サテライト・サロン活動
■第37回サテライト・サロン吉祥寺報告
11月23日午後6時半から、いつもの本町コミセンで標記サロンを開催した。今回のテーマは山での写真の撮り方を採り上げた。この日は祝日の上、夜には雪になるとの天気予報が出ていたので参加状況を心配した。しかし、そんな心配をよそに11名の参加がありホッとした。演者は道健一氏で日本山岳会アルパインフォトクラブ会員。数多くの写真展に何度も入賞している。
演題は『山岳写真の撮り方―私の流儀』。「プロではないので私の場合はこうして撮っていますよ」と述べて話が始まった。最初にレジュメに沿っての話。次いで氏が撮ったいくつかの山岳写真を提示し、この写真を狙った目的、カメラデーター、構図、注意すべきことなど 具体的な解説があった。この解説はとても分り易く、自分自身で山岳写真を撮る場合は勿論、山岳写真や風景写真などを観る場合にも非常に有益な内容だった。
演者は特に、機材、撮影条件、処理の仕方に絞って解説した。機材では、カメラ自体がデジタルかアナログかでそれぞれの好みもありどちらが良いかは今でも論争している。よく画素数が言われるがそれは選択基準ではない。2000万画素以上あるものでフルサイズ一眼レフがお勧めである。例えば、ニコンD800EとかD700とか。レンズは山に持っていくので軽量のもの、24―120mmであれば95%の撮影がカバーできる。その他に、三脚、フィルターがある。撮影条件では露出、ピント、手ブレに特に注意する。AEロックでISO autoが良い。但しISOを上げ過ぎるとノイズがでるのでカメラの特徴を知っておくことが重要である。処理の仕方では、デジタルでは現像・レタッチ・見本プリントまでが撮影者の仕事であると強調した。また、今はパソコンで画像処理が可能で自分の好みに処理できる。こうした基本的な事柄について丁寧に説明があったあとに、自身で撮影した入選作品を基にして解説があった。上手に山岳写真を撮るためには、まず主役と脇役を明確にする。例えば、山の配置、雲を入れるのかどうか、前景はどうするのか、画面での空や山などの分割の程度、クローズアップの判断など。また、写真で真ん中に大きく写す、いわゆる日の丸構図は山の写真では嫌われる。しかし富士山は別格とのこと。要は写真とは光の芸術であり、撮影する場合には、場所、朝か夕刻かなどの時間、それと自分のイメージした写真を撮る際にはチャンスを待つことなどが大切であると強調。なお、道健一氏は石川県出身で歯科医の由。具体的な分り易い説明や山岳写真の中に見える緻密さは、職業が反映されているのかも知れないと感じた。講演終了後、演者を囲んでの楽しい写真談義に花が咲いた。(文責 小清水敏昌)
出席者
道健一 石塚嘉一 小清水敏昌 下田俊幸 副島一義 鳥橋祥子 夏原寿一 西谷隆亘 原山恵津子 松本恒廣 宮川清彦 山口峯生(計12名)
■第67回サテライト・サロン町田報告
―― 12月10日実施 「追浜・鷹取山(139m)」――
鷹取山の石切り場跡は昭和30年代の登山ブームの頃、東都岳人に岩登りのゲレンデとして大いに親しまれていた。当時、私も岩登り訓練やら、都岳連遭対委員として遭難救助講習会の開催などと通い詰めたものだった。しかし40年代になると山頂直下まで大規模な住宅団地が造成開発されてくると鷹取山へ通うことも少なくなってきた。
町田サロンでは野外集会の一環として神奈川県各地の鷹取山(高取山)を何座か踏んでおり、そして「いるか丘陵」の中心地にある「追浜・鷹取山」も集会場として取りあげることになった。
今回は、京浜急行追浜駅から住宅街を経て鷹取山に至る最短距離コースは取らず、京浜急行六浦駅から自然環境の残る鷹取山の北尾根コースを選択した。
横浜市六浦の住宅街から横浜横須賀道路を越えて鷹取山北尾根道に入る。山道の右手は逗子市クリーンセンター、左手は六浦霊園だが樹木が深くそれほど気にならない。三角点好き者が横浜・横須賀・逗子の「三市境標識」近くの115m三角点を探しに寄り道するも藪や落葉が深くて見つからなかった。そのうち山道は湘南鷹取団地の住宅地が足下に見える高さになり、小さな上り下りを繰り返しながら樹林帯を往く。
最後はフィックスロープを伝って岩場道から縦走路に飛び出し、岩塔に囲まれた広場に達す。石切り場跡の切り立った断崖には許可を得た人たちだけが岩登りに励んでいるが、土曜日だったせいかハイキングに訪れた老若男女の多いこと多いこと。
139mの山頂展望台に立つと東に東京湾を挟んで千葉の山、西は江ノ島から伊豆半島と、四周360度すべての展望が良いが、富士山は雲に隠れていて残念ながら姿を見せてくれなかった。東にある石仏(磨崖仏)に寄り道してから西の神武寺に下る。神武寺は深山幽谷の寺といった感じだ。寺から北の渓谷に下ると紅葉があって期待以上の歓迎ぶりに思えた。
今回は初の岩登りをしない鷹取山訪問だったが、自然環境の残る山道の登り2時間、下り1時間半ののんびりした陽だまりハイクと360度の大展望があって、改めて鷹取山の良さと楽しさを味わった。(記 橋善護)
参加者
石原康生、北野忠彦、植木信久、片野スミ子、橋善護、鎌田正彦、丸山さかえ、植木淑美 計8名
■第66回サテライト・サロン町田報告
―― いるか丘陵を歩くA「番場ヶ谷〜獅子舞」――
11月26日(土)実施
一般的には神社仏閣めぐりの観光地として有名な鎌倉ですが、その鎌倉の沢をつめるという新鮮な響きの企画に魅力を感じ、参加させていただきました。
鎌倉駅東口から金沢八景行のバスに乗り込み、十二所神社バス停で下車して、長靴に履き替えレインウェアとザックカバーを装着し、住宅地の中を歩いていくと、ほどなく沢の入り口に到着。
なんと、その入り口にはかわいい狸が待ち構えていました。その狸が隠れた山の手前の道を入っていくと、小さいけれども澄み切った水の流れがありました。これが吉沢川でした。
大人というものになってから久しく、長靴で水の中をジャブジャブ歩いたことはないので、子供の頃に戻ったような不思議な感覚で川を遡上しました。
一般の人はまず入ってこない沢筋ですから、探検隊みたいな気分でワクワクしてきました。
休憩で周りを見渡すと、とても鎌倉とは思えない、深い山の中のような雰囲気でした。
源頭が近づくにつれ、藪や倒木もますます増えてきて歩きにくくなってきました。コースも分かりにくくなってきましたが、皆でエフを探しだして、急登の藪中を慎重に登りつめると、天園ハイキングコースに飛び出しました。山岳会の大先輩の方々の先導があってこそ出来る本当に貴重な体験ができました。
(吉川三鈴 記)
登山教室の第三期卒業生三人で町田サロンの野外集会に参加させていただきました。古の登山方法「沢を詰める」という意味がきちんと理解できないまま、参加してしまいました。
川を歩くのも、藪漕ぎも初めてでしたが、この日は天気が良く、山行に適した気温でした。川は透明感がある綺麗な水で、木漏れ陽を浴びながら気持ちよく歩くことができました。
山行中、エフ、右俣左俣、右岸左岸、本流支流と耳慣れない言葉を知りました。整備された登山道にあまりない、倒木を跨ぎ、潜って進む難題をクリアーする度に小さな小さな達成感がありました。そして、沢の水量がわずかになり、道なき急斜面を登って、ハイキングコースにポンと出た時、大きな達成感を味わうことができました。
登山教室の教えのお陰で獅子舞谷の泥道も転ばず歩けました。今回は、経験者と一緒でなければ出来ない体験をすることができました。銀杏の黄色がとてもきれいでした。
(小河今朝美)
番場ヶ谷は、大変貴重な中身の濃い2時間でした。古の登山をちょっとだけ体験させて頂き、体験談や小説では理解できなかった場面が少し分かった様に思いました。地図上で見かける「左俣、右俣」はただの地名?でしたが、「この沢を登って来たのだ」と、地図読みが面白くなりました。トップの植木さんは、前進を阻む枝を剪定鋏でチョキチョキ切りながら進んで行きました。それを見た時測量士さんの話を思い出しました。持っていた鎌がすぐに切れなくなってしまうほどの濃い藪や、頭上の空しか見えない高い笹原に、仕方なく沢を遡ったとか。何十年も前にワクワクしながら聞いた話がよみがえってきました。
急な崖を登ってハイキングコースの賑わいの中に出た時には、不思議な感覚を覚えました。先輩たちの折々のアドバイスも、心配そうに覗き込んでくる眼差しにも温かみが感じられ有難く思いました。
(石原 和子)
参加者
石原和子、小河今朝美、吉川三鈴、桐山裕子、鎌田正彦、高橋善数、植木淑美、植木信久 計8名
■第69回サテライト・サロン町田開催案内
―― 野外集会 いるか丘陵B「田浦梅林から畠山」――
梅の季節にのんびり田浦を訪れます。きっと寒椿の紅が彩りを添えてくれるでしょう。畠山(205.2m)から塚山公園を経て横須賀駅に下ります。
歩程:約3.5時間
・日程/2017年2月25日(土)
・集合/JR横須賀線田浦駅改札口 9:30
・締切/2月18日(土)
・幹事及び申込先/桐山裕子 TEL&FAX:0466-36-5342
■第65回サテライト・サロン町田報告
――「小菅の里と信越トレイルB」――
10月14日、今までのすっきりしない天気が名残なく晴天の朝。ヤッターと快哉を叫ぶ天候に恵まれた。
新幹線の飯山には民宿のご主人が待っていてくださった。車で万坂峠まで送っていただく。
今日の予定は万坂峠から袴岳を越えて赤池から希望湖まで。ブナの林がきれいである。真っ青な空なので、小気味よくフカフカの道を歩いて山頂についた。山頂からの眺めがまた素晴らしい!妙高がドーンと正面に。火打山もみえる、黒姫山もどっしりとその姿をみせてくれる。しばし感嘆の声をあげる。かつて登った山を違う山から眺めるのも山の楽しみのひとつ。山はいいなあとつくづく思う。ここで少し早い昼食とする。
さあ下りにかかる、久十九折の急坂がしばらく続いて平坦な道となり車道にでる、私たちは車道を行かず遊森トレイルに入り赤池にむかった。森の中の道でとても気持ちがよい。赤池では寝転んでしまった。気持ち良い。テント場がありここでテント張るのもいいねなどと言いながら出発した。沼の原湿原を通らないで希望湖に行こうとしたが、はっきりしないため湿原を歩くことに。オフィーリアの絵のような川が流れていて気持ちがいい。
希望湖までは小高い丘を越えなくてはならない。気を引き締めて歩いた。どこを歩いても落ち葉のクッション、ブナやダケカンバが青空に映えてみごとである。北国ならではの里山だろうか足に心地よい山歩きだった。
希望湖から車で今夜の宿メイプルハイムへ。またしても感激の第一声が、玄関にミントのマットが。汚れた靴でトントンとすると香りが満ちあふれる。何ともいえず心地よい。靴の汚れも落ちるし、すごいなあと。それから食事も美味しい。地元でとれた食材を使って洗練された味です。ほかの皆さんにも泊まってみてほしいなと。お酒も美味しい地元のお酒があります。
翌日も:また快晴でした。小菅の里へ古い文化遺産をめぐるのかなと軽く考えていました。
8:30地元のガイドさんの案内で立派な仁王門から登り始める。仁王門を背にして正面には妙高山が見事である。中世以前は斑尾山―風切り峠―小菅の線軸で霊場だったとのこと。中近世になって妙高を線軸とした霊場が出来現在に至るようです。この線軸にしたのは上杉謙信なのではと思われているとのこと。
小菅山は7世紀後半ごろ役の小角が開山した霊場で北信濃の3大修験霊場とされています。中世になって小菅山元隆寺として37の僧坊や10の末寺などが立ち並び広壮優美を極めました。戦国時代は川中島の戦いの余波で霊場地は焼失したといわれていますが、その後飯山城主らの尽力で修復・再建されました。現在は奥社、里宮、護摩堂、菩提院、観音堂、講堂、仁王門などが残っています。(小菅散策ガイドより)
小菅は地域の景観と自然の恵みをいかした生活を含めて文化的景観に指定(2015年1月)されている。石垣が残った僧坊の跡地には、住まいが整然と建っている。往時は修験者たちがあふれていて壮観だっただろうなと思われる。
小菅神社里社の神楽殿はすっきりとして、たたずまいが素敵である。天井はそんなに高くないが笛や舞が奉納されたのだろうかと想像するだけでもワクワクである。木造建築のすばらしさを改めて思う。小菅で一番好きなところになった。神楽殿を後に講堂へ、阿弥陀如来さまがいらっしゃるそうだ。とても大きく立派で、僧たちの読経の声は山に溶け込んで見事だっただろうなと思った。江戸時代の落書きがそのまま残っているという観音堂にお参りし、護摩堂(1750年再興)へ。ここは焼失する前の大聖院の跡地でここに至る梅鉢積の石垣は見事である。奥の石垣が壊れそうになっていて、梅鉢積とは少し違っている。積まれた時代が違うのかもしれないが石工の腕の違いだろうか石が飛び出してきている。修復には莫大な費用がかかるとのこと。沢山の人の手を借りて修復されたらいいなと思った。
さあ三の鳥居に入る。いよいよ奥社本殿へと続く杉並木の神域である。「気」がある。
樹齢300年といわれる杉並木は地元の住民の方々によって整備されているそうだ。鐙石から始まる謂れのある石や岩が続く、謙信が隠れたといわれる隠れ石、愛染岩、愛染岩の前には願いを叶える小さなお宮が祭ってある。小さいながら見事なつくりである。雪深い地で残っているのは大岩に守られているのだろう。それとも皆の思いだろうか。それにしても急登である。地元の小学生4・5年生が登るのだそうだが奥社本殿近くの道は鎖もあり緊張した。鎖を過ぎたところで奥社本殿(840m)にでる。国の重要文化財である。岩窟を背にしてよくもこんなところに建てたものだなと、昔の人の信仰心に深い尊敬の念を抱く。今も小菅の人は雪下ろしに登ってこられるとか、すごいことだと思う。文化遺産を守り維持されること大変なことだなと。
奥社から小菅山の山頂までは気持ちいいブナ林が続く。雪解けの水が北竜湖にながれるよう水路が作ってある。この水路の落ち葉の除去もなさっているそうである。北竜湖の水をまた集落に引き利用されているとか。
山頂への分岐あたりは平らで。昔は炭焼きの窯がたくさんあったそうである。ここで昼食をいただく。
北竜湖まではなだらかな山道かなと思いきや地元の言葉で“えらい”のだそうだ。“えらい”のニュアンスが歩いてみてわかったような気がした。滑りやすいかなりの急斜面である。
慎重に下りる。ススキのそよぐ中スキー場を横切って北竜湖のほとりについた。14:30頃下山してから見ると小菅山はなだらかな姿を湖に映している。急登があるとは思えないのどかさである。
仁王門でガイドさんとお別れである。丁寧に小菅のことレクチャーしていただき有り難かった。案内出来る故郷があるっていいなと思ったことでした。宿のご主人に飯山の駅まで送っていただくことになっている。私もここでお別れだ。時間があるので千曲川畔の菜の花の丘を案内していただく。飯山は稲の刈り入れが終わり田んぼのそこここに煙がたなびいている。千曲川がゆったりと流れている。宿のご主人が日本の原風景だと。好きなんだと仰ってそんな姿をみられる私たちも幸せな気持ちでいっぱいだった。飯山大好き!になった2日間でした。5人の至福のときでした。(藤下美穂子 記)
三日目の16日、時間の都合で、予定を変更し、周辺を散策しました。
宿の送迎バスで関田峠を越え、新潟県の日本海を望む光ヶ原高原に進む。
1972年に起こった「あさま山荘事件」を映画化した「突入せよ!あさま山荘事件」のロケーション地で2001年に厳寒の中で撮影が行われました。
事件当時に使用された鉄球や「難局打開の鉄球及び碑」があります。
関田峠は、越後と信濃を結んだ人、物の交流があった16ヶ所の峠の一つであり、「塩の道」とも呼ばれています。今年は、紅葉も遅いが積雪で変形しているブナ林、茶屋池に沿った道を心地よい緑の風を受けながら散策しました。ベンチでの、コーヒータイムでは静寂を楽しみメープルハイムに戻り、当地自慢の「オヤマボクチ入り蕎麦」を楽しみ飯山を後にしました。(平井安乃 記)
参加者
平井康司、平井安乃、藤下美穂子、植木信久、植木淑美 以上5名
■第36回サテライト・サロン吉祥寺報告
台風のためはっきりしない空模様の下、標記のサロンが9月28日午後6時半から開催された。今年は、日本隊によるマナスル登頂60周年目に当たり、国の内外でその記念の催し物が行われた。とりわけカトマンズにおいては4月下旬に盛大な式典が開催され、日本からも山岳会の関係者が大勢参加して盛り上げた。
今回のサロンでは 参加した神崎忠男氏に「マナスル登頂60周年記念in Nepal」と題した話をお願いした。最初にスライドショー形式でカトマンズでの式典の様子、映像によるパレードの様子が映され小林日本山岳会長や尾上氏などが沿道の市民へ向かって手を振っていた。ネパール山岳協会主催のレセプションでは大統領も出席し日本側の関係者と懇談している様子から、日本山岳会とネパールとは非常に友好的な関係があることが感じられる。既に日本山岳会会報「山」の6月号に報告として掲載されているが、スライドや映像で見るとその歓迎振りや熱気がより伝わってきた。後段では、神崎氏が独自に作成した10頁もあるカラーの資料を基に、日本隊のマナスル登頂成功までの足跡やヒマラヤ登山を巡る歴史的な出来事について詳細に語った。特にエベレスト登頂に関する日本隊や日中ネパールの3国遠征隊などの登頂ルートや当時のテレビ中継を巡る裏話などは、現場にいた神崎氏だからこその臨場感あふれる面白い話であった。配布された資料にはヒマラヤ8,000m峰25座やその登頂に成功した国別の一覧表。また 海外の山岳会とわが国の山岳会との相関図なども示されていて、その解説は非常に分り易く興味深いものだった。
現在ではスポーツクライミングが隆盛を極めており、単純に山を登ることにはメディアも関心がない。最近でも若い日本人が海外での大会で優勝し話題になっている。こうした時代になったことを、昔から登山一本で来たわれわれは考え直さねばならない。次の東京オリンピックの種目にスポーツクライミングが選ばれており、その競技場が検討されている。今後はクライミングが主流になる登山界であり、そのため国際山岳連盟も名称を変更する予定という。元日本山岳会副会長や日本山岳協会会長を務め山岳界の中枢に在籍し、国際的にも活躍してきた氏であるが故、これからの日本の山岳会のあり方にも並々ならぬ想いがあることが窺えた。その強い想いが、岳人としての教養に役立つような中身の濃い資料に反映されていると感じられた。この資料は、ヒマラヤに関する基本的な事柄がまとめられているので、多くの岳人はもとより、山岳部など山を愛する若者にも参考になる内容になっていると思う。
栄光ある山岳会の歴史と、これからの山岳会のあり方が問われる 正にターニングポイントに自分たちが立っていることに気づかされた有意義な講演であった。
終了後、いつもの懇親会場で話が続いた。(文責 小清水敏昌)
出席者
神崎忠男 市川義輝 今田明子 内田栄一 大橋基光 木村義雄 小嶋一男 小清水敏昌 副島一義 鳥橋祥子 中村哲也 西谷隆亘 西谷可江 長谷川公子 原山恵津子 松本恒廣 宮川清彦 三渡忠臣 山口峯生 吉田敬(計20名)
■第64回サテライト・サロン町田報告
―― 花紀行「尾瀬ヶ原と玉原(たんばら)、鹿俣山(かのまたやま)」――
日 程:7月29日(金)〜7月31日(日) 2泊3日
1日目:沼田駅→玉原ラベンダーパーク→鹿俣山→ブナ平→玉原湿原→ペンション(丸沼)
2日目:宿→戸倉→鳩待峠→山ノ鼻→竜宮十字路→ヨッピ橋→東電小屋→温泉小屋
3日目:宿→見晴→沼尻→大江湿原→沼山峠→七入バス停→会津高原尾瀬駅
関東有数のブナ林の中を鹿俣山に登り、次の日は尾瀬ヶ原から尾瀬沼で湿原の花を愛で、3日目は沼尻から沼山峠を経て七入に至る旧沼田街道を歩く7時間コースに挑戦する。
29日、11時30分に沼田駅に集合。駅には今夜の宿の車が迎えに来ていて10名が乗り込む。
沼田は今、ラベンダー祭りの真っ盛り。又大河ドラマ「真田丸」の舞台でもあり、多くの六文銭の旗を横目に見ながら、たんばらラベンダーパークの登山口へと急ぐ。
早々に身支度を整え登山道に入ると、そこは水分をたっぷり含んだが鬱蒼としたブナ林が広がっていた。日が差し込む場所を見つけて、まずは腹ごしらえをする。見上げるとブナの木に黒々と苔が沢山ついている。この辺りは降雪量が多いからだろうか?
高度を上げるに従ってブナの木漏れ日が気持ちよく、何処よりも沢山のブナの大木や若い木が育っている様子がわかる。頂上近くはかなりの急坂でクマ笹が登山道を塞いでいて蒸し暑さを感じるが、時々、目にも鮮やかなブルーの山アジサイが一服の涼風をくれる。
頂上からは西側に谷川連峰の稜線が望めるはずであるが今日は雲の中。
眼下には玉原スキー場が見え、その先に玉原湖が光っている。
スキー場には五万本のラベンダーが咲き揃っていると言うが、さすが頂上からは見えない。
山頂直下の分岐まで戻りブナ平を目指す。あまり人が来ていないのか、登山道は夏草や四葉ヒヨドリに占領されている。ブナ平までは背丈ほどに伸びたクマ笹に覆われ100mほど藪こぎを強いられた。
ブナ平に近くなると視界が明るく開け、巨木、古木が沢山あり吹き抜ける風が心地よい。
玉原湿原にも寄ってみたが、もう夏の花は終わりを告げ、コバイケイソウは茶色くコオニユリが数輪咲いていた。途中、明日のためにブナの湧水を汲んで、センターハウスで待つ宿の車へと急いだ。
17時20分、丸沼にある美味しい食事で定評のあるペンションに着く。
何回も来ているメンバーお気に入りの宿。夕食は目に心に身体に十分楽しめるお料理が並んだ。
30日7時、今日は宿のご厚意で鳩待峠まで送ってもらう。尾瀬は何十年ぶりという人が多く、鳩待峠の変貌ぶりには目を見張った。90kgの荷物を背負ったボッカと一緒になった。
昨日と同様にクマ出没注意の看板と靴底に付着した種子を持ち込まない様にとの注意書きがあり、しっかりマットで登山靴の土を払う。ホイッスルと鈴で警戒した。
8時、準備体操をして、山の鼻を目指して樹林帯の中を下って行く。以前はぬかるんだ道を歩いた気がしたが、しっかりした木道や階段がつき歩きやすい。ヨセ沢、テンマ沢を過ぎたあたりから紫のソバナや大きなマルバタケブキ、トモエソウの黄色い花が目立ってきた。
川上川を渡って山の鼻に着き、ここから待望の尾瀬ヶ原散策が始まる。
山小屋があるので急に人が増えてきた。ビジターセンターで情報を仕入れながら休憩する。
リーダーが「今日は、花紀行山行です。コースタイムを気にせず花を楽しみましょう。」と皆に声をかける。湿原の中に延びる木道を歩き、拠水林(注)を抜けると池塘が点在する上田代、尾瀬ヶ原が一番狭まった牛首に着く。楽しみにしていたヒツジグサはすでに秋色を帯びていたが、あちこちで可憐に咲いていた。今を盛りに咲いているのはオゼミズギク、ナガバノモウセンゴケ、キンコウカ、コバギボウシ、サワギキョウは、なぜか木道と木道の間で咲いていた。一番安全の場所を見つけたのだろうか?
振り返ると雲ひとつない緩やかな至仏山があり、池塘の間を縫うように延びる木道の先にはどっしり構えた燧ケ岳、少しガスがかかっている。皆で深呼吸、尾瀬の匂いだ。
竜宮現象(湿原の一方から流入した水流が池塘の下を通り他方に流出する)を見て、竜宮十字路を左折しヨッピ橋から東電小屋を目指す。11時東電小屋の休息所で昼食を取る。
雲行きが怪しくなったので、急いで今夜の宿に向かう。途中でパラパラと少し雨にあったが、本降りの前に温泉小屋に着きホットした。14時から温泉に入り、夕食はおしゃれなワンプレートのお皿に沢山のおかずが並び、そのうえ天ぷらも一皿ついて大満足。19時、雨の音を聞きながら眠りに着く。
31日、窓を開けると、至仏山にはもう陽がさしていた。しかし、昨夜は、たっぷり雨が降ったようだ。早めの出発にそなえ、昨夜のうちに朝食をおにぎりにしてもらい、少しお腹に入れて6時05分に出発。
木道はいっぱい水分を含んでいるので気が抜けない。まずは下田代の見晴を目指す。
湿原には霧が流れ、白樺が遠くにかすみ、その上に雲海が広がり至仏山には雲ひとつない。湿原の草花はたっぷり露をのせて輝き、スギナについた水滴がクリスマスツリーのガラス細工のようだ。露に光るクモの巣の繊細さにも皆から歓声が上がる。自然の造形は何物にもかなわない。
6時30分見晴で小休止。山小屋から続々と皆が出発している。樹林帯の中を進み、段小屋坂を経て、白砂田代から沼尻へ出る。尾瀬沼の北岸を通って大江湿原に出るが、尾瀬沼も乾燥化が始まっているようだ。期待していた大江湿原でもニッコウキスゲは既に実になりワレモコウ、リンドウ、ツリガネニンジン、チョウジギクが咲き、湿原は秋の装いだ。タケシマランもゴゼンタチバナも赤い実を付けている。
11時に沼山峠に着き休息所で昼食をゆっくりとる。
12時、いつもなら、ここからバスに乗るところだが今回は沼山峠から旧沼田街道を七入まで歩く。
バス停のトイレ横から山道へ入る。沼山峠から泡吹きの滝を目指し、道行沢(みちぎさわ)に沿うにかかる五番橋から一番橋まで行けば七入は近い。
カニコウモリの群落が白い花を付けていた。昔、コメツガやダケカンバの落ち葉が降り積もった街道を檜枝岐の行商人はどんな荷物を担いで沼田まで運んだのだろう。石の祠に往時を偲んだ。13時55分七入バス停着。増便バスで会津高原尾瀬口駅まで行き、16時15分解散した。(丸山さかえ 記)
(注:植木)拠水林:湿原や草原を流れる川に沿って両岸に帯状に続く林。川によって運ばれた土壌や栄養が乏しい湿原の樹木を育てている。尾瀬ヶ原は、シラカバが中心。
参加者
田中恵美子・藪田益資・小宮真理・鎌田正彦・桐山裕子・平井康司・平井安乃・丸山さかえ・植木信久・植木淑美 計10名
■第63回サテライト・サロン町田報告
―― 古道シリーズ「鎌倉古道 小野路の里山」――
平成28年6月4日(土)晴れのち曇り
2年前に新設された町田市小野路宿里山交流館に集合した13名は、10時40分、平井康司リーダーによる小野路の古道の歴史や里山・谷戸の現状の解説を聞き、期待に胸を膨らませながら、出発した。
まず、古い歴史を誇る神仏混交の小野神社(社殿の横に梵鐘がある)や萬松寺(明治初期に小野郷学の教場であった)や多数の地蔵尊 (*注@)が並び立つ箇所を経て、萩生田牧場がある丘陵の上に出る。牛舎では10頭ほどの牛がのんびりと休んでいた。この先の分岐で、左に折れて雑木林の中の小道に入る。小枝を揺らしながら吹いて来るフィイトンチッドをたっぷり含んだ風を吸いながら気分よく歩く。風に乗ってホトトギス、ウグイス、コジュケイなどの鳴き声がよく聞こえてきた。
これから先は要所要所にある道標や解説板を確認しながら、西方向にある都立小山田緑地へ行った。
途中に小さな社(*注A)に立ち寄る。元に戻り、町田市が管理する大規模な竹林の横を通り、急な木の階段道を下り、立派なバイオトイレの脇に出ると、目の前は小山田緑地の駐車場だ。この付近には古奥州道と呼ばれる古道の痕跡も見られた。
さて、その名の通り全域緑で覆われた小山田緑地に入り、展望が最も良いという「みはらしの丘」に登る。富士山はあいにく見えなかったが、大山や丹沢山塊がよく見えた。相変わらず吹いて来る爽やかな風にあたりながら昼食タイムとした。食事中、普段は姿をめったに見せないガビチョウがすぐ近くのニセアカシアの大木に止まった。午後はバイオトイレまで戻り、奈良ばい谷戸を行き、浅間神社に参拝し、昔の宿場町の面影が残る小野路宿跡を歩いて、14時15分頃、出発点の里山交流館に戻った。澄み切った紺碧の空のもと、爽やかな風が吹き灌ぐ小野路の古道や里山のハイキングを心行くまで楽しんだ。
行程 約3時間30分 歩数 約2万歩 (守屋龍男 記)
*注@ 廃寺となった近隣の寺から、この臨済宗建長寺派の萬松寺に地蔵と石塔およそ30基が移されたもの。中でも、江戸末期の灯籠型六地蔵尊は珍しく、高さ2m、胴は四角、全体は六面型をなしており、最も貴重なものである。
*注A 平安時代末期、のちに鎌倉幕府の御用人となった小田山氏の支城として築城された小野路城址。(植木 記)
参加者
平井康司、平井安乃、高芝一民、原満紀、石原康生、北野忠彦、薮田益資、植木信久、桐山裕子、仲川侑子、守屋龍男、鎌田正彦、植木淑美 以上13名。
■第35回サテライト・サロン吉祥寺報告
5月18日午後6時半から、いつもの本町コミセンでサロンが始まった。
今回の演者は調布在住の宮川清彦氏。演題は「ケニヤ山登山を契機に尊敬する偉大な登山家、シプトン/ティルマンの足跡を語る」。最初に、ケニヤ山登山についてスライドを示しながらの話。本年2月に御子息の居るナイロビに行き4泊5日の登山計画で出発したが、2日目にPoint Lenana(4,985m)を目指している途中で足取りが重く体調が悪くなり、ついに撤退してしまった由。その時に、英国の偉大な登山家でエベレスト遠征や南米等の未開地の探検家でもあったシプトンのことを思い出した。1970年秋に宮川氏らの同志社大学登山隊はダウラギリT峰の登頂に成功した。その帰りプーンヒルの丘陵で、シプトンと遭遇した。宮川氏は学生時代からシプトンを尊敬していて、当時の写真で彼の顔を憶えていたので、とっさに もしかしてと声をかけたという。シプトンが活躍した1930年代の英国では世界最高峰エベレストへの登頂計画を立て国家の威信をかけて是が非でも成功させたいとして遠征隊を送っていたが、なかなか成功しなかった。そこで、過去に5回もエベレスト遠征をしたことのあるシプトンを隊長に選任した。ところがエベレスト委員会は1952年9月その任から外しジョン・ハント(陸軍大佐)を隊長に選んだ。この件はさまざまな憶測を呼んだが、結局1953年6月にエベレスト登頂に成功した。失意のシプトンは登山活動を止め、1960年頃からパタゴニアやフェゴ島などの未踏の地を探検するようになった。一方で、シプトンは英国総領事として中国の最西部のカシュガルに赴任(1940-42年)している。当時その地は、中央アジアの情報収集の中心でロシアの南下政策とそれを阻止しようとする英国のいわゆる“Great Game”と呼ばれたスパイ活動の地域であった。もう一人のティルマンはシプトンと共にケニヤ山、エベレスト(ティルマンが隊長)、ムズターグ・アタなどに行っており登山仲間であったが、ティルマンはシプトンに呼応するかのように登山界と決別しグリーンランドを中心とした海洋探検家になった。
宮川氏は資料「ケニア山登山の紹介」「E Shipton とW Tilmanの足跡を辿る」「19世紀後半〜20世紀を代表する登山家・探検家」を基に解説された。とりわけシプトンとティルマンの足跡を年表にして比較ができる資料は、二人の登山史のことや辺境の地を探検する冒険心を持っていたことがよく分かった。この二人は共に派手なことが嫌いで、真摯に山に取り込むことなどの登山に対する考え方が非常に似ていた。登山界を退いたシプトンであったが、1964年英国山岳会の会長に就任している。
宮川氏の講演から、当時活躍した岳人の登山哲学に触れ、山を巡る歴史の一端を知ることができた。当日、演者の宮川氏は体調がすぐれず、医者に入院を勧められていたにも拘らず医者を説得し、心配する御家族を伴って杖を突きながら来場。講演冒頭に体調不良とのお話があり、さぞかしお辛いなかでの講演であったと拝察。その責任感に頭が下がります。翌朝早く新宿の大学病院に入院された由。ご家族のお話しでは、その後加療の結果 回復されて、最近退院されたとのことですのでご報告いたします。
講演終了後、吉祥寺サロンの過去3年間の会計や活動について世話人から資料を基に報告があった。3年間で全15回の開催があり最多出席回数の第1位は12回(山口峯生)、第2位11回(金子浩)、第3位9回(宮川清彦 西谷夫妻)で敢闘賞として宝くじ券が渡された。また講演を2回行った3名(岡義雄、三渡忠臣、宮川清彦)にも宝くじ券が渡された。ちなみに、1等当選は7,000万である。恒例の懇親会には出席者の半数以上が参加した。(文責 小清水)
出席者
宮川夫妻 福井(宮川氏令嬢)、市川、大橋、岡、鬼村、金子、小嶋、川越、坂田、鈴木、田村、松本、平井康司、中村哲也、西谷夫妻、三渡、原山、副島、小清水(計22名)
■第62回サテライト・サロン町田報告
―― いるか丘陵を歩く@ 「イルカのあたま 大地沢」――
5月24日(火)実施。
町田サロンの新シリーズ「いるか丘陵を歩く」の起点として、今回イルカの頭の分野、くちばしの先端・大地沢から高尾方面に伸びる尾根を歩いた。町田サロン初参加の大島さんを迎え総勢6名の小人数ながら晴天に恵まれ、JR相原駅からバスで青少年センター入り口で下車、9:20整備された道を大地沢青少年センターへと向かう。
9:40「大地沢青少年センター」は豊かな自然の中で様々な野外体験ができる町田市唯一の公共施設である。キャンプ地域にある広い自炊場所、2年前5月に催したピザ焼き試食会を思い起こす。あの時満開だった蛇結イバラは、今はちらほらあるのみ。10:00「境川源流地」。標示板を挟んで左右の小石混じりの溝からチョロチョロ、左側では僅かに流れ、右側は地下に潜っているのか湿り気程度の状態だ。果たしてこれが川になるのか。僅かな水の流れはなお深く山中に遡る。説明文によれば「多摩丘陵と相模台地を区分する断層線上などを流れて全長約52km先の片瀬西浜に注ぐ二級河川」とある。想えば此所はイルカのあたま、嘴から滴り落ちる水が集まり流れ川となり、海へと下るのか。
少し戻って登山道を草戸峠へ向かう。10:25草戸峠、ベンチが4つある程度の広さだが高尾山の横顔がよく見える。目の前の草戸山はカットし、10:35高尾方面「四辻」へと東高尾山稜を下る。暫く行くと右の尾根上に三角点があるとの北野さんの指摘で、有刺鉄線に沿って続く緩やかな尾根を少し入ると11:00四等三角点があった。北野さんが計器を取り出し何かと計測、記録する。流石である。地図では△342.9m峰、八方台。この尾根筋は拓大八王子キャンパスに至る。元に戻り幾つかのピークを登り返し、11:40適度な広さの小ピーク、ここでは涼風が吹き通り明るく、絶好のランチタイムとし、一同ゆったりと舌鼓をうつ。心地よい。
12:10どんどん下り、12:40「四辻」着。薄暗く大きな道標、これより高尾山口駅への分岐を左に分け、京王高尾駅へ向け金毘羅尾根を歩く。いきなり急登、ぱっと視界が開ける。東側が大きく落ち込み八王子、新宿方面を見通し、眼下に墓地が広がる。この光景にはしばし唖然とする。尾根道をどんどん下る、前の東高尾山稜より歩き易い。
13:30尾根道が終わり団地入口、舗装道路とは別に民家の脇をすれすれに細い山道がくねくね続く。これが古い宮参りの道なのかと訝りながら進むと大鳥居、急階段を駆け上がると13:45「浅川 金毘羅宮」の社殿に着く。由来文には、明治30年代に建てられた社殿もその後、幅広い人々の浄財で建て替えられ現在に至るとある。急な階段を下り住宅地を抜け、14:20京王高尾駅に到着、解散した。
(記/高芝一民)
※「いるか丘陵」については、「たま通信24号」18頁をご参照ください。
参加者
石原康生、植木信久、植木淑美、大島洋子、北野忠彦、高芝一民 6名
■サテライト・サロン多摩休会のお知らせ
日頃、登山界でのご活躍嬉しく思います。
一年間第1土曜日、第3土曜日に開催させていただきました「多摩サロン」を休会させていただきます。一年間ご来席いただいた会員にはお引き立ていただき本当にありがとうございました。登山界のトピックス、話題、登山史、探検史、国際事情など、登山界の話題のオワシツとして自分自身勉強させていただきました。
個人的なことですが、高齢で自分の登山もおぼつかなくなりました。若い人がやりたがっているオリンピック競技スポ−ツクライミングのお手伝いの合間に海外登山同好会での見聞ウォ−クを楽しみたいと考えています。6月には中国登山協会の案内で万里の長城を歩き、秋にはチョモランマのベ−スキャンプを訪れ、チベットとからネパ−ルへの越境の山旅を予定しています。ご一緒出来れば幸いです。
「多摩サロン」ありがとうございました。
神ア忠男(6002)
■第61回サテライト・サロン町田報告
―― ミツマタ満開の西丹沢 世附権現山 ――
4月2日実施
花曇りの朝、小田急線の新松田駅から西丹沢自然園行きのバスに乗る。途中満開のコブシ、さくらを眺めながら浅瀬入口バス停で降りる。トンネルを抜け、のどかな湖畔で鶯の鳴き声を聞きながら歩くと、登山道入り口の滝壺橋に到着。そこは地味だが四段の滝が垣間見られ、水は丹沢湖に注がれている。
つづら折りの急登で汗をかきながら一歩、一歩進むと春の訪れを告げる新芽もチラホラ。杉林の間伐材を切り倒した丸太が無造作に置かれ、登山道が荒れて歩きにくい。山仕事の大変さを実感するが、間伐材の再利用を望みたい。淡い黄色の蕾に覆われた満開のミツマタ群生地が我々を向かえてくれ、一同感激した。
晴れた日は富士山が見渡せるはずのビューポイントで昼食をとる。気温も5℃近くに下がり、底冷えを感じ、早々と権現山に向かう。ここでも登山道の左右にミツマタの花が咲き誇っていた。アップダウンを繰り返し、山頂直下の山の神と二等三角点が置かれている権現山頂に到着。
眼下には、丹沢湖と中川温泉が望まれるが、生憎西丹沢の山々の展望はきかなかった。シジュウガラのさえずりを聞きながら、急降下の道を慎重に下り、二本杉峠に到着。この辺りは昔、茅葺き屋根をふく萱の集積地だったと地元の古老から聞いたことがあるが、今はその面影もない。集落手前で、名もない地元の氏神様が祀られているお宮に参拝。本日の山行の無事を感謝して帰路についた。
(記 植木信久)
参加者
石原康生、竹中彰、本間正士、北野忠彦、高砂寿一、植木信久、桐山裕子、木谷嘉子、清水茂美、富永真由美、植木淑美 計11名
■第60回サテライト・サロン町田報告
―― 鎌倉古道早の道 ――
3月30日実施
鶴川駅に集合した面々は、千葉、羽村、国分寺、調布、小田原からと多彩であった。嬉しい限り。
鎌倉古道早ノ道は、その昔、早馬で駆け抜ける「高速道路」であったろう。町田市と川崎市という行政区の異なるが故に幸運にも残された緑濃い尾根道を行く。
能ヶ谷西緑地でミーティング後、訪れた神明社でピンクに染まった桜を愛でられたが、春霞で富士山も大山も確認出来ず残念であった。それでも、満開の桃の花に囲まれた「風の谷幼稚園」界隈の風景に心和む。
真光寺公園のテーブルでチーズフォンジュほか和洋中華と豪華なメニューでお花見の開宴。〆は、竹の子おこわ。
午後、布田道から栗木道へと竹林の多い尾根を進む。予定の別所を通過、「もう少し谷戸風景を歩きたい」と小野路宿まで足を延ばした。みなさんの健脚ぶりに脱帽。古道について、それぞれが蘊蓄を語られ、勉強になる。近藤勇や沖田総司が、この布田道を足しげく通ったのは、新選組を結成する以前の事であったとか。。。
人が生活をする谷だけ「谷戸」と呼ばれるとのこと、それだから、谷戸風景には何とも言えぬ懐かしさを感じるのだろうか?田植え後の水の張られた田、揺れる稲穂、さ掛け風景、それぞれの季節の谷戸風景を思い浮かべるだけで楽しくなる。枝々の明るい緑に春を感じながら、小野神社前で解散とした。5時間のショートトリップであった。
町田サロンは、今回で開催から満6年、2016年度の計画を終了し、60回(内3回は雨天中止)、延べ参加人数861名を数えた。4月2日より2017年計画を開始する予定。
(記 植木淑美)
参加者
高芝一民、原満紀、石原康生、北野忠彦、竹中彰、薮田益資、上田昌子、植木信久、平井康司、高砂寿一、仲川侑子、西谷隆亘、西谷可江、植木淑美 計14名
■第34回サテライト・サロン吉祥寺報告
―― オーロラの美しさと科学的な話 ――(演者:小嶋一男氏)
3月23日実施
◎「オーロラ」とは?
1)言語
オーロラ=ギリシャ語 {ローマ神話の暁の女神}、アッサノ=イヌイット語、極光(北極光、南極光)=日本語、Northern Lights、 Southern Lights =英語
2)発光する場所
@緯度:北緯80度、南緯80度の周囲近辺
A高度:地上 100km〜300km(成層圏)
3)発光する原理
太陽から地球に降り注ぐ「太陽風」のプラズマが地球の夜側に流れて地球表面に存在する窒素(N)が薄紫、ピンク、黄色く発光する。 酸素(O2)は緑白色に発光する。細い帯が最初に発生してから、カーテンの様に横に広がっていく。天候が晴た時に観賞できるが、其の時地上は寒いです。
尚、太陽と地球の距離は1億5千万kmで、「太陽風」は約100時間で地球に到着する。又、地球よりも太陽に近い水星、金星、は窒素、酸素、が存在しないので 発光しませんからオーロラはありません。
4)発光する時期
@11年周期で長い日数の間発光する。1994年、2005年、2016年(今年)。
Aより多く発光する(太陽の黒点が見える時)。太陽の自転周期の 27日毎。
◎プロジェクターでの映像(今年3月11日)を観賞した。
@写真(動かないオーロラを観賞、最初はスクリーンを揺らした。)
A動画(オーロラは動かないとなんだか判らないが、動いたからーのオーロラの醍醐味を堪能しました。)
◎なぜ、小嶋一男氏がアラスカのオーロラを?
アラスカン・ハスキー犬そりを操作して旅行する(御者)達人でした(資料より)。
@最初は1968年5月の日本大学山岳部のグリーンランド遠征隊に参加、日本人として初めて氷床の横断に成功した。犬ぞりの操作を会得した御者になった。
Aアイディタロッド国際犬ぞりレースに挑戦する。
(1)上記レースは、毎年3月初めの土曜日にアンカレッジ(北緯61度)をスタートして、1049マイル(1688.km)離れたノーム(北緯65度)をゴールとする8日〜15日間の12〜16頭立てのアラスカン・ハスキー犬の犬ぞりレースです。
・動物愛護が厳格で、犬はブーツを履き、2000足も消費します。
・レース途中の休憩時間も決められていいます。
・ケガをしたり、体調の悪い犬は、飛行機で運ばれます。
・小嶋氏はドッグフードを3トンの援助を受けています。
(2)レースのコースの「アイディタロッド・トレイル」は、アラスカ原住民が使っていて、1880年〜1920年のゴールド・ラッシュ時の通路で、夏季は海上を蒸気船で、人、生活物資、砂金、が運ばれていました。併し、10月〜6月の氷で閉ざされた期間は、犬ぞりが主な交通手段でした。
(3)1925年ノームでジフテリアが大流行して血清を届けようとした時、悪天候の中、飛行機のパイロットが旅行中で不在、−40度、ソリも犬も吹き飛ばされる位の強風の中、20人のマッシー(御者)が、6日間(127時間)で運び、このトレイル(通路)が有名になった。
(4)レースは、1967年に250マイルで始まり、1973年から現在の1000マイルになった。
(5)小嶋一男氏の「アイディタロッド」への挑戦歴。
・1985年 初めて挑戦する。 27位 完走。
・1987年 30位 完走。
・1989年 33位 完走。
・1991年 46位 完走。
○1991年 史上初の米ソ間犬ぞりレース「IIOPE’91」 7位 完走。
△1993年 アルピロッド国際犬ぞりレース(ヨーポッパ・アルプス)
・1994年 47位 完走。
・1995年 32位 完走。
・1996年 33位 完走。
☆「北極ロマン紀行探検隊」
シベリア・バイカル湖〜グリーンランド・アンマンサリック迄の22000kmの犬ぞり紀行。
・1997年 (a)ロシア・バイカル湖〜(b)シベリア・テェルツキー迄の7400kmを走破。
・1998年 (b)〜ベーリング海峡〜(c)北米・ポイントバロー迄の6500kmを走破。
・1999年 (c)〜(d)カナダ・ケンブリッジベイ迄の5400kmを走破。
・2001年 (d)〜(e)カナダ・最北端の村グリス・フィヨルド迄の2500kmを走破。
・2003年 (e)〜(f)グリーンランド・アンマンサリック迄の2800kmを走破予定が、超暖冬の為に断念!
・2004年 (e)〜(f)グリーンランド・アンマンサリック迄の2800kmを6月30日、走破。8年で完走。
尚、夏季は、犬は現地の友人に預かって頂いている。
◎将来の夢は・・・
オーロラの発光現象を集めた発電所を作り、地球へ電力を供給したい、との事です。
現在の研究は、かなり進んでいます、との事でした。
*追記*
・2012.2.カナダ・ユーカンクエスト犬ぞりレース 完走
・2015.3.アラスカ・アイディタロッド犬ぞりレース 完走した本田有香〔43〕さんが2015年第20回植村直己冒険賞を受賞しました。(記録:副島一義)
参加者
小嶋一郎、市川義輝、金子浩、宮川清彦、樋口裕幸、平井一男、西村智磨子、島橋祥子、大島洋子、坂田美知子、鈴木洋子、(懇親会のみ 三渡忠臣氏)小清水敏昌、原山恵津子、副島一義 計15名
■第61回サテライト・サロン町田開催案内
―― 西丹沢「ミツバ岳、権現山」――
まさに春真っ盛り、黄金色のミツマタの花を愛でに、世附権現山からミツバ岳(大出山)へと辿ります。
集合:2016年4月2日(土) 小田急線 新松田駅北口改札口 8時15分(時間厳守)
行程:新松田駅 8:25発(富士急湘南バス西丹沢自然教室行き 980円)⇒9:30細川橋バス停→二本杉峠→権現山(1018.8m)→ミツバ岳(834.5m)→滝壺橋→浅瀬入口バス停(新松田駅行き、900円)⇒ 新松田駅(16時〜17頃解散予定)
※コースタイム 約4.5時間
※新松田駅バス停 北口@発 8:25、9:35 (土日祝日)
※浅瀬入口バス停 発:15:00、16:00、16:45、17:25 (土日祝日)
(AМは、11:45のみ)
地図: 1/25,000 中川、山北
持物:地図、コンパス、雨具、ライト、昼食、非常食、非常用品
会費:200円
担当:植木信久(080-1182-1646)、植木淑美(080-1348-7164)
申込:植木淑美 042-734-1498 (TEL&FAX)
〆切:3月25日(金)
■第26回サテライト・サロン立川報告
――青梅七福神巡り――
2016年1月7日(木)開催
年明け早々1月7日、立川サテライで青梅七福神めぐりを行った。八木五郎さんの地元の山登りの会から9人が加わって参加者は22人と賑やかだった。午前9時、JR青梅駅に集合。参拝し終えるのには4時間は必要だというので,遠く離れたところからお参りすることにした。新年のあいさつを交わし早々に出発。昨年来、暖かい日が続いている。3月下旬から4月の陽気らしい。
最初は市の北にある曹洞宗の古刹/聞修院にお参りする。寿老人にお迎え頂いた。小曾木街道を30分ほど歩いた。途中のトンネルは青梅坂トンネルというそうだ。街道を取って返し、次は一番西の福禄寿を明白院に尋ねる。さらに和田橋で多摩川を越え地蔵院/布袋尊に。樹齢300年という臥龍梅がある。さすがに梅の開花はまだ早いようだったが、ロウバイが満開だった。
街中を清宝院/恵比寿、延命寺/大黒天、宗健寺/毘沙門天と巡る。それぞれに甘茶、かりん茶などの接待を受けた。いろんなご利益がある。長壽、除災招福、商売繁盛、学業成就、子孫繁栄…。民家の軒先にサクラソウが満開だった。普通は文字通り桜の頃に咲くのだが、いったいどうしたのだろう。最後は玉泉寺/弁財天だ。水と音楽を司る。拝むと財宝弁通し絶ゆることなしという。終始ありがたい一日だった。忘れてはならない。安全登山もしっかり祈願した。3時ごろ東青梅駅で終了。2人の万歩計が2万7000歩を示していた。
(文/橋重之)
参加者
大船武彦、川越尚子、川村光子、北口マリ子、酒井俊太、澤登均、橋郁子、橋重之、富澤克禮、仲谷朋尚、西谷可江、西谷隆亘、廣田博、八木五郎、(岩波久美、岩波範也、柴田泰雄、芹沢奈津江、芹沢泰雄、高森千夜子、田中加津子、宮崎淳次、渡辺功) 計22名
■サテライト・サロン多摩報告
1月2日及び15日開催
多摩サテライトサロンは、朝会サロンとして第1土曜日午前8時から、夜会サロンとして第3金曜日午後7時から例会を続けている。これに従って1月2日には高幡不動尊に初詣で、安全登山を祈願した。参拝者・お賽銭は少なかったが、でっかく大きな安全を祈願し、併せて登山の普及、登山界の発展を祈念参拝した。参拝を終えてささやかな新年茶会。今年の登山・登山界、また具体的な日本山岳会や東京多摩支部への雑言、放談会。聞く人には聞きにくい愚痴も飛び出すが、そんな言葉の端々にも本音や真実がチラホラ。これからの日本山岳会、登山界を危惧しながらも会員としての信念、組織としての理念に向かって慎重に真剣に取り組んでいかなければならない想いを確認、お互いを讃え合い、元気を期待して散会した。続いて15日は、海外登山事情についての情報交換と勉強会を行った。昨年亡くなった松浦輝夫会員の偲ぶ会で上映された「松浦輝夫、3つの8000m」の映像(約20分)を鑑賞した。松浦会員は,植村直己会員とともに1970年、日本人で初めてエベレストに登頂した。
(記/神ア忠男)
■第59回サテライト・サロン町田報告
「新年会 葛城〜発端丈山」
実施日:1月5〜6日
町田サロンの沼津、三島の海岸近くの山を歩く新春山行は、昨年に続き2年連続となる。神戸に育ち、中学生から裏山を駆け巡ってきた者として海の良く見える山を歩くのは、この上なく嬉しい。
2016年1月5日三島駅に集まった13名は、伊豆急に乗換え、のどかな田園風景を楽しんだ。田京駅で降りると、目指す葛城山は真っ青な空にくっきりと聳えている。小坂ミカン狩り園は、人はまばらで、シーズンは終わったのだろうか?
まだまだ美味しそうなミカンが枝に実っている。ほとんどの人がケーブルを使うのか、歩いているような登山者はいない。
急な坂道で軽四輪に追い抜いてゆかれる。かなり高度を上げたところで、先の軽四輪車を運転していた人が道路際のネットの補修をしていた。
電気柵の警告を離れて、竜神岩を過ぎると葛城山の頂上が近づいてきた。先ほどの登山口から約1時間ちょっとの行程で頂上に立った。
ケーブルで上がった人たちで大賑わいである。どこでも同じ観光地の様相である。富士山は、あまりにも雪が少ないので、ずいぶん遠くに離れているように見える。まるで初夏の様に上の方に雪が残っているだけだ。頂上の直下で、暖かい陽だまりでゆっくり昼食をとる。そろそろ時間になった。午後の時間になると急に人気もなくなってきた。頂上を後にして、やや急な坂道を下ると林間の山道になる。静かな木立を通って少し急な道を登ると発端丈山のピークとなる。
内浦湾の海を眺めると中学の頃の思いが重なってくる。
三津浜と長浜の分岐を過ぎて、ミカン畑を過ぎると海岸に出た。
神戸の西の須磨から六甲の山並みの隆起が始まる。子供の頃からの遊び場が裏山だっただけに、六甲の西のあたりが思い出された。
夜は、昨年と同じ民宿「やま弥」で、上田さんと私(藪田)の為の傘寿のお祝パーティーとなる。嬉しい気持ちで、温かいお言葉をお受けした。
1月6日は、金冠山(816m)から「沼津市民の森」の大スギの巨木を見て、禅長寺へ下るコースである。宿の車で登山口へ送られる途中、戸田湾を眺める戸田峠近くの「こぜ」の展望台に寄ったのも興味深かった。
バスで、金冠山頂上近くまで登ったので、すぐにピークに立った。
あまりに雪の少ない富士山は、やはり寂しげだった。
ときどき、富士を見ながら木立の中を歩くのも、あちこち角度より雰囲気が変わり、下の風景との対比が楽しい。ミカン畑が出てきた。道端に転がっているミカンも拾って食べると結構いける。
道中、鎌田さんと交わした会話がまた楽しい。
彼は、第二の人生を歩み始めてから、ヤマハ音楽教室でピアノを習い始めたということでした。永年、クラシックで飯を食いながら、何一つ曲を弾けない者にとって、これほど羨ましい話はありません。
グリークのペールギュント組曲の「朝」を、思わず口ずさんでみました。
「そうだ、その曲だ」と相槌を打ってくれました。
このような会話を交わすなんて、思いもよらなかっただけに驚きで、山行の楽しさが大きく、大きく膨れ上がった。
(記:藪田益資)
参加者
藪田益資、上田昌子、桐山裕子、石原康生、鎌田正彦、平井康司、原満紀、丸山さかえ、植木信久、片野スミ子、小宮真理、高砂寿一、植木淑美 以上13名