、フカヒレスープ、上海蟹、臭豆腐、から果物の種類と完熟している美味しさと日本と比べて安い価格、等々。
日本の統治時代に全国的に鉄道網を敷設した情緒が漂う鉄道では 集集線、平渓線、そして昨年 実際に乗車して懐かしい阿里山線、又、地震で壊れた駅舎を日本統治時代と同じ姿に復旧して賑わっている街と西側の大都市を縦断する高速鉄道は日本製の新幹線。
演者の勇者が仲良くラグビープレイしている姿、オフサイトの懇親会、90歳のラガーマン、○○惑チームの名称、等々現在もプレイ、コーチ、指導、しています事の証明できる写真。

台湾の歴史 では
1600年の関ヶ原の合戦 の頃の台湾は全国的に統治する王様は居ません。
1624年のオランダ人の上陸(南部の都市)。
1626年のスペイン人の上陸(基隆市)。
1661年のオランダ人を鄭成功氏(平戸の武士 田川氏の娘が母親)が駆逐。
から
1895年の日清戦争を勝利した下関条約からの日本が統治する。
1945年の日本帝国が全面降伏の敗戦して 中華民国独立。
1949年から大陸から逃げてきたの蒋介石氏の中華民国政府。
1987年に戒厳令を解除。
等々。

1895年から50年間の日本統治時代に貢献した業績
八田與一氏の烏山頭水庫(ダム)と16,000.kmもの長距離用水路。
早田先生の植物大系。
新井耕吉郎氏の紅茶栽培。
六氏先生のゲリラからの襲撃でのご逝去。
で ご講演は終了しました。
☆参加者からの質問では
・玉山は富士山の様に 霊山のように見られていますか?
玉山は普通の人では 見ることが出来ません。山を神様と思っていません。
・玉山以外の山の規制はあるのですか?
山岳地域の原住民の保護が主体で 入山は簡単ではありません。登山者 10人までには1人のガイドが必要です。又、玉山は平日の登山者は90人までで、外国人は24人まで。
土、日の登山者は120人までです。申込んでも返事は1週間掛かります。
・徴兵制度はありますか?
17歳以上で4ヶ月の兵役義務です。兄弟の内に誰か1人が入隊すれば 他の兄弟は行きません。
内山節氏 談話で 台湾人は日本が好き!
宗教は道教で、何でも寄せ集めて お寺に祀って居ます。
祈祷師、風水師、が生活の場で活躍しています。
演者の会社が移転した時に、街中に氏神様が居ますので、土地の神様、建物の神様、に御祈りをして頂いた。



■第43回サテライト・サロン吉祥寺報告
・日時;平成30年1月24日(水)午後6時30分〜
・演題;世界の登山家とのお付き合いとアジアの花
・演者;廣田 博 氏
・参加者;市川義輝、大島洋子、小口治、神崎忠男、北原周子、河野悠二、
小嶋一男、副島一義、辻橋明子、鳥橋祥子、夏原寿一、中村真由美、 西谷可江、
西谷隆亘、原山恵津子、平井康司、樋渡智子、三渡忠臣、山口峯生。

・講演会報告。
司会者の開会の挨拶の後、廣田博氏は開口一番「ヒロシです」・・・、「ヒロシです」・・・、と講演会は始めてですと話された方とは思えない様な新しい型で切出しました。 ホワイトボードに1)東京都山岳連盟、2)日本山岳スポーツクライミング協会、3)HAT-J(ヒマラヤンアドベンチャートラストージャパン)と書かれて日本山岳会に入会されます前の団体を説明、UIAA(国際山岳連UAAA(アジア山岳連盟)、HAT-J(UIAAの国際的に活動できる環境団体)も説明しました。 1994年6月に UIAAからHAT-Jへ インドで焼却炉を設置する調査を依頼され 廣田博氏を含む7名がインドで開催中のUIAAへ伺った時、下記5名へお会いできて写真を撮り、サインを頂きました。
注)此処からは大判の写真を見せながらの説明。
・御存知超御高名なエドモンド・ヒラリー卿です。
・モーリス・エゾロフ氏で8000m峰を世界で最初に登られた方で、指先が凍傷で無いので食事は〔写真を指しながら〕ここで持って食べます。
・インドの登山家キャプテンMSコリ氏です。
・ラインホルト・メスナー氏はインドのガンゴトリの焼却炉設置の調査へ同行して、その後も清掃登山で※燃える物はガソリンをかけて焼却し※缶は潰して麻袋へ入れてポーターに降ろしてもらい※瓶は穴を2m位掘って埋める作業をしました。焼却炉はインドでは大金持ちが居て自分達で造って貰う様に会議で報告して頂きました。
・ノルゲイ・テンジン氏の伜さんでノルブ・テンジン・ノルゲイ氏はアメリカ山岳会に居て、清掃登山には途中から参加されました。
・田部井淳子さんの30周年の思い出の写真で エベレスト街道を一緒に登りました。
・ゴマ粒に見えるのは 揚羽鶴が10,000mの高さを飛んでいる朝焼けの写真。
・エベレストをチベット側から撮った写真で、三渡さんが登ったプモリがこちら側から繋がっています。
・ずいぶん前、チョオユーは普通のフィルムの時代で撮りました。
・インドのタージマハールは1994年で、大島洋子さんが写っています。
・火山の噴火している ハワイのマウナケロに登ったときの写真。
・ずいぶん昔、神崎さんに連れられたカザフスタンのグランドキャニオンと同じように凄い河に水が流れていないので 底を歩きました。

山ばかりの写真ですと飽きてしまうので、花の写真を持って来ました。 アジアから出た事が無い人間で、アジアの色々な所で撮った写真です。
注)ここから花の写真が大量100枚位!
・ブルーポピーの白、ホワイトポピーは少ない。レッドは1ヶ月早い。
・中国ターフニャン5000mでの写真。
・アジアでは、日本ではまず見られない花が結構多い。

花を撮るのは、添乗員さんに「お腹が痛い?」と言って 脇道に逸れて撮っていました。ピークハンターではなくて花を撮るのが趣味なもので、年2〜3回行って20年近く。
・花が小さいのは風当たりが強い所。
・風によって茎が細いのはしなる、太いのは折れる。
・背の高いのは風の通らない所。
どうゆう咲き方、どうゆう成長をしたかは 見ただけで解る。 花の名前は現地で調べたり、家に帰って調べたり。 写真は触っても指紋が着かない様にカバーをして、今日は20kg位持って来ました。自宅には此れの何十倍も写真が在ります。興味の在る方だけにお贈りしています。(了)

インフォメーション
第47回サテライト・サロン吉祥寺報告
第30回サテライト・サロン立川報告
第46回サテライト・サロン吉祥寺報告
第45回サテライト・サロン吉祥寺報告
第29回サテライト・サロン立川報告
第44回サテライト・サロン吉祥寺報告
第43回サテライト・サロン吉祥寺報告

アカヤシオ
多摩の花 アカヤシオ

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