サテライト・サロン活動 (2012年)

■第22回サテライト・サロン町田報告
―関東ふれあいの道「大山参り蓑毛のみち」―
〈集合〉小田急線秦野駅08:45
〈コース〉秦野駅09:02発バス→9:30蓑毛バス停→宝蓮寺(大日堂)見学→蓑毛分岐→ 蓑毛越え→大山阿夫利神社下→二重の滝→見晴台→ふれあ いの森・青年の家→浄発願寺奥の院(往復)→日向薬師バ ス停→伊勢原駅(解散)
由緒ある大山参りの裏参道を行く
天候の都合で翌日の16日に順延したが,小春日和に恵 まれ,首都圏自然歩道のなかでも10指に入る優れたコー スを歩いた。
秦野駅に集合し,予定通りに9時2分発のバスに乗り込 み,蓑毛バス停に向かった。9時25分に蓑毛バス停に着き, まず写真撮影ポイントの1つでもある宝漣寺を見学した。 9時45分頃,熊出没・山ビル注意の看板を見ながら関東ふ れあいの道に入る。ややきついが石を敷き詰め,よく整備さ れた山道を登る。10時50分に蓑毛分岐を通過し,息が上が った頃の11時20分に蓑毛越に到達。蓑毛越は,大山山頂と 浅間山への尾根上の十字路で,絶好の休憩地である。ドーナ ツでお茶タイム。初冬だというのに薄着になり,大根のビー ル漬けで話が盛り上がり,笑談に花が咲いた。ここからはよ く踏まれた歩きやすい平坦道をモミの原生林を背後にして, しばらく歩き11時半に阿夫利神社の下社に着いた。満願成就 を祈願した後,二重の滝と二重神社で記念写真を撮る。杉や モミの巨木そしてブナの原生林の中を歩き,12時半に見晴台 に到着。少し下がった日当たりのよい場所を陣取って昼食。 ここは,鷹取山と高取山が同じ方向に重なって見えるところ で,時間があれば昼寝をして行きたいくらい気持ちのよい場所 であった。13時15分に下山を開始し,始めはススキに飾られ た道を下り,次第に杉林の薄暗いジグザク道(九十九曲)に 入り,急下降した。14時10分に青年の家の背後の沢を渡り, 林道に出た。素晴らしい渓谷美を見ながら日向沢に沿った林道 を下り,途中で「男の駆け込み寺」として知られている浄発願 寺奥の院(1608年に弾誓上人が開山)に立ち寄った。ここには, 53人の罪人が一段ずつ築いた53段の石段がある。日向薬師から 15時25分発のバスで帰路につき,伊勢原駅近くの居酒屋で今年 1年間の反省会を開き,解散した。奇しくもこの日は,日本の将 来にかかわる国政選挙日でもあった。(文責/笹本)
参加者
荒木正弘、上田昌子、小宮真理、深田伸代、宇野良夫、森静子、植木淑美、笹本忠、植木信久 以上 9名


■第20回サテライト・サロン町田報告
―関東ふれあいの道「山里から津久井湖への道」―
・日時 平成24年11月18日(日)
・集合 小田急線本厚木駅8:30
・コース
本厚木駅8:50発バス→9:30 半原バス停→六地蔵→9:55服部牧場入口を左に分け→10:05丹沢パン工場10:15→10:20ふれあいの道入口→11:15雨乞山(429m)→11:45桜山分岐→12:05昼食12;35→13:00久保田酒造13:10→13:45根本・城山登山口→13:55城山公園広場14:10→14:45城山山頂(375m) 14:55→飯縄神社、大杉→15:30登山口→15:40津久井湖観光センター前バス停16:00→16:30橋本駅(解散)
城山は津久井城と呼ばれ、山全体が城として機能していた
当初の11/17(土)が雨のため18(日)に順延、晴天のもと全員上機嫌 で歩き出す。しばらく舗装道路だ。六地蔵が見下ろしている、皆で “行ってくるよ“とご挨拶。服部牧場は今回パスしたが、時間があ れば寄ってみたい所だ。10:05丹沢パン工場、焼き立てのパンをを 味見し、これより「ふれあいの道」へ。心地よい農道が続く。牧場の 点在するのどかな風景だが人手不足か荒れた感じは否めない。所々 で可愛いお地蔵さんに出会うのも如何にも「ふれあいの道」である。 道はやがて登山道に変わり11:15雨乞山山頂(429m)、三角点あり。 雨乞山から明日原に向けて下る。11:45桜山分岐を左に分け先を急ぐ。 桜山のサクラは「稲生の桜」と呼ばれ、昭和天皇が皇太子の時、欧州 からの帰朝を祝い稲生の青年会が植えた古いもの。緩やかな下り坂を 進み林から出ると明るい台地状の西明日原だ。12:05絶好の日溜りの 小広い場所で昼食。此処からは目指す城山が望める。30分後出発、 13:00久保田酒造(創業弘化元年・銘柄相模灘)へ立ち寄る。出発時、 何故か男性陣のザックが重くなる。無料庵バス停、根小屋を経て根本の 城山登山口へきつい舗装坂道を歩く。13:45分かり辛い登山口だが 登山道は標識完備。13:55心地よい広場でテーブル囲みお茶タイム。 14:10男坂、女坂に分かれ山頂目指して一気に登る。14:45城山山頂で 合流、石碑「古城記」により津久井城の歴史が解る。城山はその昔、津久 井城と呼ばれ築城の頃は定かではないが、戦国時代には小田原北条氏の 家臣、内藤氏が城を治めていた。根小屋式山城である津久井城は、麓の 根小屋部に城主、家臣が居住し、いざ戦となると山の上で最終防御する 形態の山全体が城として機能していた。天正18(1590)年に豊臣秀吉の 小田原攻めにともなって落城し、江戸時代初頭に廃城となった。今も 当時の痕跡が残されている。114:55下山開始、飯縄神社で手を合わせ、 見事な大杉を見上げ鎖場を経て15:30登山口着、津久井湖の眺めが良い。 15:40観光センター前バス停、16:00発にて16:30橋本駅着。解散。
参加者
深田美好、皆川靱一、石原康生、本間正士、荒木正弘、植木信久、 植木淑美、森静子、小宮真理、宇野良夫、高芝一民    11名


■第2回サテライト・サロン花小金井・吉祥寺合同報告
年も押し迫った平成24年12月19日の午後6時40分から「ぼくのほそ道・俳句ing」と題して、小平在住の岡 義雄氏(5253)による話が始まった。その昔、松尾芭蕉が江戸深川を出発し奥州、北陸を巡り、岐阜の大垣に至るまでの紀行をまとめたのが「奥の細道」。その同じ道を氏は3年ほどかけて実際に歩いた。この日はその体験談の第2回目。昨年12月にその第1回を花小金井で行い、東京深川から出発し白河の関までのさまざまな話を語った。 今回、冒頭で、氏はこの計画に関して改めて語った。なぜ芭蕉は東北を選びこのルートを辿ったのか、どんな所でどのような句を詠んだのか、奥の細道以外にどんな所を歩いたのか等々、知りたくなった。また、芭蕉が生まれたのは現在の三重県(伊賀の地)と云われているが生い立ちははっきりしていない。親しい女性は居たようだが奥さんがいたのかどうか分っていない。あるいは、忍者だったのではないか、幕府の隠密ではなかったか等とも云われているが、こういう事は自分としてはあまり信じたくない、夢がなくなってしまう。いずれにせよ、芭蕉について考えると次々と興味が沸いてくるし人間性にも面白みがあり、実際に自分で歩いてみようと決心した。もともと自分は北アルプスやヒマラヤにも行った山屋であったが、街道を歩く時代があり、例えば青梅街道を歩き甲府まで行ったこともあった。その延長で、芭蕉の「奥の細道」を歩こうと思った、という。芭蕉が歩いた距離は約600里(2,400km)と云われている。氏の場合は2,300kmで、これは氏が歩いた道を地図から物差で測ったもので多少の誤差があるかもしれない。また、歩いた日数は芭蕉が64日、氏は79日。芭蕉は行った先で滞在をすることがありその日数は79日。知人や弟子のところ、あるいはその土地の有力者宅に滞在し俳句を作ったり指導などをしていた。従って、芭蕉は全行程を要するのに143日かけた。氏の場合は3年ほどを要し一日平均で30km位を歩いたが、靴を2足ダメにしたほどだった、という。
当日は氏が歩いた一日毎の行程表と芭蕉が歩いた足跡図を参考にしながら話を聞いた。この行程表には歩いた距離数及び道草をした距離数までもが詳細に渡り明示してあるので、かなりリアルに話を聞くことが出来た。また、行く先々で氏が撮った写真をスライドにしてそれらを見せながら、芭蕉が訪れた現地の風景や句碑などをいろいろと解説してくれた。また、その土地の歴史的な事柄が記してある案内板の写真なども多く撮っており、それをわざわざワープロで打ち直してスライドにし分かり易く解説をしてくれた。芭蕉の発句した場所のこと、句の内容やそのバックグランドなどを大いに語った。あたかも文学部での講義の感じがするくらい芭蕉についての造詣が深いことに一同感心した。「奥の細道」の冒頭部分をスライドに示し、この一節から江戸にいた芭蕉は、白河の関や松島に行きたかったのではないか、そして芭蕉が巡った足跡から考察すると義経が好きだったのではないか、と大胆な見解を語り講演を終えた。今回は白河の関から仙台までの話であった。
終了後、いつもの「華の舞」で忘年会を行い、芭蕉のことや山の話で懇親を深めた。なお、今回もまた花小金井(第10回)と吉祥寺(第17回)との合同のサテライト・サロンであった。(文責 小清水敏昌)
主席者
岡義雄、川合周、富澤克禮、三渡忠臣、宮川清彦、金子浩、時田昌幸、原山恵津子、渡辺正子、大橋基光、高比良昭、徳永泰朗、河野悠二。副島一義、小清水敏昌
(計15名)


■第21回サテライト・サロン町田報告
・開催日  平成24年11月28日(水)
・会 場  まちだ中央公民館
・講演者  井田忠夫(神奈川県自然環境保全センター)
・演 題  「丹沢のヤマビル(山蛭)の話」
50年以上も昔、「南アルプスの奥深い山道を歩いていると、上から山ヒルが落ちてくるから傘を差して歩くがよい」なる話を聞いたことがある。しかし日本の山でヒルに出会ったことはなかった。初めてヤマビルの洗礼を受けたのは1970年のヒマラヤ・マナスルへのキャラバン道でのことだった。現地語で「ズカ」。道のあちこちにズカがいて、人の体温や吐く息に反応し、首を振り振り迫って靴に吸着し、尺取虫のように脛にはい登ってくるではないか。ポーター達は足から血を流しながら平気で歩いている。気味の悪い光景であった。山ヒルは上から降ってくるのではなく、下から登ってくるのだ。
1945年以前、いわゆる戦前の丹沢では最高峰蛭ヶ岳北面の早戸川周辺でヤマビルの生息が観察されていたが、現在では東丹沢の山のみならず山麓の里山や隣接する住宅地までヤマビルが出現し、吸血被害が多数報告されるようになった。そのため丹沢山塊を抱える神奈川県では「ヤマビル対策連絡会議」を設けその被害対策に取り組んでおり、本日の演者井田氏はその担当者である。
いま夏の丹沢を歩く時はヤマビルが足周りに着いていないか、休むたびにチェックしなければならない。疲れたと云って腰を下ろして休むわけにもいかず本当に気が休まらない。何故ヤマビルが爆発的に丹沢山塊に拡散していったのか。動物愛護の名の元に鹿や猪などの野生動物の生息数が増え、かつ増え過ぎによる食生範囲の拡大に伴いその野生動物にくっ着いて広く丹沢山塊に拡散していったのだ。最近では相模川を越えて陣馬山や、山麓の厚木市愛名、あるいははるか西の箱根までにヤマビルが見られるようになった。しかし西丹沢にはヤマビルは少ないと云う。東丹沢と西丹沢の山質が違っているからなのか。ヤマビルは乾いた場所は苦手で、落ち葉が溜って湿気の多い所が大好きである。それも生息域と山質に関係あるのだろうか。謎である。
またヤマビルには天敵がいないので繁殖する一方だ。そしてその拡散に登山者自身が手を貸していることもある。ヤマビルを知らない無防備な登山者によって下界まで運ばれ、ひどい時には小田急電車まで持ち込まれる時もあると云う。山靴で踏みつぶした位でヤマビルは死なず、石ですり潰さねば死なないのだ。山に入る私たちは、
@ まずは防止対策を徹底する。
(ズボンの裾を靴下に入れる。こまめにヤマビルが着いていないかチェックする。忌避剤を登山靴等に塗りヤマビルの付着を防除する)
A やられたら、その場で退治する。
(ヤマビルを塩でもむ。火で焼く。薬剤で殺す。そして傷口を消毒し傷口保護する)
B 下山後は登山口等に生きたヤマビルを落さない
(下山時に衣服や登山靴をチェックして、付着したヤマビルは必ず退治する)
井田講師の丹沢現場フィールドからのヤマビルの生態、生息域拡大の原因、被害の現状、そして対策の話は、私たちの知らないことばかりで大変為になった。もっとたくさんの登山者に聞いてもらいたい貴重な話であった。
動物愛護もほどほどに、山の植生生態を壊し吸血鬼を運ぶ鹿や猪は管理捕獲しなければならない。厚木市七沢でも熊の出没が警告される今この頃である。気持ちの良い草原で安心して寝ころべるよう、全登山者が注意しヤマビルの拡散を防止しなければならない。高尾山や箱根の観光地にヤマビルが出現するのはあとわずかだから。 (記・橋善護)
参加者 (21名)
原満記、荒木正弘、橋善護、高芝一民、植木信久、植木淑美、竹中彰、笹本忠、本間正士、片野スミ子、丸山さかえ、宇野良夫、森静子、鎌田正彦、石原康生、北野忠彦、大槻利行、飯島文夫、長尾律子、井村英明、犬伏知之。        


■第1回サテライト・サロン花小金井・吉祥寺合同報告
11月21日(水)午後6時半から標記のサロンが開始された。テーマは「アンナプルナ・トレッキング報告」で、演者はそのリーダーの三渡忠臣氏。もともとサテライト・サロンでの出席者同士でヒマラヤに行こうとして自然に集まった仲間である。アンナプルナのトレッキングを目指し参加した8人が月1回ミーティングを行い計画を練った。富士山などにも行って高度トレーニングし、装備、保険や高山病なども勉強した。チームでの役割を分担して行ったが無事に帰国できた、良い仲間と楽しく行かれて実に満足だったと冒頭に三渡氏は述べた。次に、ビデオの上映がありビデオ撮影が好きな隊員によって上手に編集されており、ビデオのところどころを宮川清彦氏が解説。みんな楽しそうに登山していて、天候も上々のよう。中には馬に乗った隊員も映っていた。隊員のほかに、サーダー他15名が付いた遠征であった。配布された資料がかなりりっぱな内容に作成されており、日程、隊員の健康記録、現地で購入したというアンナプルナの最新版(2010年作)のカラー地図などが含まれていた。また、参加した全員の感想文も添えられており、一読すると各々の不安、喜びなどが赤裸々に描かれているのでこれも面白いと思った。約3週間で費用が31万円は安かったと、ヒマラヤに何回も行っている三渡氏の話。最後に、参加した隊員から一言づつあり、下痢止め薬で逆に下痢がひどかった、靴が合わず下りが辛かった、使う薬がよく分からなかった、もっと登りたかった、一人1テントは楽だったなどいろいろな意見が出た。5,000mを超えるトロンパスを心配したが、特段のアクシデントもなく無事に下りられた。高山病になる人もいなかった。昔と比べてこの周辺はモータリゼーションのためか、埃を飛ばしての車が非常に多かった、地元民は交易などのために車は必要なのだろうが、われわれからするとトレッキングそのものが近いうちに無くなってしまうのではないか。しかし、今回のルートは山に近いところを歩いたので、高山を目の当たりに眺めたり雪崩を見たりなどして臨場感がありとても楽しいアンナプルナであったと結んだ。今回は二つのサテライトの合同ということ、また遠征関係者の出席もあり過去最高の35名。また参加者自身で計画した山行のため支部会員にとっても関心の高い内容だったのではないか。
終了後いつもの二次会に13名が出席し思い出を大いに語り合っていた。なお、今回は合同で行ったが、花小金井は9回目、吉祥寺は16回目となる。(文責/小清水敏昌)
出席者
三渡忠臣、宮川清彦、原山恵津子、岡田陽子、徳永泰明 樋口裕幸、辻美紀子、柄澤洋城、川合 周、冨澤克禮、川越尚子、岡 義男、河野悠二、西谷隆亘・可江、山口峯生 渡邊正子 金子 浩、三渡百合子、古本郷子、水野文雄、荒木宮美雄、大倉昌身、西村智磨子、川村光子、平井康司、本間正士、福島宏樹、須浪敏行・澄絵、中野英次、佐野和志、宇田俊二、副島一義、小清水敏昌(計35名)


■第15回サテライト・サロン立川報告
◇日時   平成24年11月1日(木) 午後6時半から
◇会場   立川市女性総合センター5階 第1学習室
◇演者   近藤謙司氏(日本山岳会会員 会員番号:9377)

― 山岳ガイドを利用してほしい ―
日本には、800人を超える資格を持った山岳ガイドがいるそうだ。いずれも日本山岳ガイド協会に加盟している。協会は、ことし3月公益社団法人に移行した。カテゴリーにしたがって区分すると、いちばん多いのは自然にふれあう活動やエコツアーなどを行う里山/自然ガイド、また夏山の一般登山道を職域とする登山ガイドだ。そのうえの山岳ガイドは、一年を通して活動する。難易度によってステージTとステージUに区分され、ステージUは岩壁登攀やアイスクライミングなどを主な業務としている。世界の山々をガイドする国際山岳ガイドは40人くらいだが、名誉職もいて、実際に海外で活躍しているのは10人くらい。さらにアルプス、ヒマラヤ、アンデスなど活動範囲を全世界に広げているのは5人くらいだろうか。近藤講師は、そのひとりだ。山岳保険にはいるような気持ちになって気軽に利用してほしいという。

― 防衛体力をつくろう ―
防衛体力をご存知だろうか。体力には「行動体力」と「防衛体力」がある。この2つの体力をヒフティ・ヒフティにすれば、ヒマラヤでなんとかなるなどといわれたことがある。
行動体力は、筋力とか筋持久力、心肺持久力、柔軟性、関節の丈夫さ、骨密度、平行感覚など、これらの総合的なものだ。ジムトレーニングあるいはジョギングとか水泳などで鍛えることができる。もうひとつの防衛体力は、ストレスに対する抵抗力だ。寒さに強いとか、喉の渇きに強い、病気になりにくい、虫刺されに強い、暑さ・湿気に強い、恐怖感などをコントロールできるといった体力だ。ジムトレーニングでは強化できない。先天的な面もある。年齢とともに引きあがっていくので、中高年齢層は若い人たちに比べ、この防衛体力が強いが、さらに強化することは山登りに有効だ。生活リズムを変える、生活習慣を見直すなどが大切だ。イライラしない。切れない。深酒しない。休みを多く取る。睡眠をしっかり取る。音楽を聞きながら行動する。
これから寒くなっていく。立山ではマイナス10℃にもなる。どう対応すればいいのだろう。これまでの寒さの経験から3月ごろを振り返り、そのころの服装・装備でいいと思いがちだが、これは大間違いだ。実は、わたしたちの体は夏の猛暑を乗り越えたあとまだ夏型のままでいる。寒さに慣れていない。夏型の体力で寒さに直面することになるのだ。3月ごろの体は12〜2月の厳冬期を乗り越えて寒さに対する抵抗力を持っていたことを認識しなければならない。寒さに対する抵抗力をつくる努力をしなればならない。薄着をするとか、外に出て体を動かすとか―。ビタミンEがいいといわれる。たしかにそのようだが、それを摂取し続け体に影響を与えるようになるまでには2か月はかかる。前日に飲んで直ちに効果があるなどと考えないでほしい。実際に、寒さでトラブルを起こすのは10〜11月がもっとも多い。普段からルチン、DHAなど摂取し冷え性になりにくくする体力をつくる。防衛体力の強化方法のひとつだ。

― 水を十分にとろう ―
水を十分にとろう。平均的にみて体重60kgぐらいのひとで1日2リットルは必要だ。高度4,000mだとその倍の4リットルは必要となる。高所では外気の圧力が弱いから酸素を吸収しにくくなる。そこで体の圧力を抜いて外気圧とのバランスを保とうとする。そのときに水分も排出してしまうので補う必要があるのだ。効率のいい取り方は少しずつ取ることだ。いちばん効率のいいのは“点滴”だ。山ではハイドレーションをお勧めしたい。1時間歩いて5分あるいは10分休み、その時にどっと取ることがよくあるが、いちどに多く摂取しても吸収されにくい。半分は排泄してしまう。少しずつ摂取しよう。ハイドレーションは2リットルとか3リットルとか大きなものを利用する。3リットルに1リットルを入れるとスマートに使える。
服装について。保温素材としていちばんいいものは空気だ。ウェアは保温のためにいいものを使いたいが、空気を取り込むことが大切だ。細かくして溜め込むことだ。デッドウェアという。羽毛やウールは、それぞれに細かい隙間に空気を溜め込んでいる。合成繊維で中空になっているものを選びたい。綿は水分を吸い込み、なかの空気が逃げ出してしまう。肌着は密着するものを選びたい。毛細管現象で汗を取り除く。細ければ細いほどよい。羊のメリノ種からつくるメリノウールは優れものだ。中空がとっても細かい。そこまでは人工的につくれない。
ビタミン、ミネラルを上手に取りたい。エネルギーをつくり出すのは糖質、脂質で、それらを燃焼させるにはB2、B6が必要だ。不足すると持久力を落とす要因となる。ストレスを解消するためにもビタミン、ミネラルを使う。ビタミン、ミネラルを考えた行動食を取りたい。ビタミンBとCは体に蓄積されない。摂取してもすぐに出てしまう。こまめに摂取したい。飴を食べるが、これは歩き始める前ではなく、動き始めてから食べるのが効率のいい摂取方法だ。足がつるのはカリウム、ナトリウムが不足するからだ。不足すると筋肉の動きが鈍くなり痛みが生じる。ナトリウムはスポーツ飲料で摂取する。同時にアミノ酸だったり、酵素を摂取すると、体に吸収しやすくさせる。体に取り入れやすくするのをキレートする、あるいはキレーターでラッピングするなどという。これらは浸透圧が強くする効果があり、ミネラルの体への吸収を助ける。酵素にはニラやたまねぎ、ニンニクなどに含まれるアリシンがある。豚肉にはビタミンが多く含まれる。併せてニラやニンニクを食べるのは、そのためだ。行動食には、こうしたサプリメント系についても工夫したい。
準備体操は少し歩いて体が温かくなってからやろう。体が冷え切っているときにストレッチ体操をすれば筋を痛める場合がある。15分ほど歩いてからがいい。たんに筋肉を伸ばすだけでなく、方向を変える。歩き方だが、下りる時に足を横に出していないだろうか。足は横には動かない。無理すると捻挫を起こしかねない。ストックは上手に使おう。推進力のために使う。杖ではない。持つところがT字になっているストックは杖の役割しか果たさない。軽いものを選ぼう。

実体験に基づく貴重な話を伺った。テーマは多岐にわたった。すぐに実践しようと思った。山登りをより楽しく、あるいは高度な山登りができるかもしれないと思った。あと立川駅前の居酒屋で懇親会を催した。話は、なお続いた。(文責/橋重之)

参加者
会員 16名
田中清介、岡 義雄、大船武彦、岡田陽子、石井秀典、川越尚子、西谷隆亘、西谷可江、飯島文夫、高橋重之、副島一義、田中恵美子、高橋郁子、樽木正保、近藤節朗、山本憲一
非会員 9名
田中知子、小林知世子、杉本理子、浜野加代子、鈴木富枝、大西美和、安東幸子、栗田知子、菅谷節子
計 25名


■第5回サテライト・サロン八王子・日野報告
・開催日 平成24年11月17日(土)
・会場  日野市七生公会堂
・講演者 大谷一良 氏(会員番号4577)
・演題  「私の版画技法について」
あいにくの雨天であったが、木版画家「大谷一良さん」のお話と、作品を直に見ることができることを楽しみに、沢山の方がみえた。内容は主として、氏の版画制作の歴史、版画を通じてのいろいろな方との出合い、自身の版画技法、氏の版画への取り組み姿勢、に関わる話と、作品や材料・道具の説明と紹介であった。 氏は、1933年5月生まれ、まもなく80歳を迎えられるが、出版や展示会を通して、今なお新たな作品を次々と発表しておられる現役木版画家である。これらの作品は、自分の感じた「山の気」を自分なりの木版表現法で表現したものであるとのこと。
木版画を始めたのは、東京外国語大学の学生の時で、この時から現在に至るまで、美術や版画にかかわる専門の訓練や教育は受けたことは無く、すべて自己流で作品を作り続けてこられたとのことで、その才能、努力、熱意の継続には驚かされる。 しかも、大学卒業後には商社に就職し、外国勤務をされたり、また要職にも就かれ、多忙な時期を送られていたにもかかわらず、1996年に退職されるまでの間も、木版画家として数々の作品を世に出し続けてこられたのだから!
最初に世に出された作品は1957年に串田孫一氏を中心にして作られた山の同人誌「まいんべるく」に載せられた16×16cmの版画だそうだ。その後、1958年からは、実に25年間、「アルプ」(東京・創文社刊)の表紙やカットを担当された。
また、国画会展、日本版画協会展に出展し入選された。 その他、個展、共同展を通じて作品を紹介しておられる。また、出版物にも、例えば「山と渓谷」、「心」、「岳人」等、主に山の本にも、画や文が数多掲載されている。
なお、来年初めの、第6回山の木版画展(2013.1.2〜1.6、丸善・日本橋)にも出展される予定です。ぜひ、お出かけください。
版画制作の技法については、氏自身が準備された「私の版画技法について」というコピーを基に話が進められ、構想から下絵描き、彫り、摺りへと作品が出来上がるまでの工程や使用する材料が素人にもわかるように説明された。
氏の下絵には色づけはなく、線画のみである。すでに頭の中に摺り後の色が入っているので不要だとのこと。そんなことができるのかな?と不思議な気がした。
氏はスペシャルドリンク(アルコール度数不明)をとりながら話を進め、適宜に作品や道具を回覧された。
手元で間近に見る木版画は、紙やインクの感触が書籍等の印刷物と異なり、色に深みがあり柔らかく暖かみのあるものであった。
出席者には、氏から6枚の絵はがきがプレゼントされた。それらの画にも、深田久弥さんをはじめ沢山の方々との良き交遊と、氏の自然に対する高い感受性と優しい心が表われていた。
・参加者:大谷一良、飯島文夫、城所邦夫、澤登均、徳久球雄、荒川一郎、竹内康雄、富澤 亨、荒 裕子、藤田智卓、水谷弘治、松澤節夫、石原康生、松本 治、松本悦子、 中村小一郎、小柳清治、野崎裕美  以上18名
(文/野崎裕美)


■第22回サテライト・サロン町田開催案内
――関東ふれあいのみち「大山参り蓑毛のみち」――
・日時: 2012年12月15日(土) 雨天16日(日)順延
・集合: 小田急線秦野駅 午前8時45分 バス9時05分発
・行程: 蓑毛バス停着 9:30〜宝蓮寺(大日堂)見学 9:50〜コース13看板10:20〜25〜コース 11看板 10:45〜50〜蓑毛越え11:10〜20〜大山阿夫利神社下社11:30〜見晴台12:10〜50昼食タイム〜ふれあいの森青年の家(日向林道)13:50〜浄発願寺奥の院往復14:20〜日向薬師バス停 15:00 (希望者は、日向薬師 見学へ)
・参考バス時刻: 伊勢原駅行き 15:05 15:25 15:45 
・解散: 伊勢原駅 15時30分頃
・地図:1/25,000 秦野 大山 厚木
・持ち物:日帰りハイキングセット、弁当各自
・会費:コピー代、連絡費等200円
・切符:小田急線各駅より 丹沢大山フリーパスB切符(ロープウエイなし)が割り安。
・見所: 宝蓮寺(大日堂)、浄発願寺奥の院、下社に冷い湧水あり、二重の滝、モミの原生林の森林浴
・関ふれ撮影ポイント: 宝蓮寺、 二重の滝 
・申し込み: 笹本忠042-796-1614 080-5675-5628
・係り  : 笹本忠、鎌田正彦、植木信久
*浄発願寺奥の院:高僧 弾誓上人が慶長13年(1608年)に開山した寺。「男の駆け込み寺」殺人、放火の凶悪犯以外は、この寺に逃げ込めば助けられたといわれている。往時は、徳川家康公から寄進された16万5千坪の寺領を有していた。昭和13年の山津波で全山流され、現在、寺は1.5km下流にある。「53段の石段を53人の罪人が一段ずつ築いた」石段がある。木食行の戒律を大正末期まで守り続けた。 


■第19回サテライト・サロン町田報告
――関東ふれあいのみち「大磯、高麗山のみち」――
・平成24年10月27日(土)天候:晴、気温:22°C(計測 湘南平)
・地形図:1/25000 平塚
 平塚駅で9時集合、バスに乗車し終点の西海岸で下車する。リーダーより今日のコース関東ふれあいのみち神奈川Fの説明後、出発する。花水川の橋を渡り、暫くは花水川右岸の舗装道路を北に向かって歩いて行く。JR東海道線のガードを潜り車道を渡ると正面に鳥居とその奥に高来神社の本宮が見えて来る。神社境内でトイレ休憩、本堂脇にある水神社の湧水口を確認しました。本堂の裏に進むと右「女坂」、左に「男坂」記載された標識が建っている。女坂の方に「関東ふれあいのみち」と書かれていたので女坂を登る。標識では、高麗山でなく「大堂」となっていました。トレイルは樹林が生い茂っていて展望は望めなかったが、小宮さんの「向こうに海が見える」の声に振り返ると穏やかな大磯の海岸線が望めました。途中で一ヶ所ベンチのある広場で小休止する。最後に急な階段を登り、山頂に到着する。奥の院は、土台だけの小さな石造りの祠があるだけの殺風景な場所になってしまっている。一等三角点のある浅間山を目指して前進する。花の季節ではないのと高山植物を望めない低山歩きではありましたが、それでも色々な花々に巡り合いました。ノコンギク、ヤマトリカブト、ハナワラビ、キクアザミ、十月ザクラ、サラシナショウマ、ホトトギスなど。彼岸花の群生地が近くにある浅間山(標高181.2m)に到着、地理クラブの北野さんの説明を聞く。一等三角点で、関東圏の三角測量の基点の一ヶ所だそうです。18×18Cm角の四隅が2Cmほど面取りされている一等三角点は珍しいんだそうです。上部の十字に刻んである場所にコンパスを置くと磁針が地図上の北より西に傾いているのが解る。1/25000地形図には「磁針方位は西偏7°10′」と記載されています。関東圏では、西偏 7°と覚えておきましょう。日本列島の北に行くほど数値が大きくなり、南に行くほど小さくなります。(注)1/25000 北海道「旭岳」では、磁針方位は西偏 9°30′と記載されています。
此処から千畳敷と言われる程の広さのある湘南平に向かい、藤棚の下のテーブルベンチを確保して、本日最大のイベント「ワンコイン レストラン」の開設となる。集合場所で各自、受け取った共同食料を鍋奉行に渡し、「きのこ鍋」の出来上がりを待ちました。何人かの仲間は、北野さんの先導で洞穴見物に出かけました。恒例のドリンクバーの準備も終わり、全員で楽しい昼の宴が始まりました。総員 14名でワイワイ、がやがやの食事は、町田サロンの名物行事になってしまいましたね。各自持参した嗜好品も盛り沢山で、こんなに食べたら太るんじゃないかと思ったりしましたが、美味しいので皆、腹一杯食べていたようですよ。食事後、全員で記念写真を撮ってから、山を下ること20分ほどで、大磯駅北側の邸宅街を通り、東海道線のガードを潜って国道一号線を500mほど西に歩いて、西湘バイパスの下を通って「こゆるぎノ浜」と称されている太平洋に辿り着きました。山から海にやって来ましたが、ガラッと趣が変わって、とても気持ちの良いものですね。左に房総半島を望み、右に真鶴半島を見ながらの海風は心地よく、すかーっとした気分になれます。たまには、海も良いものです。コース案内によると此処から太平洋自転車道を西に向かって進むと旧吉田邸があると記されていましたが、火事で焼失してしまったそうです。ゴールになっている大磯城山公園には向かわず、島崎藤村の旧邸を訪れ、大磯駅で解散しました。天候に恵まれまして、楽しい「関東ふれあいのみち」歩きを堪能しました。皆様ご苦労さまでした。 
(原 満紀 記)
参加者
荒木正弘、北野忠彦、宇野良夫、森静子、深田伸代、上田昌子、皆川靭一、仲川侑子、片野スミ子、平井康司、原満紀、小宮真理(SL)、植木淑美(SL)、植木信久(L)
計14名


■第14回サテライト・サロン吉祥寺報告
平成24年5月19日(水)
演者 木村康雄氏
演者紹介
木村康雄氏は、武蔵国の時代から氷川で林業を営むかたわら、酒、味噌、醤油造りを生業とされていた19代目、現在は「JAバンク東京信連」役員、財団法人「奥多摩木村奨学会」役員、の他、「東京都森林組合」理事(24年5月退任)、「東京の木で家を造る会」代表、「東京都農林漁業対策審議会林業部会」委員などでご活躍されています。
―― 「都民を守る東京の森林」〜森林再生への提言〜 ――
1.東京の森林の位置づけ
(1)東京都の森林面積
・東京都の森林面積  
 79,000.ha(36.5%) 東京都の全面積 216,600.ha(伊豆七島、小笠原、含む)
・奥多摩地区の森林面積53,000.ha(30.%) 東京都の面積  197,500.ha(本州のみ)
(2)人工林と天然林
・人工林 杉、檜、 使用する目的で植林した。 東京都は59.%、全国では46.% 
・天然林 こなら、ケヤキ、椎、 自生した木々の林。 東京都は41.%、全国では54.%
(3)国有林と民有林
・民有林(都、市町村、共有、個人、) 52,000.ha
この内 個人の林は 39,000.ha
(4)森林の持つ多面的機能とは
    @樹木の育成。
    Aリクリエーション。
    B治山治水。
    C二酸化炭素CO2吸収、貯蔵。
    D生物の多様化。
(5)森林は、都民共通の財産
   ・水、空気。
   ・生物。
   ・土壌。
   ・環境。
2.東京の森林・林業の現状と環境
(1)不健全な森林の増加
@伐採の停滞と偏った林齢構成
・江戸時代大火が度々あった(1657年の振袖火事、等)=多摩川下流の六郷まで、筏で搬出した。
・幕末から明治30年ころまで、六郷まで筏で搬出した。
・昭和30年から40年ころまで、拡大造林の国策で多摩地区では天然林を伐採して、杉、檜を植林した。
・今、50年林が多いが、木材の価格が安く、急峻で、小規模なため伐採、搬出の経費がかかることから、このまま残し、80年材にして少しでも高く販売したい。故、20年以下の林が2%以下と、偏っている。
A荒廃する森林
・以前は、間伐材は丸太として建築現場で足場に使われていましたが、強度の不安定もあり、労災との関係もあり、労働基準監督署からの指導もよりパイプに取って代わられた。
・間伐材は、その場所に放置されています。(切捨て間伐という)
・鹿が杉の表皮を剥がして柔らかい内側を食べる食害で、枯れて倒れます。
 積雪が少ないので自然淘汰されない、日本狼が滅亡した、猟師の高齢化が原因とされています。
 鹿の生息数が800頭から1000頭位?
(2)林業経営の不振
@木材価格の低迷と高コスト構造
・杉材 1立方メートル(直径26p、長さ4m、5本)
 昭和55年 4万円、 平成19年 1万3千円。
・賃金  昭和55年7800円、平成19年 1万2千円。
・搬出費用 高い現場、山奥。
A林業経営への意欲低下
・安い外国材の大量輸入
・集積材の使用。
B林業労働力の不足
・3K;キツイ、汚い、給料安い。
・専門に従事している人は全国で300人位。
・東京では最近若い集団が活動している(チエンソーズ)
(3)多摩産材の利用低迷
@多摩産材の供給体制
・伐採現場の面積が小さい=材が少ない。
・同一規格の材が少ない。
・原木市場が東京都で一箇所(多摩木材センター)で、製材業者へ月2回の売買売り。
Aハウスメーカーの台頭と工務店の減少
・ハウスメーカーは、安価な住宅を、工場でプレカット、現地で簡単に専門職がいらないで、組み立て、短期で完工、売り上げる。
・工務店の在来工法は、下小屋で技術の必要な職人が加工する。地価高騰で加工場所を維持できない。大工のなり手が少ない。
B多摩産材利用意義と周知不足
・地産地消。
・正倉院のように、高床式が、高温多湿の日本にあっている。
C木質バイオマスエネルギーの利用低迷
・間伐材は燃焼はしても、二酸化炭素のサイクルになって居る。
・燃料代3日で20kg使用で1,200円と割高。
・ペレットストーブ(イタリア、ドイツ製が主流)価格も40万円〜100万円と決して安くない。
・FF式で電源が必要。
(記録/副島一義)
この後、お決まりの「花の舞」で、ご苦労様会(演者含めて8名)  21時23分 お開き。


■第21回サテライト・サロン町田開催案内
平成24年11月28日(水) 18時〜20時 
まちだ中央公民館 6階
講師:井田 忠夫「丹沢とヤマビル」
   講師は七沢神奈川県自然保護環境保全センター勤務。
   山岳トイレの整備や森林保全業務を担当されている。
   丹沢山塊に常時入山され、ヤマビルの実態についても造詣が深く、貴重な
   お話しが期待されます。
   担当:植木淑美(042−734−1498)
   申込:11月24日(土)


■第15回サテライト・サロン吉祥寺報告
9月26日(水)午後6時半から本町コミセンにて「バルトロ氷河からカラコルム5座を巡って」と題して三鷹在住の金子浩氏が講演した。約20年振りに訪れたというパキスタン北部の山ろくを辿った35日間の話で、現地の地図やカラーの山の写真などを配布しての山行を語っていただいたので臨場感あふれる話であった。旅行業者のコースを、友人3人を含む8人のパーティで冬用の装備を基にしてイスラマバードを出発した。ガイド、ポーター、キッチンなど総数75人という大所帯。スカルド、アスコーレを経て、カラコルムで3番目に長いバルトロ氷河の先端の村であるバイユに。旅の途中は、トイレに難儀したという。本来ならば、スカルドまでは飛行機のはずだったが、天候のためキャンセルされ、バスを利用した。道中、かなりの車が通っており、それも日本のカローラが多かったという。コンコルディアはバルトロ氷河の上部に位置したベースキャンプで、周りに8000m級のK2、ブロードピーク、ガッシャープルムが見事に見える。しかし、雲がかかっていて全く見えなかった。コンコルディアから約6時間歩いて、アリキャンプに着いた。ここはなかなかいいところで、軍事関係のテント類もあった。業者のコースはここまでで、これから先は金子氏ら三人とガイドの山行。ヴイニ氷河を夜間に歩いた。午後11時頃にガイドが案内し月明かりをたよりに歩いたが、ときどき足を取られる所があったものの、なかなか面白かったとのこと。この地からゴンドコロ峠(5,940m)を経由してマッシャブルムがよく眺められるフーシェの村へ行った。フーシェからスカルドに戻り、今度はナンガバルバット方面へ行くことにした。大きな町のスカルドからデオサイ高原を通ってタルシンに向かったが、この高原は色とりどりの花が咲いていて花園の如くであったという。氏が撮った写真をみんなで回して見た。ナンガバルバットを眺めるメルヘンヴイ―ゼに行き、鬱蒼とした森林地帯や花がきれいに咲いている景色を見ると、荒れたカラコルムの印象ではなく楽園を感じたという。約20年前の遠征時(1989年)にカミナリに打たれて亡くなった後輩のプレートを探し出すことが出来たのは今回の山行の目的の一つだったと、ホッとしたような表情で語った。今回のサロンに3人の新しい方々が来られ自己紹介をしてもらい、終了後にはいつもの駅前の店に繰り出し更に懇親を深めた(文/小清水敏昌)。
出席者
金子浩 大倉昌身 岡義雄 小野寺斎 川口和男 河野悠二 下田俊幸 長澤登
西谷隆亘 長谷川公子 山口峯生 入沢勝 鬼村邦治 平井康司 副島一義 
小清水敏昌 (計16名)


■第18回サテライト・サロン町田報告
――関東ふれあいの道 太田道灌.日向薬師のみち 神奈川I――
日時  平成24年9月30日 午前9時10分 
行程
伊勢原駅9時30分発バス・・・9時57分着日向薬師11時22分発・・・11時30分着 十二神橋渡る・・・諏訪神社・・・12時着鎧塚(昼食)12時55分発・・3時55分着産能大通過・・ 13時40分着上粕神社13時50分発・・・七人塚・・・13時55分着太田道灌の墓14時発・・・ 14時25分着伯母様・・・14時40分着比々多神社14時55分発・・・15時15分着長福寺 15時20分・・15時30分着八幡神社15時35分発・・・15時40分着坪の内バス停・・・ 16時10分着鶴巻温泉

 集合場所へ全員元気に集合され、予定のバスに乗車して先ずは日向薬師様に参拝。 長い長い石段を登り仁王門をくぐって、又上がります。
日向薬師は大山の東側の温かい日差しを浴びる山として日向の名が起り、霊亀二年(716年)二月、その山腹に行基が開いた古刹で、越後の米山、土佐の柴折と並ぶ日本三大薬師の一つとされています。 今は、残念ながら改修工事中で拝観できず左の道を下り彼岸花の群生地へと向かいました。
緑の森と実るほど頭を垂れる稲穂の中に今を盛りと真っ赤に乱れる彼岸花、写真を撮る人、立ち止まって花の一輪一輪を見つめる人、老いも若きも大勢の人々がなごんでいる美しい景色でした。 大勢の人達で思いの外時間を要してしまいましたが11時15分日向薬師バス停にもどる。
11時22分出発し、あちらこちらに咲き乱れる彼岸花を愛でながらの散策、道路わきの農産物直売所で足が止まる。12時 鎧塚に到着、畑の中に小高い塚があり6基の古墳がある。 忠魂碑の影にある6基の中の2基は少し離れた畑の中にある。リ−ダ−の声で昼食とした。 日差しを避けて木陰に敷いたシ−トの上に個々に持ち寄った食材が広げられ、16名の真昼の宴を楽しみました。
12時55分出発し高部屋小学校前の信号を右折し、静かな道を進み産能大を通り抜け長閑な田園風景の中を上粕屋神社へと向かう.上粕屋神社は近江の国の日吉神社を移し、天平年中に僧、良弁の勧請と伝えられ、又徳川幕府朱印高壱石五斗であると神社の由来にあった。 祭神 大山昨神 大穴弁遅命 若山昨命この境内の中程に金魚椿という葉の先が金魚の尾の形をしている椿の木があります。
休息するには良いところです。昔は粕屋庄ともいわれたとか。太田道灌はこの地に君主定正に招かれだまされて風呂場で暗殺されたのが事実だとかで、時に55歳でした。26歳で江戸城完成、川越や岩槻の城も築きながら・・人の妬みは思いかけない不幸をよぶものですね。 太田道灌の胴体墓や七人塚に寄り道をしてみました
鈴川を伯母様橋で渡って果樹園の広がる田園風景の中を進むと比々多神社の森の中の石段か見えてきた。
相模の国の三宮、延喜式内の格式を持つ神社で境内は広くこの一帯に二百基を超える小墳群が発見された、これは古代の墓場であり、集落形成の場所を意味する、平安期には相模の国府が海老名から一時この三ノ宮におかれたこともあり、ここは中世まで栄えた地であるようです。 一ノ宮は寒川神社、二ノ宮は二ノ宮神社 三ノ宮がこの比々多神社である。
祭神 豊国主尊 雅日女尊他四神みかん畑や竹やぶの中の道を八幡神社へ進み、比々多神社の摂社 祭神 誉田別命小休止して出発15時40分坪の内バス停、鶴巻温泉まで歩く。
太田道灌の55歳の人生は「七重八重花はさけども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」そのままだったように思えました。 お疲れ様でした。16時10分解散
(片野スミ子 記 )
参加者
北野忠彦、片野スミ子、 森静子、植木淑美、高芝一民、竹中彰、鎌田正彦、森武昭、笹本忠、丸山さかえ、本間正士、平井康司、小宮真理、皆川靭一、宇野良夫、原満紀        以上16名 


■第14回サテライト・サロン立川報告
・開催日:2012年9月4日 18:30分より
・講 師:石井秀典氏
・演 題:「東京都サポートレンジャーの活動について」

 福島県出身だそうだ。東京に出てから山岳会にはいり山登りを続けた。体調を崩ししばらく離れていたが、都がサポートレンジャー制度を創設し、会員を募集していることをラジオで知り、いの一番で入会した。山への恩返しのつもりだった。ことし3月まで6年間、奥多摩サボートレンジャー会の会長を務めた。
東京都レンジャー(Tokyo Park Rangers)は、平成16年に地方自治体初めての本格的レンジャー制度として発足した。都の専門委員である。東京には、国立公園が秩父多摩甲斐、富士箱根伊豆、小笠原の3つ、国定公園が明治の森高尾、そして都立自然公園が多摩丘陵、狭山、羽村草花、秋川丘陵など6つある。これらの地域に19名の都レンジャーが配置された。国立公園の管理者として環境省のパークレンジャーがいるが、許認可等のデスクワークが業務のほとんどを占め、現場で活動できない状況だ。これを支えて現場で活動するのが都レンジャーであり、さらに都レンジャーをサポートするのがサポートレンジャーだ。“サポレン”なのである。
平成17年度、サポートレンジャー制度の導入を決定。人材確保のために首都大学東京と協同で養成講座を開講し、18年度には高尾地域と奥多摩地域で活動するサポートレンジャー会を設立し本格的に活動を開始した。高尾サポートレンジャー会69名、奥多摩サポートレンジャー会73名がサポレンとして東京都に登録している。石井さんは、奥多摩サポレンの会長となった。
“サポレン”は自然公園を巡回しながら、道路や道標などの施設を見守り・維持していく。公園利用者に利用マナーを普及・PRする。公園施設の簡易な補修、自然環境調査、利用動態調査などを手がける。活動内容は多種多彩だ。
パワーポイントで奥多摩サポートレンジャー会の活動ぶりを紹介していただいた。活動は、2つの方法で実施している。ひとつは都レンジャーとの協働活動で、登山道・施設の補修、動物調査など。もうひとつはサポレンの自主活動で巡視、簡易補修、動植物調査など。活動実施は年間約100日。都レンジャーとの協働活動が4割、自主活動が6割だ。
奥多摩駅などで安全登山PR活動を実施する。都レンジャーカードの配布、登山者に対する登山道の状況やルートの解説・指導、植生保護PR、不適切な利用、不正行為の情報収集と対処など。
標識への落書きが多い。JR古里(こり)駅へのルートを示す標識に“ふるさと”とわざわざフリガナと書き込んであった。ただちに消去しなければならない。消えかかった文字には塗料を入れ、はっきり読めるようにする。迷いやすい場所に指導標を設置、危険個所には「ガケ崩れ注意」などのパウチを設置する。
力仕事としては、御前山・本仁田山などで登山道の補修、御前山で登山道の迂回路を設置した。道標の整備は老朽化道標の建て替えも。桟橋の清掃・補修、石尾根の石積み作業は登山道が広がってしまうのを防ぐ目的。その他、哺乳動物調査、ニホンジカの植物破戒調査、アライグマの生息分布調査、指定植物の生育・分布調査、蝶生息調査など。を都レンジャーと共同で実施している。
都の自然公園利用者は、年間1500万人にも達する。利用者の増加に伴う課題も多い。登山等の事故の多発、過剰利用やごみのポイ捨てなどマナーを守らない不適正利用、希少な植物の盗掘等の不法行為など。自然の保護と利用のバランスが崩れかけている。土地の所有形態むにかかわらず特別地域を指定しているため国などの公的所有地だけでなく民有地も含まれ、地域との調整とパートナーシップも重要だ。石井さんは「東京多摩支部にも理解を賜りたい」と締めくくった。支部として、なにができるのか。みんなで考えていきたい。
 (文責/橋重之)
<参加者>
石井秀典、岡義雄、河野悠二、大船武彦、岡田陽子、北原周子、大関保、中野英次、本多祐造、西村智磨子、芦川昌子、竹中彰、西谷隆亘、西谷可江、澤登均、川村光子、宮崎紘一、高橋重之、高橋郁子、田中恵美子、飯島文夫、小川武、小山義雄、小野勝昭、山本憲一  25名

■第17回サテライト・サロン町田報告
――車座会 報告――
8月29日(水) まちだ中央公民館 午後 6時15分〜8時10分
今回は、初めての試みとして文字通り車座となって会員の近況報告やスライド映写で残暑を吹き飛ばした。6時前から続々と久しぶりに会う仲間が集まった。スライド担当の笹本さんは、本間さんとともにパソコンの調整に挑戦。本間さんの司会でスタート。スライド映写:7月まちだサロン有志の北海道十勝山系花便り(笹本忠)、丹沢ネクタイ尾根ルート紹介(高芝一民)、マダガスカル紀行(丸山さかえ)、月山と鳥海山(本間正士)。近況報告会:竹中支部長の北海道テント山行の報告に続き、千葉県船橋市から藪田さん、足立区の深田さん、八王子の北野さん、南足柄市の上田さん、相模原市の片野さん、調布の原さんなど遠方から多数ご出席いただき、知人に病気や怪我の方が増えてきている話や滑落で複雑骨折しても猶、毎週のように歩いている話を伺った。安全登山を改めて心がけ、生涯現役で楽しんで歩きたいと一同再確認。一般的に年々、年齢が減る人はいない模様。であれば加わる年齢に合わせて、それなりの楽しみ方があっても良いのではと、町田サロンでは野外集会として「関東ふれあいのみち」計画にエンジン全開。支部の皆さん、是非お出かけください。次回の打合せ会の日程、野外集会の参加予約等を確認して散会、二次会会場へ移動した。
(文責:植木淑美)
出席者
荒木正弘、上田昌子、植木信久、植木淑美、宇野良夫、片野スミ子、鎌田正彦、北野忠彦、小宮真理、笹本忠、高芝一民、竹中彰、原満紀、深田美好、本間正士、藪田益資、丸山さかえ、森静子 (18名)


■第4回サテライト・サロン八王子・日野報告
・開催日:2012年5月29日
・会 場: 日野市/七生公会堂
・講 師:徳久球雄
・演 題:「関東周辺の山岳信仰」
・参加者:足立孝也、飯島文夫、大貫重子、河西瑛一郎、城所邦夫、澤登均、竹中彰、徳久球雄、水谷弘治  以上9名
連日の雷雨を伴う天気模様だけに、出足は少な目だった。内容は主として「山岳信仰」の意義について。例えば鈴木正崇の「山と神と人」によると、山岳は農耕・狩猟・漁労といった生業の差異を越えて、住民から自然崇拝の対象として崇められてきた。日本の民間信仰の基底には、厳しさを持つとともに親しみのある山岳に、宗教的意味を与えて尊崇し、それらを対象として宗教儀礼を行なう山岳信仰があり、これを基層文化として、さまざまな信仰形態が作り出されてきた。
山岳信仰の原型は、堀一郎によると、火山への恐れ(火山系)、源流地にあって水を司ること(水分系)、死後に人が山に埋葬されたこと(葬所系)―の3つの要素がある。和歌森太郎によると、この信仰の成立する契機を想定し@山体の神聖視ないしは、龍る神霊の存在の認知A生業と関連づけて恩恵的存在とみる態度(農耕民の水分の神、狩猟民の山の獲物の支配神)B平地民とは異なり、特別な力を持つとされる山人への畏怖感が原始的山岳信仰を形成したとある。
日本の山岳に対する意味付けの特徴は山中他界の観念であるといい、櫻井徳太郎によると、それは異郷他界観と死後他界観に分けられる。異郷他界観とは、閉鎖性の強い地域社会が自らを完結した小宇宙とし、その範囲外にある山を神霊の住む異郷とみて、境界には山の神などを祀るという水平的指向と、天と地の間に立っ山岳を人間界と神霊界とをつなぐ境界と考えて、山頂や洞窟を介して天空や地底の神霊との交感をはかるという垂直的指向から成り立っという。
一方、死後他界観とは人間が死ぬと、その霊魂は肉体から分離して村里近くの山へ登り、そこに鎮座すると考えて、祖先の霊はあくまでもこの国土に留まり、盆・正月などの特定の日に、遺族のいる家へ帰って祖先祭祀の座に連なる親近感のある存在であるとする。山を霊魂の故郷とみる考え方には、実際に山を祖先の埋葬地とし、死霊の龍る場とされたことが反映しているという。以上の他に、関東周辺の山岳信仰に伴う主要文献目録と関東地方の主たる社寺仏閣などの紹介があった。
(文/城所邦夫)


■第16回サテライト・サロン町田報告
§その1
5月30日(水)18:20〜19:10 「まちだ中央公民館」
講師 近藤善則 テーマ「山岳地理よもやま話」
プロフィール
1947年東京生まれ。学生時代は、丹沢を中心に登山活動。卒業後、山仲間と建てた山荘(嬬恋村)をベースに山とつかず離れず現在に至る。
日本山岳会会員で、科学委員会、山岳地理クラブに属す。現在、山研委員。

*ロングトレイルの発詳地は、米国である。
ロングトレイルとは、自然環境の中を歩くということで、北米大陸での3大ロングトレイル(ナショナル二ックトレイル・パシフィククレストトレイル・コンチネンタルデバイトトレイル)は、いずれもその長さが5千km前後と長大で、国が管理をしている。一方、我が国の主なロングトレイルを列挙すると、北根室ランチウェイ(70`)・十勝ロングトレイル(200`)・信越トレイル(80`)・浅間ロングトレイル(170`)・八ヶ岳山麓スパートレイル(200`)・塩の道トレイル(糸魚川⇔塩尻120`)・南房総ロングトレイル(100`)等々である。そして、その管理は、国を始め、地方自治体が主であるが、最近、「信越トレイル」のように、NPO法人が維持管理を行いながら、より多くの人達が、里山の美しいブナ林や、自然・地域の文化・歴史に触れることができるようサポートしているところもある。
*信州トライアングル
講師は、昨年1月より、本年4月に掛けて、「中山道(全長533`)」を完歩という快挙を果たされたそうです。「日本橋」から、「三条大橋(京都)」迄の69次の中で、信濃路・木曽路は、山に囲まれた険しい道を歩かねばなりません。山を越える峠道の面影は、すっかり無くなったように思われますが、それでも所々往時の状況を想像できる箇所が残っており、歩いている方も多く見受けられた。そして、ただ単に歩くのではなく街道筋に残る旧跡・一里塚・社寺等も訪ねた。またそのルートを調べている内に、日本列島の脊梁をなす「中央分水嶺」を4か所も越える街道であることが判った。 「中山道」の信濃路は、碓氷峠・和田峠・鳥居峠という「中央分水嶺」を越えて、太平洋側から、日本海側に二度入っています。そして、その日本海側の「追分宿」と「洗馬宿(せまじゅく)」からそれぞれ「善光寺」を経て、日本海沿岸に至る街道が北国街道です。その街道に囲まれた部分を「信州トライアングル」と名付けてみられたとのこと。講師の第二の居場所である「八重原(アトリエが設置されている)」は、このトライアングルの中に有るとのことで興味深い話しでした。
講演終了後、今後のサロン計画について話し合ったが、時間切れの為持ち越し課題とした。
参加者
近藤善則、今井千秋、飯島文夫、石原康生、宇野良夫、植木信久、植木淑美、上田昌子、大槻利行、荒木正弘、片野スミ子、鎌田正彦、北野忠彦、小宮真理、笹本忠、高芝一民、原満紀、本間正士、丸山さかえ、森静子 計20名

§その2 オプション(9名参加)
5月30日(水)14:00〜16:00「町田市大地沢青少年センター」
「蛇結茨(ジャケツイバラ)見学とピザ作り体験」
「大地沢青少年センター」は、町田市の西域に位置し市内最高峰の草戸山(364m)をはじめとする山々に囲まれ、町田・相模原の市境を流れ、江の島を河口とする境川源流域でもあり、沢蟹やホタルなども見られる自然環境が残された場所にある。
今回は、会員同士の親睦を図る狙いから、講演に先立ち実施された。舞台≠ヘ、屋外で今見ごろを迎えた珍しい、綺麗な黄色の五弁花を総状に咲いた蛇結茨(マメ科の落葉樹で蔓にトゲがある)の大樹の下で、宇野良夫会員の指導のもとピザ作りに励む。まず生地こね、そしてのし棒で生地を伸ばし、ピーマン・チーズ、魚介や肉等々、生地に乗せて、石窯で薪の置く位置に留意しながら、ピザ焼きが始まった。皆さん、どこかぎこちないない手付きで、そのピザは、それぞれ異なった形(個性が出ている)であったが、焼き上がるとどれも美味しく蛇結茨の花を見ながら沢山食べることができた。尚、ピザ焼きを始めた頃、偶然にも我々の隣に座を構えたギター持参の若者2名と話の花が咲いた。聴けば現在、下北沢でライブ活動しているとのこと。その名も自由模索隊≠ニいう。早速、意気投合し自作の歌を披露して戴くなどで、ベンチは、にわかにミニコンサート会場に変身した。(青少年センターという場所柄、アルコールは皆無であったものの大いに盛り上がった)それぞれ明日への山岳会活動の夢と希望を秘めながら、18時過ぎからの講演に出席のため会場を後にした。(文/飯島文夫)


■第8回サテライト・サロン花小金井報告
・開催日:2012年5月22日 18:35分より
・講 師:大関 保氏(9821)
・題 :「イェティとはなにもの」
 雨で肌寒い中、気管支を痛めておられたが、お話をして下さった。
子供時代タイムライフ誌の足跡の写真は覚えて居られたとか。
ガネッシュヒマール方面の遠征でBCから再トライしようとした時、チベットからの雪雲が近づき脱出出来なくなる前に撤収し、下山開始した。チリメコーワのゴルジュ帯の上部に羊放牧のための踏跡があり、それを辿ると扇形の平らな雪面が現れた。
そこに不思議な足跡を見た。(13:30分頃で3650m位)
カラーはザックの底だったのでとりあえず白黒で撮影。シェルパ3人は腰を抜かしたり泣いたり、まっ青の顔になったりして、イェティだと叫んだ。帰国して写真を見せたら大騒ぎになったが、ペテン師扱いされたりマスコミも押しかけた。サンケイ新聞社から中国の有名な野人研究家周教授との対談を依頼された。前漢時代にはすでに野人という言葉があった。中国の古書には「大脚怪」という文字もある。ガネッシュでの目撃は始めてだとか。色々イェティかも知れないという被害も出たり、ヒマラヤ雪線附近での目撃談も多い。日本でも探検隊が数回出ている。大関さんより新聞記事、写真等見せて頂いた。
足跡の写真があるという事は、何かがいるという事。「大脚怪」がいるかも!!と思っている方は、ロマンがあって良いねという結論でした。 (文責 原山恵津子)
出席者(敬称略)
古市 進、大関 保、小清水敏昌、西谷可江、時田昌幸、島田成正、原山恵津子、柄澤洋城 以上8名


■第13回サテライト・サロン立川報告
――青柳段丘の自然を歩く――   案内人:大船武彦
4月7日 集合JR南武線矢川駅 午前10時集合

― むかしむかし、大きな川が武蔵野台地に流れ込んでいた ―
青柳段丘は、多摩川が行った首都圏最後の自然改変である。むかしむかし、大きな川が武蔵野台地に流れ込んでいた。水の流れは台地を削り、しだいに段丘をつくっていった―。JR南武線に乗り西国立を出てまもなく、電車は急に開けた場所に出る。立川段丘から、青柳段丘に出るところだ。多摩川は青柳段丘を流れていたという。それが、いまの地域に移動した。信じがたいことだが、南武線の北側にあったことになる。

サテライトサロン立川で初めての野外活動だ。4月7日午前10時、南武線矢川駅前に集合し、青柳崖線に沿って歩いた。谷保村があり、江戸中期になって新しく青柳村などが開発された。国立に残った最後の田んぼも区画整理され市街化が進み、昔の面影はわずかにしかうかがえない場所になってしまった。失われつつある風景をのぞいた。矢川駅で降りたのは7名。穏やかな陽射しに恵まれ、春の水辺を散策するには、願ってもない日和だった。

<歩いたところ>
@青柳段丘、立川段丘、武蔵野面A東京都緑地保全地域/矢川公園、矢川、青柳村、常夜灯、青柳稲荷神社D滝野川学園と押ん出し(おんだし)Eまま下湧水、府中用水、国立古民家園、城山公園、歴史環境保全地域、青柳村と谷保天神――と、まあ、このようなコースだった。

谷保・城山は、東京都の「歴史環境保全地域」に指定されていて小規模ながらひときわ良好な自然地を形成している。区域内の植生は南側崖部分のシラカシ、ケヤキ林、また土塁部分のイヌシデ林によって代表されるほか、北側平地部分にはクヌギ、コナラの雑木林が生育している。これらに囲まれた中央部は、ケヤキやシラカシの屋敷林から常緑樹の多い自然林に移行しつつある。
コースは、そのまま歩いて国立駅へ向かう。ちょうど大学通りのサクラが七分咲きで、こちらも盛大な春の祭典だった。昼の3時だというのに、もう開いている居酒屋もあって花に浮かれた。植物観察でもなく歴史探訪でもない。まさに矢川から青柳を通って、谷保/国立へ歩く、このあたりの最もすばらしい季節を満喫した一日だった。
(報告/大船武彦)
参加者
守屋龍男、小山義雄、川村光子、高橋郁子、高橋重之、大船武彦、山本憲一 計7名


■第13回サテライト・サロン吉祥寺報告
――小野寺斉/中国・四川省の山と旅――
・日時 3月28日(水)午後6時30分から
・会場 吉祥寺 本町コミセン
※記録は、このほど発行された日本山岳会英文ジャーナルJAPANESE ALPINE NEWS vol.13 2012に収載されました。
目標はカワロニ峰、ポルジャモ峰
昨年8月1日〜26日、中国・四川省に出かけた。目標は四川省に残る未踏峰のカワロニ峰(5,992m)、ポルジャモ峰(5,816m)だった。6月初旬、隊員を募り東北大生2名を含む5名で登山隊を編成した。記録によるとカワロニ峰は1993年に山梨県岳連が偵察、2005年秋には英国隊が地元ラマ僧侶の強行な反対で引きずりおろされたとあった。ポルジャモ峰は2000年秋に中村保氏が撮影した写真だけだった。
7月9日、中国登山協会から目標の山の「登山許可証」を正式に入手した。先発隊1名が24日、本隊4名は8月1日に出発、とした。先発隊は7月27日、康定で四川大地探検公司の社長と一緒に甘孜蔵族自治州大域局の副局長(同州登山協会会長)に面談したところ、目標の2峰は信仰の「聖山」であるので絶対に登山は認められないと強く拒否された。丹巴在住の大川健三氏のアドバイスで四姑娘山群の未踏最高峰・日月宝鏡(リーユエバオチンGoromity 5,609m)に目標を変更した。

<日月宝鏡山> 8月1日、羽田からANAを利用し、成都に本隊4名が到着した。日月宝鏡山の資料、写真をネットで集録し食料、装備を揃えた。日本語の達者なべテランガイド、シェルパ、料理人を加えた8名が日本製四輪駆動車2台(運転手は中国人)に分乗し日隆へ向けて出発。4日は雨。日月宝鏡山の東面・西面を軽く見た。5日、2隊に分かれ東面の長坪溝と西面の双橋清からルートを偵察する。6日、民宿オーナーより紹介された地元農民に案内され、大牛場沢を詰める。荷揚げは現地人15名と馬4頭で4、250mのBCまで2日間を要した。10日、A・BC(4,550m)を設営。11日、3名でルート工作に向かった。4,850mでアイゼンを装着、南東のコルに突上げる。この先ルンゼしか登攀ルートはない。
シェルパが30mほど登ったが、「ここは危険だ ! カトマンズには家族もいる」と叫ぶ。このあたりは褶曲山脈、粘板岩のもろい材質。落石が多く登頂は危険が多く、断念する。12日、第2隊も登ったが、落石の危険が多いことを再確認する。この峰が未踏峰であったことが判明した。13日、A・BCを撤去。
<Kawarani/カワロニ峰> 15日、日隆から川蔵北路を丹巴、道孚、甘孜まで、道路工事で土ほこりの中、ドライブする。カワロニ峰山麓への脇道は車両が入れないため、地元チベット人と強引に交渉し、1人1,000元でバイクの後部座席にしがみ付き、北面壁を正面に見る地点(3,920m)まで到達、写真を撮った。周囲の畑はグリンピースの刈入れ作業中だった。
<Polujab/ポルジャモ峰> 16日、竹慶寺に到着。途中、左手に山が見えた。17日、2隊に分かれる。東面・小野寺隊は、竹慶寺の若い漢族の僧侶に案内してもらって寺の裏手から直登ルートを進む。若い僧は、ポルジャモという山は聞いたことがない、このあたりの最高峰はセジョンと称されて、チベット仏教の十大聖山だといった。4,400mまで登り雪を冠った主峰を撮影。「あれがセジョン峰だ」と言って降りていった。
<徳格、白玉など> 18日、徳格、白玉を経由し2、3日かけて甘孜に戻った。19日、ラマ経典の印刷で有名な徳格の印教院サカ派の寺を訪問した。木版印刷は、すべて「2人ひと組」の人手による力仕事で、2人の息が合わないと円滑に進まない。修行僧が一心不乱に読経するが如く迫力があった。白玉へは、長江(揚子江)の中流域(金沙江)の左岸沿いの土埃の道を進む。右岸はチベット自治区で車両道路は見当たらない。白玉では買い物ができたが、昌台では滞在と宿泊は許可されず、車中から撮影をするだけで通過する。路上で若いラマ僧と公安が互いに小づき合っているのを車中から眺めた。
20日、沙堆(シャドイ)村を再訪問した。05年に英国隊を案内したと言う村の若いガイドは、我々が行こうとする沢の隣の沢へ案内しようとするので、ガイド抜きで登ることにする。沢を直登しようとしたが、取り付き通が分からない。近くの民家で2人の少女に登山目的を告げ、案内を乞うた。両親が不在なので渋っていたが、50元で交渉して次女が引き受けてくれた。庭を抜けると、裏手から放牧用の踏み跡があり、尾根に直上する路に続いていた。絶景ポイント(4,230m)まで登り、純白の美しいカワロリ峰を撮影できた。
21日、チベット族の少女の家族(夫婦、1男3女)に登山隊の余った装備品を贈呈して喜ばれた。甘孜、理塘、康定へは霧と泥の中を2日間、雨中ドライブ、磨西へ迂回してミニヤコンカの拠点の村でラモシュ及び白海子山の迫力ある雄姿を間近に見ることができた。23日夕方、成都に帰着、和食レストランで日本酒を呑みながら総括した。費用は、50万円弱だった。文責/副島一義)

小野寺斉氏略歴
1950年9月岩手県宮古市生まれ、3歳から大船渡市で中学生まで在住。74年昭和山岳会に入会し、おもに積雪期北アルプス、黒部川流域の地域や剱岳周辺の登山を続けた。98年、エベレスト(8,848m)にチベット側より隊長として登頂。


■第7回サテライト・サロン花小金井報告
山の履歴書と題して古市進氏に講演を頂いた。
第1部は初登山からご自身の山歴などを紹介、第2部でガッシャブルム遠征、特にシルクロード、西域の印象、体験談を聞くことができた。
古市氏は岡山県のご出身で昭和22年夏、中学校生物部の合宿で伯耆大山に登られたのが初登山だそうです。
その後広島に移り大学院生の時、京都大学の友人に山を教わり、昭和30年24歳のころ北アルプス常念を縦走、山の指導者にも恵まれ、専門の研究も軌道に乗り始めたのもこのころだった。
特に1966年(昭41年)は海外渡航も解禁されて日も浅く、日本人を見かけることは稀であった時代にアメリカ物理学会から招待され、米国、カナダ、メキシコで講演、国際会議で主要な研究所を訪問、米大陸からヨーロッパにかけ9ケ国を巡り、シャモニーにも立ち寄り展望を楽しんだとのこと。
欧米ではベトナム反戦、ヒッピー、ビートルズ、ミニスカートが全盛で、中国では文化大革命がはじまり、世界の若者たちのパワーが爆発しはじめた時期でもあり記憶に残る貴重な一人旅を体験して帰国。
60歳をすぎてからネパール、中国をはじめインド、カナダ、韓国、モンゴル、ブータンその他の国々を訪問、精力的な活動をされている。
第2部で立教大学ガッシャブルムU峰登山隊は立教大学山岳部創部70周年記念として企画された登山隊で中国側からの未踏ルート(北東稜)を登る計画で古市氏は68歳で参加されている。
登山隊は北京、ウルムチ、カシュガル、イエチェンといった西域を車とラクダでキャラバンをして17日目にBCに到着。
この間地域ごとにある登山協会との交流や、車の故障、自動車事故、渡渉時にラクダが流されるなど思いもよらない事態に遭遇しながらBCに辿りついた話は西域のキャラバンの厳しさを知った思いがする。
登山活動は6780地点にC4を建設したが天候不順、雪崩、日数不足により登頂を断念している。
また、下山のキャラバンもシャクスガム河の増水で道路崩壊がいたるところで発生し、ラクダの調達も思うにまかせず苦労の連続だったが、各地域の登山協会や地域の守備隊の協力でなんとかイエチェンまで来ることが出来た。
登山隊は入山に17日、登山活動に57日、下山に15日かけ、物資の調達、運搬、通信手段には相当苦労させられたと思う次第です。
古市氏は還暦をむかえたおり「ある山の履歴書」という冊子を作成し、まえがきの中で「最も深くかかわってきたことは、本業である物理学は格別とすれば、山登りということになる。そして私の場合、本業の研究活動と遊びとしての山登りが様々に絡み合いながら人生の流れを彩っている」と書かれています。
60歳代からの精力的で行動力のあるご活躍を今回知ることが出来ました。
(文責 柄澤洋城)
出席者(敬称略)
岡 義雄、古市 進、時田昌幸、西谷隆亘、西谷可江、長澤 登、高橋重之、河野悠二、原山恵津子、柄澤洋城 以上10名


■第15回サテライト・サロン町田報告
――町田の最高峰をめざして――  3月11日(日) リーダー 高橋善護
 今回は、町田の北部丘陵を歩くコースの完結編で、町田の最高峰草戸山を目指します。JR相原駅からバス10分ほどで円林寺バス停。右に相武カントリー倶楽部ゴルフ場を見ながら北に向かい最初の目的地 山王社へ。法政大橋からジョギングコースに入ると学生と思われる若者達が走り抜ける。まもなく正面に清掃工場の建物が見え、左に折れて送電線の下を潜って行くと街道筋に出くわす。
看板は「恋路坂峠」と粋な名前がついているが、町田街道との事でした。
此処から山道に入るとかで小休止、何処からともなく嗜好品が廻ってきて楽しいひと時でした。地形図をみると此処から送電線を潜り、八王子市と町田市の市境を辿って権現谷に沿って草戸峠まで尾根筋を登っいくようだ。
里山歩きより山道の方が歩いていて気持ちよい。やがて権現平なる標識を通過して行くと、段木入(だんぎいり)と記された標識が現れ、権現平、草戸峠との分岐を示していた。トレールを左に50m程の所に展望台がある。「ヤブツバキが咲いているよ」という声する。皆さん歩きながら色々な植物を探すものだと感心させられた。ようやく東高尾山稜の草戸峠に到着、10人ほどの若者達と出会い、休むまもなく頂上をめざして南下する。町田市最高峰 草戸山(364m)山頂直下の階段で若者グループに追い越された。ヤレヤレ、年寄りは辛いね。山頂では、写真を撮っただけで直ぐに本沢ダムに向かい下山する。段差がありすぎて歩き憎い階段を下りて城山湖に到着。本来なら城山ダムというべきでは。。。山頂から見た双子の牝龍籠山を左に回って金刀比羅宮に到着、急階段を下って公園にたどり着く。食事担当以外の有志9名で、牝龍籠山(348m)へ登る。山頂には墜落した戦闘機の慰霊碑(航空神社)が建っていた。公園に戻ると、丁度キムチ鍋が出来上がっていた。何となく「皆様、準備ご苦労様でした」とか何とか言いながら、澄ました顔で仲間の中に溶け込んでしまいました。ドリンクコーナーの飲み物をチョッピリ(?)味わいながら、鍋をつつき、つまみをパクつく。皆、口々に「うめーやー」とほえたてる。独り者の軍曹なんか、こんな豪華な昼飯など日頃食べた事がないです。
  。。。。里山あるき毎週やってくれませんかねえー。。。。
今日は、3月11日だ。持参した携帯ラジオで2時46分丁度、全員で東の方角に向かい整列、1分間の黙祷をしました。昨年の大震災では、多くの方が涙を流されたことでしょうが、1日でも早く復興されますことを念じた。
下山路は、ゆっくり歩いても1時間未満とかで、皆思い思いにゆったりとくつろぎながらハイキングコースの小松林道を下る。評議原、小松城跡等の看板を見ながら、蛍の生息地 穴川を越えて県道に下り立つ。此処までで万歩計は、2万3千歩。見覚えのある円林寺バス停に到着し、今日の全コースを完歩した。最後に鍋の準備手伝わず、申し訳ありませんでした。素敵な出会いがあって楽しかったです!ありがとうございました!!(報告・原 満紀 )
参加者
高橋善護、荒木正弘、北野忠彦、高芝一民、植木信久、植木淑美、笹本忠、丸山さかえ、本間正士、片野スミ子、小宮真理、宇野良夫、森静子、飯島文夫、鎌田正彦、平井康司、原満紀、ゲスト:長谷川昌雄  18名


■第12回サテライト・サロン立川報告
2012年2月27日(月) 講師:神崎忠男  テーマ:「山」を語ろう
日本山岳協会会長として、多忙な職務をこなしておられるなかで感じたことを率直に語ってもらう。また、話を聞くだけでなく、登山界、日本山岳会、東京多摩支部の将来についてみんなで語り合おうという趣旨で始めた。

<山を好きになった責任をとってほしい>
山を好きになった責任をとってほしい―と切り出した。併せて、日本山岳会の会員になった責任も―と。ドキッとする話だった。よく聞くと、登山の秩序を守らなければならない。自ら安全を確保しなければならない。登山の環境を整備しなければならない、などという。それなら納得できる。
登山を3つに分類した。第1は卓越登山、第2は健康登山、そして競技登山だそうだ。卓越登山は、ヒマラヤの高峰をめざしたような、より高くより困難な山登り。健康登山は安全で楽しい登山で、これは中高年齢層だけでなく若い人たちにも通じること。競技はクライミングであり、とくに高校生の熱意はとめられない。
わが国の登山人口は1000万人に達する。日本山岳協会5万人、日本勤労者山岳連盟3万5千人、日本山岳会5200人、日本ヒマラヤンアドベンチャー トラスト(HAT-J)900人などを合わせ、組織にはいって山登りを楽しんでいる人は10万人程度、全体の1%にもならない。ほとんどが未組織であり、安全、自然保護、情報交換が統一的に行われていない。こんなスポーツはほかにない。バレーにしてもサッカーにしても、みんなが組織にはいって技術の向上・普及に努めているのに、登山界の小さな組織は、いま縮小し高齢化し多様化に対応できないであえいでいる。
登山を充実させていくためには、登山を取り巻く環境を整備していかないといけないのではないか。日本山岳会にはいってクラブライフわ楽しむ半面、公益活動というか社会貢献もしなければならない。昔は登山者のモラル、マナーがあった。代々育み養われてきて気質だ。規定や規則がなくっても秩序や規律は守られてきた。いまは自信や誇りが自慢や驕りに変わってしまった。

討議  <組織の若返りには、社会に親しまれる山登りを>
山本 日本山岳会会員の高齢化が進み、若い会員をどうふやすかが大きな課題になっている。JAC-YOUTHが発足したとはいえメンバー増はわずか70人だ。どのようにすればいいか。
副島 60歳とか65歳とか、定年退職するあたりになると山登りをするようになる。しかし若い人、勤めている人は時間が取れず、なかなか難しい。ならば、お子さんとかお孫さんと一緒に山に登るのはどうだろう。まず身近なところから始められないか。
神崎 組織のなかで若い人を動かそうと思っても動かない。過保護とも思えるような形で「活動してください」と言っても限界がある。そうではなく、広く社会に向かって働きかけることだ。社会に親しまれる山登りを普及させていかなければならない。日山協で若者向けイベントに100万円の予算をつけている。昨年は12の県岳連から応募があった。まだまだ少ないが、キャンプや山歩きを実践した。高校山岳部も活発だ。霧島や青森での全国大会に参加させていただいた。それぞれ500人近くの生徒が集まっていた。きちんとした装備で山登りした。テントの張りかたとか、食事の仕方、規律などを競い合う。そんな若者たちとコミュニケーションを取っていけないだろうか。
 奥多摩にヤマガールがそうとうな数で登ってくる。事故はない。事故の前に携帯電話で助けを求めてくる。知識とか技術とかはまるでダメ。道が分からなくなるとすぐ連絡してくる。高校生は千葉が活発だ。千葉に大きな山がないからかも知れない。高校総体の予選などで奥多摩にくる。
神崎 若い人を組織化する方法として、会友ではなく、東京多摩支部のなかに高校生部とか青年部とか、あるいはヤマガール部というようなセクションをつくって、そうしたなかで活動してもらうような環境をつくれないか。いまや支部の時代だ。支部の精力的な活動が日本山岳会を支える。

<高齢会員向けサービスを強化する>
山本 高齢者向けの会員サービスについては、どうだろう。東京多摩支部の平均年齢は69歳である。現実の問題として高齢者のことも考えなければならない。
澤登 高齢者向けに、安全でのんびりした健康的な登山を考えていかなければならない。
西谷 若い人たちと一緒に山に登るというのはとてもいいことだ。嫌がられるかも知れないが、見習ってくれることもあるだろう。若い人がはいってきても援助できるような態勢をつることが必要。そのために支部活動を活発にすることだ。 竹中 昨年暮れに支部活性化について提言をまとめた。当面、定例山行などを中心に活動していくことになるが、写真とかスケッチなどの文化的な活動に対するニーズ、また山行記録を発表する場がほしいという希望があれば、そうしたものを考えていかなければならない。作業を伴うものもあり、支部会員の積極的な参加を期待したい。
大関 山行委で、新年度から平日山行を実施することになった。
西谷 一般にオープンしてはどうか。東京多摩支部の分境嶺踏査に参加したことがきっかけとなって日本山岳会に入会した。非常にいい企画だった。今回も一般に広く募集してはどうか。
大関 せっかく東京多摩支部の会員になりながら、山行委の主催する山行についていけない人も多い。そこで、比較的やさしい山行を企画し実施日もウィークデーとした。そんないきさつで東京多摩支部の会員に限定した。
大船 日本山岳会の自然保護委で古いデータや資料を集め始めた。1950年代の山の写真をみると、いかに自然が変わっているか歴然とする。集めた貴重な“資産”をどのように利用するか。「山の日」制定運動とも結びつけたい。山に登れなくなっても仕事はある。
荒井 情報が欲しい。たとえば保険。いちばん簡単な「軽登山」に加入したが、ピッケル・アイゼンの必要な山登りはダメらしい。それでよかったかな、と思っている。
西村 さまざまな山行を企画し実行していただいている。それに参加しているが、若い人の老齢者への気配りを考えると参加するのを躊躇してしまう。
田中 若い人たちと一緒に登ると遅れてしまう。日ごろ、トレーニングを実施しているがもっと工夫したい。
渡邉 写真を撮るのが好きだった。しかし、山を撮っても空ばかり。日本山岳会の撮影会が上高地であって入会を誘われた。山に登れなくなってから展覧会をみて歩いた。次第に、いい写真が分かるようになった。山が好きで、山に登れなくても会員であり続けている。

<市民講座を立ち上げる>
渡辺 武蔵村山市に住んでいる。市内在住の日本山岳会の会員は1人だけ。市長に会ったとき会員増強について協力を要請した。市長はあまり関心がなかったが、課長を紹介してくれた。いろいろ話すうちに小学生・中学生を雲取山に連れて行く話になった。市内に小さな登山クラブがあるが、対応できないという。日本山岳会に協力を要請された。ぜひ検討してもらいたい。
副島 武蔵野市で初心者向けの登山スクールを続けている。毎年9月から3月まで、装備やマナー、地図などについて講座を8回開き、終了したあと雲取山、金峰山などに登る。卒業者はグループをつくり連絡し合って山に登っている。問題は募集だ。広報手段が市報しかないから募集は容易ではない。大学や高校などにビラを貼らしてもらえないか、と考えている。
神崎 登山教室は、実際にやることと人集めの2つの歯車がかみ合わないとうまくいかない。
山本 東京多摩支部で市民登山教室を実施することになった。プロジェクトチームをつくり、具体的な内容の検討を開始した。市や町とタイアップ、20〜60歳代を対象に3か月くらいの期間で講座を開き、また山に登る。最初は立川市の市民講座のひとつとして実施できないかと考えている。
田中 国分寺市で市が中心になってハイキングサークルを立ち上げた。ハイキングばかりでなく、常念岳など3000メートル級の高山にも登ったが、メンバーが高齢化、またメンバーの希望とハイキングにこだわる市の意図がかみ合わず下火になってしまった。会を支える力がほしい。
河西 山に関心を持っている若い人は多い。「高尾の森づくり」にも、30歳代、40歳代、また学生とか、親子とかで会員になっている。ホームページでみて入会してくる。メンバーの若返りが進んでいる。専門学校の生徒さんが集団で参加してきたこともある。作業のひとつとして木を切ったことが楽しかったようで、学校からも続けて参加させたいという要請があった。企業も関心を寄せている。会員が増えるのは、なにか面白いことをやっているといわれているからだと思う。楽しくやりましょう。
(文/高橋重之)
参加者
平井康司、渡辺顕次、本多祐造、橋重之、橋郁子、竹中彰、近藤裕、柄澤洋城、岡義雄、大関保、澤登均、大船武彦、小清水敏昌、酒井省二、田中清介、河西瑛一郎、金邦夫、荒川龍治、渡邉正子、副島一義、廣田博、西村智磨子、西谷隆亘、荒井壽一、西谷可江、矢野光之、神崎忠男、山本憲一 計28名


■第14回サテライト・サロン町田報告
2012年2月29日(水)まちだ中央公民館 「5000m峰の登り方」  高橋善護 
高橋講師は,中学時代より登山を始め、1967年ヒンズークシュ、1971年マナスル西壁を初めアンデス、カフカス、アルプス、ロッキー、アフリカなどの世界の高峰登攀の経歴をもつ。1970年より日本山岳協会海外登山委員。日本山岳会へは1967年入会し、1976年より高所登山委員を務めた。
その豊富な高峰登山経験を踏まえ,モンブラン、エルブルース、オリサバ、キリマンジャロ、アコンカグアの5〜6,000m峰における登降表を提示して高峰登山の心得や注意点について話された。
高山病(低酸素症)はおよそ3,000mから発生してくるので「高く登って、低い所で寝る」ことが高所順化の基本である。7,000m近いアコンカグア登山では、ベースキャンプより上で登降を繰り返し(鋸歯運動)、徐々に低酸素状態に身体を慣らして高度を上げていく登山法が採用されている。これには当然高所順応の為の登山日数が必要だ。
しかし例題に挙げられた5,800mのキリマンジャロ以下の5,000m峰では、順次登りながら、最終の山小屋(キャンプ)から頂上まで高度差1,000m以上(エルブルースやオリサバは1,500m以上もある)の長時間のアタックする登山法が採られている。このアルパインスタイル登山法は、短期日で鋸歯運動を行わず一気に登る為、高山病が必ず発生する。ので、事前に他所で高所順化しておくか、高所順応を図りながら登山(難しい)を行っていかなければならない。
日数が限られるツアー登山の場合、酸素の少ない中で、ツアー参加者の体力不足や高所経験不足があいまって、登頂に失敗する例が多くみられるので要注意である。
高所順応を除いた高峰登山の要点は、対象の山が大きい為に「1に体力,2にスピード,3に技術」が重要なポイントになる。登山体力がないと高所順応の為の鋸歯運動ができず、(鋸歯運動ができないと高所順応ができにくくなる),そしてアタック時に体力が消耗していて登頂できなくなる。たとえ登頂できたとしても体力を使い果たした為フラフラになっていて(高所順応不足) 今度は頂上からの下降が危険になる。下山時に遭難が多いのはこの為だ。
故に5,000m以上の高峰登山を志す人は、常日頃の国内登山でも1,000m以上の高度差のある登山を常に心がけ、長時間登れる体力増強を図って高所で動ける身体を作っておくことが肝要であると、高橋講師は注意喚起された。
また高所順応を生半可な知識で対応するのは大変危険であるので、高山病の理解を深め、正しい高所順応を図るための講習が別途必要であると思われる。
(文/笹本忠、高橋善護)
(参加者) 
荒木正弘 今村千秋 石原康生 宇野良夫 植木信久 植木淑美 片野スミ子
小宮真理 笹本忠 高橋善数 高芝一民 原満紀 本間正士 丸山さかえ 森武昭 森静子 以上 16名 


■第11回サテライト・サロン町田報告
2012年1月22日(日)「相模野基線網を歩く」と「コンパスの使い方」 
講師・案内人 北野忠彦
 カラカラ天気のところに降った昨日の大雨、今日も一日雨の予報で、昨年入会したばかりの私は、本当にコンパスの講習ができるのかと不安に思いながら、東急田園都市線すずかけ台駅前に急いだ。
 先ず2万5千、「原町田」の地図に高尾山(標高100・5m)同じく「座間」の基線南端点、再び「原町田」の地図に基線中間点と、基線北端点を探し出し、それを定規で結ぶ作業を試みる。 しかし、不安定な場所で2枚の地図を重ね、さらに傘をさし、寒さに震える手では難行する。 それでも、シルバーコンパスを第一目的地の高尾山に合わせ歩き始めると、雨は次第に止んできた。
 高尾山は小高く、今でこそ住宅やビルが立ち並び様相が一変したが、かっては、ぐるりと相模っ原を見渡せ、背後には丹沢山塊の連なりを眺められる気持ちの良いところだった。
 今日歩く相模野は小学校時代から16年間過ごしたが、「相模野基線」とは初めて耳にした。 これが、明治15年(1882年)当時の陸軍参謀本部測量課(現国土交通省国土地理院)によって定められたものであることを知る。 そのことの重要性に気づいたのは電車を乗り継ぎ、小田急南林間駅から基線南端点、さらに進んで中間点に到着した時であった。
 「相模野基線」は南端三角点座間村(現座間市ひばりヶ丘1−29−1)と北端三角点下溝村(現相模野市南区麻溝台4−2099)の両地点を結ぶ直線である。 三角点というと山頂にあるものと思っていたが、ここでは平地にあり、しかもどちらも一等三角点という事実は新鮮な驚きであった。
 基線を底辺として、東に位置する長津田村三角点(現横浜市緑区高尾山頂)を結ぶ三角形が今日の歩いた行程である。 基線から反対側にも西に位置する鳶尾山三角点(厚木市棚沢鳶尾山頂)を結ぶ三角形を形成し菱形になる。 さらに、高尾山、鳶尾山を底辺に北に、連光寺三角点(多摩市連光寺天王森公園内)、南に浅間山三角点(平塚市高麗山公園内)を測量し、次に連光寺、浅間山を底辺に丹沢山、鹿野山を結び、「相模野基線網」が完成するしくみである。 案内板の図形はそのことを示していた。  その後、日本経緯度原点(港区麻布台)、丹沢山、鹿野山を結ぶ三角形の各辺を基点として、全国に一等三角点網が形成されていくことになる。 まさに「相模野基線」は日本の三角測量の出発点と言える。 多摩地域に住み、日頃地図にお世話になっている者として大きな収穫であった。
 昨今の開発の中でも、北端の三角点は用地が確保され、史跡として保護されていたのは幸いであった。 しかし、南端三角点の位置は確認できたものの、残念ながら個人所有(鳥羽内科の敷地)となっていた。 貴重な遺産として、もっと広く知られ、大切にされてもよいのではないかと思う。
 大正12年(1923年)の関東大震災の前後では「相模野基線」が24cmずれたと聞く。 昨年3月11日の東日本大震災ではどのくらいずれたのか? GPSのデータとも合わせて、現在調査中とのことである。(報告:北原周子)
参加者
北野忠彦、足立孝也、植木信久、植木淑美、宇野良夫、片野スミ子、鎌田正彦、北原周子、倉持内武、小宮真理、笹本忠、高橋善護、竹中彰、原満紀、丸山さかえ、森静子、(ゲスト)平野彰。 計17名




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