サテライト・サロン活動 (2011年)

■第12回サテライト・サロン町田報告
「陽だまりの鶴川(2)―鶴見川源流を訪ねて」
今年2月の「陽だまりの鶴川」(黒川駅〜唐木田駅)に続く、鶴見川源流を訪ねる町田地元の里山歩きである。小田急線唐木田駅から尾根幹線の大道路を横断し、南の善治ヶ谷に降りて山里の景色を楽しんだり、西山中谷戸・野中谷戸間の尾根に登って富士山を望んだりと、南北上下ジグザグにコースを取りながら、多摩市と八王子市との三市境にある尾根幹線道路沿いの山王塚跡(給水塔)に飛び出す。すぐそこは多摩ニュータウンの長池公園と高層住宅街だ。
休憩後、幹線道路から自然豊かな鶴見川源々流の谷(保水の森)に降り「源流の泉」に出る。谷戸からの水をコンコンと湧き出している「源流の泉広場」は工事中なので、田中谷戸をつめて尾根緑道に出て源流歩きは完了した。尾根緑道は丹沢山塊と相模原台地が一望のもとに眺められる大展望台だった。
180.3m三角点そばの台地で昼食タイムとする。草地広場には格好の大テーブルがあり、参加者全員がお鍋を囲むのに丁度よい大きさだ。ドリンクコーナーも設けて舞台は出来あがり、天気はよく暖かく、まったく文句のつけ様がない大昼餐会がはじまる。飲み食いしながら全員から今後の登山計画やら要望やら一言三言あり、和気あいあいのサロン集会であった。こんな屋外集会は大歓迎だし、サロン世話人のアイデアには大感謝である。すこぶる良い気分になって尾根を下ると京王線多摩境駅で、そこで解散した。
多摩市と八王子市に接する町田市の北部丘陵は開発が遅れたため、雑木林や谷戸、田畑など興味深い自然が残されているが、この里山もリニア新幹線計画やら、小田急多摩線延伸計画、町田市のゴミ焼却場建替え計画、多摩都市モノレール延伸(どうなったか?) などの候補地になっていて、これからの変わりように注意していく必要がある。
先々週(11/13)は「相原の里山」を歩いており、これで川崎市〜多摩市〜八王子市の町田市北部市境を歩いてきた。次回の町田市の最高峰・草戸山(364m)登山で、「町田主脈(多摩川と鶴見川・境川の分水嶺)から高尾山まで」の地図に引く朱線が完結する。 (記・高橋善護)
参加者
原満記、荒木正弘、坂本正智、高芝一民、植木信久、植木淑美、笹本忠、本間正士、
片野スミ子、小宮真理、宇野良夫、小松原勝久、飯島文夫、鎌田正彦、長谷川昌雄(SL)、橋善護(L)  計16名


■第12回サテライト・サロン吉祥寺報告
 11月30日(水)午後6時半、「宗谷時代の南極物語」と題して第一次〜第三次まで南極観測隊の一員だった中村純二氏(会員4541)の講演が始まった。南極観測で一番印象に残っているのはカラフト犬の「タロ」「ジロ」が極寒の地に生きていたことである。もちろんこの感動的な話もあった。配布した資料(中村純二著:幻の第二次越冬隊とタロ・ジロ)を基にして話し、その後多数のスライドを用いて解説した。
わが国が南極観測に参加したのは昭和31年(1956年)からで、隊員の選任に当たっては研究的な能力のほか冬山の経験などが求められたこともあり、東大や京大のスキー部、山岳部OBからも人選された。隊員は気象、オーロラ、電離層、宇宙線などの観測を主とする者、また観測をサポートする機械、通信、食料、装備など厳寒の地で生活していくための役割を託された者で構成された。昭和32年10月に日本を出発した観測船「宗谷」は、交代の第二次観測隊を乗せ同年末には昭和基地付近に着いた。しかし氷が厚く天候も悪くなかなか前進できなかった。その時、米国の砕氷艦バートン・アイランド号が応援に来てくれたが、約30日あまり経っても接岸できなかった。2月初めに小型飛行機を利用し何とか11人の第一次越冬隊員とカラフト犬3匹を収容できた。一次隊の残した食料や燃料も充分にあることから中村氏らが永田隊長にこのまま越冬して観測を続けたいと訴えた。しかし、天候悪化、日程、船の燃料などから許可が得られず結局、帰国期限日となり2月24日宗谷は日本に向けて出航した。これが「幻の第二次越冬隊」となった由来。一方、カラフト犬15匹を連れて船に戻るつもりでいたので、鎖につなぎ多量の餌を傍に置いて、急いで飛行機に乗り船に戻った。その時、中村氏たちが乗った小型機に向けて、犬たちが一斉に吼え始め悲しげな甲高い声であった。その声はいまでも耳に残っていると沈痛な面持ちで述べた。その後、船は一端外洋に出たあとに再三にわたり基地を目指したが厚い氷に阻まれ、どうしても接岸できなかった。こうして、宗谷は日本に戻った。しかし、第三次観測隊員を乗せた宗谷は昭和34年1月9日、昭和基地沖に無事到着した。最初の偵察のヘリから黒い動物が2匹動いていると報告があり、犬係が基地に降り近寄ったところ最初は警戒していたが、「タロ」「ジロ」と名前を呼んだら飛びついてきた感動的な話であった。タロとジロは越冬中に嗜好が変わって動物食を好むようになり、死んだあざらしの肉を食べて生き延びた性であろうと想像されるとの事。スライドでは、オーロラ、ペンギンや南極奥地の調査などがきれいな状態で映された。また、南極へ向かっていた宗谷での出来事。インド洋を通った際に、夥しい流星群に遭遇し第一次観測隊の中村氏が直ちに観測して記録した。ほうおう座付近にあったので「ほうおう座流星群」と命名。その後、世界中では観測されず「幻のほうおう座流星群」と言われていた。しかし、これらを研究し続け科学的手法で計算した結果、ブランペイン彗星から放出されたダストが「ほうおう座流星群」であることが2005年に日本人によって確認された。南極に赴く途中で中村氏が宗谷で観測して以来49年ぶりに判明したことは当時の世界の天文学で話題になったという。中村氏の撮ったオーロラの写真は美しく、当時は外国からも提供の依頼が多かったという。吉祥寺サロンとして今回初めてスライドを用いての講演であったが、オーロラの現象などの「サイエンス」、厳寒の下で生きていたタロ・ジロの「生命力」、南極という未知の地における観測を通した「冒険」が焦点であった。また、その他、犬には回帰性があるので、ヘリコプターから犬の尿をまいた話、犬が人糞を食べるので、数匹の時は少しずつ場所を変えながらキジ打ちをした話等々、活字にはなっていないサテライトに参加したからこそ聞けた 臨場感溢れる話で、時間の経つのも忘れ、もっと聞きたいと思う内容だった。講演中 側に寄り添われてにこやかに頷いて居られる奥様のお姿も印象的で感銘を受けた。尚、中村氏は日本山岳会副会長を1993年から3年間務め、2008年には名誉会員に、東大名誉教授。多摩支部に最近入会した新人も参加し熱心に聴いていた。(文責 小清水敏昌)
出席者
中村純二 中村あや 川合 周 澤登 均 山口峯生 原山美津子 大橋基光
岡 義雄 河野悠二 笠原 功 金子 浩 川口和男 下田俊幸 徳永泰朗 
西谷隆亘 長谷川公子 宮川清彦 渡邉正子 宇多俊二 市川義輝 川村光子
副島一義 小清水敏昌 非会員(計24名)


■第11回サテライト・サロン立川報告
――震災ボランティアで見たこと・感じたこと―― 講師:坂本正智氏
 12月12日(月)午後6時半から、東日本大震災のボランティア活動に参加された坂本正智会員に、体験談を語ってもらった。すでに支部報「たま通信」5号に寄稿されているが、その後も続けられており改めて話していただいた。6〜8月に宮城県石巻市などで、ヘドロの除去、カキ養殖の整備、海水に浸かった写真の再生―など、さまざまな作業を体験された。坂本会員は、淡々と次のように語った。
ひょっとしたことで涙が出るようになった。3月11日以来、最初はそうでもなかったが、被災地の映像をみるうちに落ち着かなくなった。親を亡くした子どもをみると、いたたまれない。テレビを見ているだけではダメだ。現実を前にして、自分になにができるかを考えなければならないと思った。どこかで決着をつけなければ、と思った。ボランティアは、やったことがない。
“ピースボート”というNPOがボランティアを募集していた。6月初めに申し込んだ。若い人、学生が中心だった。留学生もいた。1組7〜8人だった。寝袋、炊事道具、マスク、ゴーグル、安全靴、革手袋などとともに期間中の食料を用意した。単独行動は許されない。みんなの意思で車を利用し、東松島から被災地に入った。石巻専修大学のキャンパスがボランティアの拠点になっていた。そこにテントを張って寝泊りし毎日の仕事を探す。われわれは、小さな体育館のような建物を宿舎とした。壁に津波の跡があった。市の社会福祉協議会が窓口になってまとめている。
作業は床下や側溝にたまっているヘドロを除くことだった。床下はからからに乾いてひび割れしていたが、側溝のほうには工場の油や腐った魚、さまざまな化学薬品が混ざり合っている。真っ黒だった。異臭に悩まされた。20cmは堆積していただろうか。どろどろだった。スコップやクワを使って取り除き袋に入れた。袋がたまるとトラックに積んで山のなかの捨て場に運んだ。朝9時半から午後3時ごろまで続いたが、1日かかっても20メートル進んだか、進まなかったか。広大な被災地のなかでなにもしていないと同じだ。達成感はまったくない。
とにかく若い。女の人は元気だった。懸命になって作業していた。1か月以上いるという人もいた。「車の免許をとろうとして貯めた20万円をつかっている」と言っていた。「町の人に話しかけてください」とも言われた。鬱積していたものがほぐれるようだ。きっかけをつくってやればいい。自衛隊が風呂をつくった。「北上の湯」と名づけた。おおきなテントの中にパイプでワク組みをつくりシートを張り、外のボイラーで沸かしたお湯を満たした。
自転車で市街地を回った。海岸通りはまったくひどい。3階建ての市立門脇小学校から見下ろすと海まで500メートルくらい。その間、建物がまったくない。あの時、津波が複雑な渦をつくって流れ、車を学校に集めた。火がついた。消防車は背後の住宅地を守り学校は焼けた。避難者は2階の窓から裏山に逃げた。日和山だった。その丘に登った。町並みがよく見えた。なにもない。に「もう一度やってみよう」という気持ちが込みあげてきた。
しばらくして、多摩市の社会福祉協議会から電話があった。「多摩でもやっている。7月に出かけるグループに欠員がある」という。加わった。行き先は今度も石巻市だった。現場は牡鹿半島の小網倉浜という小さな漁村だった。50戸ぐらいがカキの養殖で生計を立てていた。300台くらいあった筏が流され、残ったのは50台くらい。網やブイやカキがごしゃごじゃになって絡みついていた。サルベージが回収したのがヤマと積み上げられている。これを手でほどく。真夏のこととあってカキが腐っていてすごい臭い。港は1mくらい沈んでいて波がぴしゃぴしゃ寄ってくる。大潮までに作業を終えろという。ブイはプラスチック製で無数にあった。直径60cm。2万円ほどもする。使えるものは回収する。
3回も大津波にやられた。「もう終わりだ」と思ったと土地の人は言った。そこへボランティアがきた。「やりましょう。手伝いますよ」と言った。復興の背中を押した。カキはホタテの殻に穴を開けて種をつける。それをロープに挟んで吊るす。懸命の作業が始まった。たまたま、カキ棚を出すところに行き当たった。「きょうカキ棚の船が出る」と、みんなの顔がイキイキしていた。そうだ。われわれが、この人たちを元気づけている―と、涙が出てきた。
市内で写真の整理をやった。箱の中にいろんなものがある。アルバムがある。位牌もある。写真はアルバムからはそっと剥がす。それらをたらいのなかで洗う。刷毛で丁寧に洗った。みんな笑っている。いまも元気だったらいいな、と思った。顔を傷つけた。ゴメンネと言った。お見合い写真もあった。嫁に行ったかな。この仕事は、一連の作業のなかでいちばんつらかった。 回を重ねるにつれ気持ちが楽になった。「なんの役にも立っていない」というような不完全燃焼がなくなっていった。1回目の帰る途中だった。朝10時ごろ、仙台から帰る沿道にパチンコ屋があり、大勢の若者が開店を待って並んでいた。「このヤロウ」と思った。憤慨した。多くの人が震災の犠牲になっているのに―と。しかし、思い直すことがあった。牡鹿半島で区長が「これで日常の生活に戻れる」と言って喜んだ。そうだ。パチンコも日常生活のひとつではないか。われわれは被災地の人が日常生活に戻れるようにボランティアをやっている。それでいい。憤慨したことを反省した。 (文/橋重之)
<参加者>
小山義雄、西村智磨子、河野悠二、西谷隆亘、西谷可江、岡 義雄、富澤克禮、
大船武彦、坂本正智、荒井壽一、川越尚子、澤登 均、高橋重之、高橋郁子、
本多祐造、平野武利、川村光子、小川 武、宮崎紘一、山本憲一  計20名


■第6回サテライト・サロン花小金井報告
平成23年12月8日開催場所を急きょ変更して、洋菓子店「くにひろ」でコーヒーとお菓子付きで開催した。
講演内容は「ぼくの奥の細道 俳句ing (芭蕉の足跡を辿る)」
講師:岡義雄氏(会員番号5253)
今回初めてパワーポイントを使った映像と解説という方法で進められた。
先ず講師の山歴が紹介され、中3で富士山へ、大学時代は北アルプスを中心に登り、1961年日本山岳会に入会、その後百名山を踏破、ヨーロッパアルプスやヒマラヤトレッキングに参加という素晴らしい山歴の持ち主でした。
一方2008年から始めた「ぼくの奥の細道」は、かつて松尾芭蕉が辿った「奥の細道」を忠実に辿り、2011年10月まで通算62回、年平均4〜5回の割合で歩き、今年10月28日に入善―黒部大橋―魚津の18.2kmを歩き終え、通算歩行距離は1.712.8km(道草167.3km含む)という驚異的な旅をされてきました。来年5月頃までに終点大垣に辿りつきたいとのことでした。
「奥の細道」を歩き始めたきっかけお聞きしますと、幼い時から百人一首やっていたので短い言葉で感情を表現できる俳句に興味を持った。またトレーニングとしてウオーキングの延長上に奥の細道があったとのことでした。
その他にも奥の細道に拘る様々なエピソードが紹介され奥の細道の奥深さや、興味深さを知ることができたようです。
最後にパワーポイントで歩いた順路に沿った句碑等が写真で紹介され福島県白河まで来て時間切れとなった。岡氏は来年5月頃までに終点大垣に辿りつきたいとの計画があり、「奥の細道」完全踏破後に再度サロンでの講演をお願いして今回は終了した。
その後サテライト・サロン花小金井の忘年会を花小金井駅前の白木屋に14名が集まり奥の細道談義やら、犬ぞり談義で盛り上がる中、平成23年のサロンを閉じた。
(文責 柄澤洋城)
出席者(敬称略)
岡 義雄、古市 進、時田昌幸、西谷隆亘、西谷可江、大船武彦、小清水敏昌、松本好正、長澤 登、高橋郁子、岡田陽子、小嶋一男、原山恵津子、島田成正、柄澤洋城、以上15名


■第3回サテライト・サロン八王子・日野報告
<富士山はなぜフジサンか>  ---- 11月22日(火) 講師:徳久 球雄 ----
 会場を日野市・豊田から同・高幡不動の七生公民館に変更して行われた。話は日本一の富士山について「富士山はなぜフジサンか」というテーマで、フジサンにかかわる多彩な項目について話された。富士山といえば、かつて世界自然遺産の候補として登録申請したが、ゴミ問題でキャンセルされた。平成24年度には鎌倉とともに世界文化遺産として申請を予定しているそうだ。自然遺産だけでなく文化遺産としても富士信仰を初めとして十分な資格があるという。富士山測候所の開設に伴うエピソードも話していただいた。
・日本の火山はA〜Cランクに分類され、富士山はBランクに当たる。
・母岩種類は玄武岩質で、中性溶岩がひとつの火口より流出した。コニーデ型火山である。
・小御岳、古富士、新富士の3体からなる。噴火活動の記録は781年(天応元年)から1989年(山頂で有感地震)まで18回。
・名称は、マレー語説、アイヌ語説、古語説、藤の枝の垂れ下がる型、2つとない不二説など。各地に○○富士の別称がある山が300を超える。
・特色は側火山(寄生火山)が多いこと。堰止湖として富士五湖。山体は天地境(五合五勺)以上は岩石。
・登山コースは富士宮ほか8コース。山開きは、富士宮は6〜8月、山梨は7〜8月。年間の登山者は300万人を超える。
・日本の代表的景観で、各地に富士見町、富士見台などの地名あり、文学や絵画に登場する。外国にも富士山型の山が多い。
・富士火山帯はフォッサマグナに位置し噴火による地震も有感のものが多い。
・富士山信仰と同様、山岳信仰は日本各地にある。恐山、出羽三山、日光山、立山、白山、木曽御岳、英彦山、霧島など。
・かつては女人禁制の問題もあり、また高度が高いため登れない人が多く、富士講の人々が中心となって、都内を中心に富士塚(ミニチュアの富士)が多くつくられた。東京には約100か所ある。
(文/城所邦夫)
出席者
徳久球雄、足立孝也、飯島文夫、大兼まゆみ、川合周、北野忠彦、城所邦夫、小柳清治、澤登均、竹中彰、橋重之、橋郁子、近内昇、中村小一郎、松本治、水谷弘治 16名


■第11回サテライト・サロン町田報告
「相原の里山」  11月13日(日)
今日の町田野外サロンは、しっぽの様に細く延びた相原地区の自然歩道、文化財、名木を楽しみ、輪になってランチを・・・という欲張りな計画。
9時過ぎ駅出発、清水寺を目指した。ここは「セイスイジ」と読む。途中、旧町田街道沿いの旧家の庭にある名木を、閉まった門からのぞかせてもらう。  清水寺の観音堂、鐘楼、水屋は町田市指定文化財。屋根には、三葉葵の紋がある。参加者の発言にリーダーは、「いい質問です!」  11代徳川家斉の大奥御世話係(姫)が引退して、相原の名主、青木家に世話になっていた当時、清水寺は無住だった。 青木家当主が、寺を修理再建して住まわせたとか。木彫も見事で江戸の技法そのままらしい。 当時の大奥の年金制度の様なもの・・・との説明に我々年金世代は理解が早い。
 小春日和の青空に山々がくっきりと近くに見えている。畑のそばに馬頭観音があり、その下に鎌倉古道。低い所は水が出て歩けなくなるので、尾根伝いに古道は続いている。
相原橋で一休み。ここからは山道になる。「弘法さまのお水」と呼ばれる小さな水たまりに寄り道。涸れることが無いらしいが、今は、馬の代わりに散歩中の犬が水を飲んでいる。
 駅近くへ戻り、ケヤキの大木を見上げる。「町田の名木」・・・写真は約50年前のもの・・・という本を見せながらリーダーの説明が続く。名木となるまで、その後の50年、運だなあーと思う。たまたま道路や住宅造成地からはずれ、光、水、その他諸々の条件に恵まれた結果、成長できて・・・今、ここで 私達が見上げているのだ。私達がいなくなっても子孫が見上げられるように、ずっとここに立っていてほしい。

 小さな踏切を渡り、駅の反対側へ。枝いっぱいに実を光らせたマメ柿が里山らしい雰囲気だ。古窯跡群に着く。土と水に恵まれ登り窯で土器を作っていた所。まだ釉薬がなかった時代のことだ。午後のコースで、大昔の人達が住みついた理想的な土地を見た。三方を里山の木々に守られ、南だけが広々と海までなだらかに開けている場所。 いい所だなあ!
 八王子側が開発で失われた七国峠、出羽三山供養塔を楽しむうち程よく空腹状態に。相原中央公園芝生広場まで下って行くと、親子連れが遊ぶのどかな休日風景が・・・号令が聞こえていた消防署の訓練も昼休みに入った様子。
春は花見でにぎわう さくらの丘 でのランチタイムは、貸し切り状態で、風もなく寒くも暑くもなくていい気分!リーダー持参の大きなシートに全員が座り自家製野菜、自家製燻製、ワインなど飲んで食べてお腹一杯。公園でゆっくりしたい組ともっと歩きたい組に分かれるかも・・・との予想は、外れて全員で午後のコースへ。
 大日如来は伝染病を治めてくれたとの言い伝えがあり、その前は休憩できる小さな広場になっている。どんどん山道を下って行き最後は藪こぎ練習と称する近道をして、3軒の酪農家がやっているジェラートの店 アイス工房ラッテ へ。それぞれ好みのアイスを手におやつの時間。 寒い日でなくて良かった!
 一周する形で公園に戻る。後半の予定は、長福寺と諏訪神社。長福寺の本堂天井絵と文殊堂、山門も町田市指定文化財だ。文殊堂の柱彫刻、上り龍・下り龍や山門の竹林の七賢人は素晴らしい。ここの墓地に清水寺で暮らした姫と侍女の墓塔があるが、古くて少し崩れていた。本堂の天井、花丸絵35枚は、予約すると見せてもらえるらしい。

 だんだん歩き方が遅くなり、諏訪神社に着いたのは、解散予定時間だった。ここにも、名木大ケヤキがありマメツタが絡んでいた。夏に行われる丸山獅子舞は無形民俗文化財に指定されている。
 太陽も少し弱くなってきて、なんだか眠くなってきた頃、相原駅へ帰ってきた。今日は、お昼にたっぷりと親睦会を楽しんだので、反省会はなし。朝9時から夕方4時までよく歩きよく学んだと納得して、相原の里山は終わった。 (報告:小宮真理)  
参加者:竹中彰・高橋善護・足立孝也・植木信久・植木淑美・笹本忠
丸山さかえ・本間正士・森静子・鎌田正彦・小宮真理(SL)・宇野良夫(L) 計12名 


■第10回サテライト・サロン立川報告
――日中合同タクラマカン砂漠学術探検―― 講師:大関保氏
ちょうど20年前、タクラマカン砂漠をかつて貫流していたケリヤ河流域の自然・人文環境の調査を目的として「日中合同学術探検調査隊」が組織された。その源流調査隊長としてアクスムズターグ氷河まで遡った記録を豊富な写真とともにお話しいただきました。
[西域南道の南は、いまなお未開放地域]
西域南道およびその南側は全地域未開放地域とされ、外国人は立ち入り禁止となっていた。その後、西域南道は立ち入りが許可されたが、南側はいまなお未開放地域である。合同調査隊は、法政大学と中国科学院、中国探検協会で組織した。ケリヤ河流域・アクスムズターグ氷河を調査べきであると訴え、中国側と数回に及ぶ折衝の結果、ようやく許された。
1992年8月10日、日本3名・中国2名、ウイグル語通訳1名が、ジープ3台に荷物を満載して西域南道沿いのケリア/ウーティエン=干田を出発した。灌漑水路によって潤うオアシス集落群を過ぎ砂漠を突っ切りプルに着く。高度2400m。この先には人家はまったく無い。12日、ロバ使い4人、ロバ20頭を雇った。深い峡谷をさかのぼった。氷河からの冷たい激流を渡渉、また危険な大高巻きを続ける。15日は渡渉を44回も繰り返した。4040mのスパーシュ(源流の意)にキャンプ。
[累々と続くロバの白骨]
周囲には、生えているものほとんどなく、茶褐色の乾燥地帯そのもの。16日、人もロバも高度の影響に悩まされながら5100mの鞍部を越えた。峠には、ロバの白骨が累々と続いていた。おそらく59年に中国軍がチベットに侵攻したときに徴用されたのだろう。兵器や物資の輸送に使われ、この地で息絶え放棄されたものであろう。17日、アシュククラ/苦い水の湖に着く。ph9.7と著しいアルカリ性。こんどはオオカミに食われた野生のヤクやチベットガゼルの屍が散乱していた。
天候が激しく変化する。午前中は晴れていても午後になると決まったように強風、雨、降雪となる。中国側と協議を開始した。ハードな野外調査に慣れておらず、体力を消耗し気力を失っていた。これ以上、高度を上げるのは無理と判断し撤退することにした。ケリヤダリヤの真の源流を探ることなく痛恨の思いで往路を引き返したが、日本側の女性隊員(学生)はアシュククラの地を踏んだ世界で始めての女性として高く評価された。(文/橋重之)

◇講師プロフィール1935年東京生まれ、現在あきる野市に在住。法政大学文学部地理学科卒、4年間の公務員生活の後、大成高等学校に勤務し2000年3月、38年間の教員生活を退職。「朝日カルチャーセンター立川」講師。少年時代より山に親しみ、オールラウンドの登山を現在まで続けている。日本山岳会、日本ネパール協会、HAT-J、法政大学山岳部山想会会員、都岳連所属、樅の木会会員。著書:「砂漠・水・人間」(法政大学)共著、「ネパールヒマラヤの山旅」(穂高書店)、「アジアの山旅」(同)。
参加者
笠原功、西谷隆亘、西谷可江、西村智磨子、竹中彰、富澤克禮、古市進、川村光子、平野武利、竹内康雄、小清水敏昌、大関保、大船武彦、高橋重之、山本憲一 15名


■第11回サテライト・サロン吉祥寺報告
 「紺碧の湖イシイク・クリ:ロシア中央アジア探検家の足跡」と題して武蔵野市在住の田村俊介氏による話を9月28日に行った。氏は大阪外国語大学(現大阪大)ロシア語学科を卒業後、ロシア原油の輸入に従事しモスクワで6年間勤務していた。その頃、ロシアの探検家による書物を読み非常に冒険心をかきたてられ、日本語に翻訳した。講演では二人の探検家が歩んだ道を氏が用意したカラー刷り10頁程のレジュメを基に詳細に語った。当時のロシアやユーラシア大陸の地図、探検の足跡を地図上で示し、分り易い資料であった。
二人の探検家のうち、植物学者で地理学者でもあるセミョーノフ=チャンシャンスキイは1860年前後に天山、シベリア、中央アジアなどを探検し当時の地域の地質や生態系の調査を幾度も行った。この業績に対して時の皇帝から称号まで贈られている。もう一人は、軍人のプルジェワリスキーでチベットや天山地域などを始め、1870年には第1回の中央アジアの探検を行い第5回まで精力的にロシアの南部地方を中心に動物、植物、鉱物などについて調査していたが、5回目の探検において生水を飲んだためこの湖の近くのカラコルで死んでしまったという。この二人は、共に探検した土地に関する書物を出版しており、これらの著書を田村氏は若い頃に翻訳している。二人に共通しているのが演題にもある紺碧の湖で、年代こそ違い夫々が調査のため訪れていた。この湖は中央アジアのキルギス国にあり、琵琶湖の9倍も広くその透明度はバイカル湖に次ぐという。そして講演のハイライトは、田村氏がたまたま本年6月に日本人の仲間と一緒にこの湖を訪問したところ、偶然にもセミョーノフの銅像が湖の近くに建っていることを知り、見に行き非常に感激した。もう一人のプルジェワリスキーについても記念碑と記念館が湖近くにあり、これも見学し、氏が若い頃に翻訳した主人公たちに触れたことは改めて感慨深いものがあると述べた。イシイク・クリという湖が二人の探検家を結びつけ、日本語に翻訳した当の本人が湖近くで彼らの銅像に偶然出会ったという劇的なシーンが印象に残る話であった。なお、氏が日本語に翻訳したものはメインベースボール・マガジン社から「遥かなる天山」、白水社から「中央アジアの探検」のほか、ロシアの探検物関係の多くの書物がある。また、田村氏は現在パミール中央アジア研究会副会長や武蔵野多摩ハバロフスク協会理事を務めている。 今回、非会員の諏訪順一氏が出席しており、田村氏と同様に中央アジア関係の翻訳書を出したとして、「パンディットーチベット・中央アジアにおける英国測量史の一側面」と題する本を会場で回覧し、一言述べてもらった。諏訪氏は日本山書の会で三鷹在住の山口峯生氏と同じメンバーの由。
今回は山の話ではなく、翻訳を通した中央アジアの“探検物語”という主旨で とても面白い内容であった。終了後、出席者の多くが二次会に行き更にロシアの話で盛り上がった。
なお、次回は11月30日(水)に調布在住の支部会員、中村純二東京大学名誉教授のお話(演題:南極関係)を予定しています。
(文責 小清水敏昌)
出席者
田村俊介 川合 周 三渡忠臣 山口峯生 河野悠二 西谷隆亘 長谷川公子 渡邉正子 島田成正 大倉昌身 大橋基光 時田昌幸 小野寺睦 宮川清彦 長澤 登 金子 浩 下田俊幸 諏訪栄一 副島一義 小清水敏昌(計20名)


■第10回サテライト・サロン町田報告
・車座会
・日時:平成23年9月28日(水) 18:15〜19:45
・場所:まちだ中央公民館 学習室3〜4
・講演者:JAC 科学委員会委員 平野裕也会員
「植物おもしろ話つまみ食い」を親切丁寧に写真を回覧しながら詳しく説明。
秋の七草 。。。
萩といってもヤマハギ、ミヤマハギ、マルバハギなど種類多数オバナとはススキのことで、乾燥地に生えるススキと湿地帯に生えるオギの二種類が生息しているとか全く知らないことを勉強させて戴きました。又、匂いの良いフジバカマは絶滅危惧種で最近は中々見られないそうですが、荒木会員宅の庭に生息しているとかで全員吃驚しました。素晴らしいことですね。アサガオの説明の中で蔓の巻き方は、上から見て左巻き右巻きと呼ぶんだそうで、一般的には左巻きが多いそうです。ちなみに朝顔は左巻きだそうです。上から見ての呼び方で言うと川の左岸、右岸も山の上から見て左右を区別していますので「上から見て」は、共通しているんだなと思いました。
ヒガンバナの不思議。。。
ヒガンバナは、どうやってお彼岸を知るの?は、まだはっきりとは解らない様で、諸説の中で6週間前からの平均気温を感知してお彼岸を知るらしいとの説が有力との話しは面白かったです。イチョウはどうやって子孫を残すの?紅葉はどうしてするの?とお話しいただきました。時間が足りず「森の不思議」の話が次回になってしまいましたが、楽しみに待っていますよ。
* 今後のサロンの詳細説明
第11回 野外サロン 11月13日(日)相原の里山 担当:宇野良夫/小宮真理会員
第12回 野外サロン 11月27日(日)鶴川の里山 第2弾  担当:高橋善護会員
第13回 野外サロン 2012年1月22日(日)相模野基線網を歩く 担当:北野忠彦会員
*その他
会場使用料有料化に伴い会費改訂など諸問題を話し合いました。
2011年4月〜8月の会計報告が、承認された。  司会担当:植木淑美会員
* 二次会:寿し常 19:50〜21:00
 車座会終了後、恒例の反省会をお馴染みのお寿しやさんで実施しましたが、参加者全員が参加され大いに盛り上がりました。町田サロンの車座定例会も年4回開催することが賛成多数で決まりました。忘年会も開催決定23名予約。
以上 報告:原 軍曹(原満紀会員) 
(出席者)
荒木正弘。石原康生。宇野良夫。植木信久。植木淑美。鎌田正彦。北野忠彦。小宮真理。笹本忠。高芝一民。高橋善護。原満紀。平野裕也。本間正士。丸山さかえ。森静子。16名


■第9回サテライト・サロン立川報告
------- 9月7日(水) 講師:古市進氏/原発事故を考える -------
<三角点が動いた  狭山湖で大地震に遭う>
古市会計監事が“分境嶺の先”を歩いている。このことは「分境嶺踏査番外編」として、「たま通信」に掲載中だが、立川サテライトサロンで話してもらおうと思った。分境嶺踏査は支部設立の記念事業として3年かがりで実施して青梅市の小沢峠まで踏査する計画になっている。その先に「嶺」ではないが、「境」は続く。古市監事は理論物理学を専攻された。立教大学では研究用原子炉ながらの廃炉を担当された。こちらのほうにも興味があったが、“分境嶺の先”とどうつながるのか―。
3月11日のあのとき、多摩湖と狭山湖の間にいたそうだ。東京都と埼玉県の境であり三角点がある。「久しぶりだなぁ」と思って触れようとしたとき、三角点が動いた。揺れ方で、大地震だと思った。西武鉄道が動かない。線路沿いに歩いた。結局は自宅まで歩いた。この大地震・巨大津波で福島第一原子力発電所が事故を起こし、放射能を拡散させてしまった。
<放射能とどう向き合っていくか>
人間の体は、60兆ともいわれる数の細胞があってその何分の一かが毎日、新しくつくり変えられている。放射能を浴びると障害が生じるものの、修復するメカニズムが働く。しかし完璧には修復できず、出来損なった個所がそのまま、生き残って成長し癌のタネとなる。それが20〜30年後に癌となって顕在化する可能性があるといわれている。
放射能物質は自然に存在し、ごくわずかながら放射能を出している。問題になるのは、人間の活動の結果として、余分に上積みして放射能を浴びることだ。そうなった場合、どう向き合っていくかということが基本だ。地球温暖化とか公害と通じるところがある。 イロハの初歩を教えてほしいとお願いしていたので、単位の話からはじまった。長さ(メートル,m)、質量(キログラム,kg)、時間(秒,s)、電流(アンペア,A)、温度(ケルビン,K)、物質量(モル,mol)、組立単位として、速度(m/s)、仕事率(u・kg/s3)、電気量(A・S)・・・。なじみのない単位もある。ベクレルやシーベルトなど放射能に関する単位もそうだった。

放射能量 ベクレル   Bq 1秒間に1つの原子核が崩壊して放射線を発する放射能の量
吸収線量 グレイ    Gy 放射能を浴びたものが、どうれくらい受け取ったかを表わす
線量当量 シーバルト Sv 放射線の種類の違いによる生体への影響をグレイに加味して
                  つくられた単位

かつて「キューリー、Ci」という単位が使われた。1グラムのラジウムが1秒間に出す放射能である。大きな単位でベクレルで表すと、1Ciは370億Bqにもなるそうだ。

人間は自然の状態で年間1mSv程度は放射能を浴びていることが分かっている。これを目安にして、上積みして浴びる限度は、たとえばレントゲン技師など放射線業務従事者の場合は50mSvを被曝限度としている。特別な事情、非常事態の際は100mSv。IAEA(国際原子力機関)が500mSvを限度にしており、今回の福島第一原発での作業者に限って250mSvに引き上げた。一般の人の許容限度は1mSvと設定している。
話は続いた。やさしく話してもらったので、多少は理解できるようになったと思った。そもそも原子力あるいは放射能について系統的に学んだことがない。あったのかもしれないが、忘れてしまっている。それが3月11日以来、まさしく巨大津波のように溢れかえっている。今回の学習を手がかりに知識を深めていきたいと思った。(文:橋重之)
出席者
近藤裕、岡義雄、古市進、竹中彰、澤登均、西谷隆亘、川村光子、富澤克禮、西谷可江、宇田俊二、大関保、川越尚子、河野悠二、平野武利、本多祐造、高橋郁子、下田俊幸、高橋重之、山本憲一  以上19名


■第10回サテライト・サロン吉祥寺報告
天候不安定の中、7月27日(水)午後6時半、「山と生きて70年」と題して調布在住の会員で元NHKディレクター川合周氏の話が始まった。レジュメの用意があり、これに沿っての話であった。氏は昭和6年(1931年)1月に現在の東京の品川で11人兄弟姉妹の末っ子として出生、今年で80歳。その記憶を基に、NHK時代に係わった出来事、山への思い出などを弁説なめらかに語った。山に関心を持つようになったのは昭和13年夏に父や兄たちと富士山へ行ったことがきっかけ。旧制中学4年生には尾瀬に行き燧岳が美しく見え、これが山だな!としみじみ感じたという。昭和30年早稲田大の哲学科を卒業したものの、しばらくは山にのめりこんだ。その頃、生物学の田辺和雄教授から高山植物を、またヤマケイの川崎隆章氏の指導で北海道、南北アルプスなどへ山好きの親戚やYMCAの人たちと出かけていた。就職はNHK、新聞社などに合格したが結局、NHKのアナウンサーを選択した。初任地は佐賀放送局でここでは夕方1時間のディスクジョッキーを4年ほど担当、その後九州の各放送局に勤務。山については九州の山々を歩き九州山岳連盟の創立を手伝った。教育テレビが開始されたなか福岡局へ異動しプロデューサーとなる。これが氏の人生に大きなエポックになったと振り返る。昭和38年に東京報道局運動部に転勤。東京オリンピックではマラソンのディレクターになり、コースに中継用のカメラを用意するためコースを実測して配置図を自作した由。また米国との初の宇宙中継をディレクターとして立ち会ったが、何と日本の画面に飛び込んできたのが「ケネディ暗殺」で現場は大混乱だったという。昭和47年の札幌オリンピックでも競技写真展示を担当し移動にスキーを大いに活用した。その他「こんにちは奥さん」「きょうの料理」「婦人学級」などの家庭番組にも携わった。シルクロード関係では作家の井上靖、新田次郎両氏とも知り合い文学も勉強。その頃、日本山岳協会が創立されていたが、氏の司会で日本山岳会と日本山岳連盟の両会長との対談をNHKで放送。氏は感慨深い番組だったと回想した。昭和48年には大阪放送局に異動、当時の伊丹空港の騒音対策を担当しながら近畿の山々へ岳友の高田光政氏と一緒に出かけた。昭和55年東京へ異動したのを契機に登山活動に力を注ぎスキーは年間30日を超えた。日本山岳会に昭和59年6月入会し直ちに図書委員に指名されて以後現在も担当している。昭和60年5月にはJACアルパインスキークラブを設立するため発起人の一人となった。昭和62年NHKを定年退職後、NHKプロモーション(現)を経て平成6年に退職しこれで放送界から全て身を引いた。多々の経験や人との繋がり、そしてそこに散りばめられた山との関わりの話はどれも面白く、時間があればもっと深く聞きたいと感じた。最後に、胃切除と脳血腫の大病の経験から、山と健康について言えることは「山を長いことやっていたので仕事上でも、大病後も、早く回復することができた。大抵の岳人は病気をするとダメになる。回復期に入ったら間をあけないでストレッチ程度のトレーニングを開始し回復の状況をみながらレベルを上げていく。それを止めてはダメ。要は、山を止めないことだ」と強調し話を終えた。
本来ならば3月下旬に行うことになっていたが、東日本大震災のため止むを得ず中止となり、本日に延期となった。また、会場がいつもの吉祥寺コミセンが節電のため使えず、三鷹駅近くの西久保コミセンに変更した。そのためか出席者がやや少なかったのは残念だった。(小清水敏昌)
出席者:川合 周、山崎智弘、河野悠二、宮川清彦、笠原 功、山口峯生、
大橋基光、山口善弘、田村俊介、下田俊幸、金子 浩、渡邉正子、高橋重之
高橋郁子、岡 義雄、三渡忠臣、副島一義、小清水敏昌(計18名)


■第5回サテライト・サロン花小金井報告
気象庁に長年席を置かれていた城所邦夫氏に「山の気象遭難を防ぐためには」と題して講演頂いた。
最近は気象情報をラジオ、テレビ、インターネット、携帯電話で簡単に情報を入手出来るが、天気予報は平地が対象で、山ではあくまでも参考程度に考えたほうが良いと言う事であった。
基礎的な気象知識を身につけて状況判断をすることが必要で、特に山では目的の山岳付近の気温の把握や風向、風速、チェックを行い、気象判断することも重要である。
雨や風による体感温度の低下が低体温症を招き、行動が不能となって死に至ることもあると気象遭難の一端を解説された。
その後、山の気象遭難を起こしやすい天気図型について詳しく説明をうける。
南岸低気圧型(台湾坊主)、二つ玉低気圧型から冬型、日本海低気圧型から冬型、一時的な冬型など7例で、私も昔学んだ事のある天気図のいくつかもあり、気象遭難の恐ろしさをあらためて知った思いがする。
最後にこれから夏に向け、多く発生する雷の予知と対応(雷の種類、雷3日、雷の予知、雷の対応)について話されたが、参加者の関心も高く、多くの質疑応答で盛り上がった。
終了後、花小金井で懇親会を行い気象の話や山談義で時を過ごした。
(記 柄澤 洋城)

[覚えておきたい雷の知識]
熱雷は天候時の午後発生しやすく、夏の典型的な雷。
雷3日:熱雷が発生すると3日位続くことが多い。
遠雷が聞こえたり雨がポツリと降ってきたら、雷雲の接近か雷雲の中に入ったことが考えられる。

出席者
副島一義、城所邦夫、高橋重之、高橋郁子、富澤克禮、川越尚子、樽木正保、永田弘太郎、時田昌幸、小清水敏昌、橋本 衛、河野悠二、大倉昌身、古市 進、島田成正、原山恵津子、柄澤洋城 計17名


■第9回 サテライト・野外サロン町田報告
◇6月20日(月)
◇ホタルの夕べ(県立四季の森公園)
 朝から上々のホタル日和(曇りで蒸し暑く風がない日)と喜んでいたのに、午後から無情にもポツリと雨が・・・。それでも参加者の日ごろの行いを信じ、中山駅に16時集合した第1団の8名はそれぞれに夕食を調達し、四季の森公園に向かう。5分歩いたところで公園のプロムナードへ。そこには雨に洗われた鮮やかな紫陽花と黄金色に輝くこぼれんばかりのビヨウヤナギが続く別世界があった。
16時20分公園に到着。大きな欅の向こうに葦原が広がり、雑木林に囲まれた懐かしい里山が我々を迎えてくれた。公園の事務所で「昨日はホタルが200頭出ましたよ。」と伺い期待が一気に高まった。気がつくと雨も上がり、薄日までが差し始めている。 しばらく歩くと薄暗い谷戸の田んぼがそこだけ明るく、あたりを払うかのように花菖蒲が今を盛りと大きな花弁を広げていた。雑木林ではピンクのシモツケやオカトラノオが白い尾をのぞかせ夏の準備を始めている。暗くならないうちにゲンジボタルの出る谷戸に分け入ると、ウラジロガシの大木が何本もあり、さながら深い山奥に迷い込んだような気分だ。途中湧水がわき、カワニナが生息しやすい昔のままの環境が保たれている。
山道を登り展望広場へと上がった。展望台からは富士山や三浦半島まで見えるようだが、今日は大山とランドマークタワーまでとあきらめていたら、「スカイツリーが見える。」とおまけが付いた。(*カワニナはホタルのえさになる巻貝)

1時間30分ほどで園内を1周し、喉がカラカラ。「少しうるおしましょう。」と、お手製のカナッペや揚げ物、しゅうまい等を広げところに第2団7名が到着。早速、夕暮れの公園で静かに行儀よく、茹でたてほかほかのジャガイモも加わり夕餉が始まった。久しぶりに出あった仲間が多く、最近行った山の話、花の話、次の山の計画等で大いに盛り上がった。夕闇が迫るころお孫さんを連れた最後の1人が合流し全員が集まった。
しばらくするとホタル見物の人が集まり始めて我々もそれに続いた。真っ暗な林の奥にふわりと光が浮かび「あっ」「わっ」とあちこちで声が上がる。谷戸の湧水の茂みから次々にホタルが浮かび上がりふわりふわりと近寄ってくる。幻想的な世界が広がり、時がタイムスリップしていく。「何年振りだろう。」「初めてよ。」歓声を上げていた人達もだんだん無口になり、気が付くと皆優しい顔になっている。そう、昔ホタルを追っていた少年、少女の顔に。「ほっーほっーほたるこい。」「あっちの水は辛いぞ。」「こっちの水は甘いぞ。」「ほっーほっーほたるこい。」
ホタルの舞う里山をこれからも守りながら、来年も又と約束した。(記・丸山さかえ)
◇参加者(17名)
支部会員: 荒木正弘、宇野良夫、片野スミ子、笹本忠、原満紀、植木信久、植木淑美、小宮真理、深田美好。企画担当 森静子、丸山さかえ 以上11名 
ゲスト:  深田伸代、高橋素子、田森治代、吉澤平治、小亀真知子、小亀天使(5歳) 以上 6名


■第8回 サテライト・サロン立川報告
6月7日 「机上登山の楽しみ」(講師:長尾武彦氏)
−「驚愕の描画テクニックに感嘆の声があがる」−
長尾さんは地形図を見る楽しみは無限であるという。眺め、想像し、描き、現場で確かめ、山口裕一氏主宰「地図の会」に入会して地形図の楽しみを学んだという。
お話は地形図から山の絵を描く具体的な方法を簡単な地形図を使って説明することから始まった。基本は、地形図の上で眺めている場所からの任意の点(例えば、山頂の三角点など)の見た目の方角と高さを数値で表わし、その数値を座標の上に描いていく。後は、任意の点を数多くとり、一枚の原図(地形図の上から見た眺め)を完成させていく。
これらの手順を地形図、計測器具などを使って、また計算方法などを交えて説明されたが、数学の苦手なものにとってはちょっと頭が痛くなる内容であった。会場からはフム、フムといった声が聞こえていたが、会場の雰囲気が変わったのは、実践例を示して説明が始まった時であった。まだ行ったことがない北海道の幌尻岳を地図だけを使って描いた絵を見せてくれた。彩色も施された綺麗な山の絵であった。
更に圧巻は「地図の会」の仲間である澤田光之助氏からこのサロンのために借用してきたという甲斐駒ケ岳山頂からの360°展望図絵と塔ノ岳からの展望図絵が披露された時で、参加者全員から感嘆の声が上がった。
平野武利会員の展望写真図、藤本一美氏の展望図と見間違うばかりの360°展開図となっており、水彩絵の具で彩色された絵には山名が忠実に書かれていた。写真から地図を見ながら山座同定をするのではなく、地図だけを頼りに展開図を書いているのだから山名は間違いがない。地図上では見えるが実際に見えるかどうかも計算して見える範囲の山を描いているそうだ。澤田氏はこの5メートルほどの大きな展開図を山登りせず、地図だけから2カ月ほどかけて作画されたという。それが今は9点ほどになっているそうだ。会員からは今度の年始晩餐会会場に是非とも展示したいとの声が上がっていた。
「登山は山に登るだけではない、山に関わる書物、自然と博物、研究と学問、芸術と趣味に…」と言われる長尾氏の実践を垣間見た一時であった。(山本憲一)

※ 澤田光之助氏の9枚のパノラマ展望図絵は現在CDに保存中。長尾氏の深田久弥の百名山のCDとともに興味のある方、また地形図から山の絵を描いてみたい方がおられましたら長尾氏までご連絡ください。
参考に長尾氏ブログ「山の楽しみは?深田百名山を描く楽しみ」をご覧ください。

出席者
河野悠二、澤登均、吉田薫、富澤克禮、高橋郁子、平井康司、本多祐造、小山義雄、西村智磨子、長尾武彦、宇田俊二、高橋重之、山本憲一  計13名


■第9回 サテライト・サロン吉祥寺報告
大震災で3月23日開催が中止となったため、久しぶりのサロンが5月25日に開催された。開演前に東日本大震災に遭われた方々への黙祷を行いご冥福をお祈りした。今回は「スイス・アルプスの山旅」と題して演者は前多摩支部事務局長の三渡忠臣氏。1975年の日本山岳会第一回海外登山研修会に参加しNepalクーンブ山群に行った思い出から語り始めた。このNepalに行ったことで素晴らしい仲間ができ登山技術などを改めって学ぶことができた。国内の山、穂高や富士山での訓練をしっかりマスターすれば、その力は海外の登山でも結構通用することを教えられた。30年ほど前のJACでは指導委員会が相当ハードな登山研修会を企画していた。氏が所属する杉並区役所山岳会のメンバーを多数参加させて腕を上げたとか。このメンバーでチーム編成をしてヨーロッパアルプスに繰り返し出掛けたという。その時のメンバーがこの日のサロンにわざわざ駆けつけてくれた。また、Nepalクーンブ山群に行った時のリーダーだった大倉昌身氏も出席、静かに耳を傾けていた。スイスでは一般通常のコースの山とどう取り組むか、マッターホルン、メンヒ、ユングフラウ、モンブラン、モンテローザ等を中心に話が進んだ。その中で、田部井淳子さんとツエルマットの町中で1990年7月偶然に遭遇したこと、その後メンヒ峰を下山途中で、稜線を上ってくる若い日本人のアイゼンの紐がはずれているのを発見、その場で着装し直しを手伝った、その人が当時ロンドンに滞在中の高校生野口健さんだったことが後でわかったなど興味深い話があった。 ガイドを雇って登ったマッターホルンとモンブラン、その際のスイスとフランスのガイドが卓抜のザイルさばきと並はずれた体力が印象的だったと往時の思い出を楽しそうに語ってくれた。今回の話はマッターホルンなど馴染みのある山が多かったので、出席者は自分の登山を思い出して聞いていたのではないかと思った。持参したスイス・アルプスやヒマラヤに関連する多くの書物・現地の地図を示しながら熱っぽく説明してくれた。氏が用意したレジメに「青空に聳える高い峰をみてあそこへ登ったら、どんなに気分がいいだろうなと思う。それが登山の心である」とあり、この気持ちが氏の山に対する行動の原点だろうと感じた。また、HAT-J活動についても話があった。
最後に、いまこの吉祥寺サロンのメンバーから、ヒマラヤ(トレッキング)に行こうかとの計画が上がり検討中であるとの話が出た。参加は別として近々この計画の具体的な内容の会合がもたれる予定である。サロンの最後に、出席者の自己紹介や昨年度の会計報告があった。終了時間がオーバーしたものの、いつもの店に14名が行きヨーロッパやヒマラヤの山談義で夜遅くまで盛り上がった。今回初めて出席した会員があり喜ばしいかぎりである。なお、次回は7月27日(水)に元NHKデイレクターの川合周氏の講演を予定している。(小清水敏昌)

出席者
三渡忠臣、大倉昌身、中村純二、中村あや、前田美千彦、小田知枝、笠原 功、河野悠二、岡 義雄、長谷川公子、西村智磨子、長澤 登、時田昌幸、下田俊幸、川口和男、山嵜智弘、木村康雄、大橋基光、金子 浩、前田晴彦、矢嶋 実、矢嶋京子、副島一義、小清水敏昌(計 24名)


■第8回 サテライト・サロン町田報告
・車座会 講師「成川隆顕理事」
・5月16日 町田中央公民館
成川講師からご自分の名前や生まれ、職歴などが披露されたあと、会場を見まわしながら「今日集まった皆さんの自己紹介を短く聞かせて下さい」ということで会が始まった。参加者が順番に挨拶するうちに「講師からの差し入れです」と赤や白のボトルの栓が抜かれテーブルを回されてくる。
参加者の自己紹介が一巡したあと、成川講師から「山の日制定協議会」の幹事を務めている立場から、10万枚単位で作られたというリーフレットも配られ、なぜ山の日の制定を求めているのか、現在の現状は、等の話が披露された。講師の軽妙な語り口や飲み物の効果もあってか会場の空気も和やかになったところで、次の資料が配布された。
成川氏が参加された「ローツェ・シャール1965」と「チョンムスターグ」の報告の抜粋であった。ローツェ・シャールは早稲田大学が単独の大学として8000m峰に挑んだ画期的な遠征であった。7000mを越えた地点で成川氏は遭難、決死の救助活動で生還したものの凍傷で両手・両足のほとんどの指を失っている。滑落から救助活動、登山活動の再開、帰国後の治療などを語ったが、山の仲間との友情・信頼・団結、重い話を淡々と話し、聞いている人たちを山の世界に引きずり込んでいった。
(文責 今村千秋)
・参加者
成川隆顕。今村千秋。大槻利行。宇野良夫。荒木正弘。石原康生。北野忠彦。森武昭。森静子。丸山さかえ。飯島文夫。小宮真理。本間正士。岡義雄。植木信久。植木淑美。 (16名)



■第7回 サテライト・サロン町田報告
◇2月20日(日) 陽だまりの鶴川ハイク
◇コース 黒川駅→三沢川源流→関谷の切通し→小野神社→小野路城址
      →小山田緑地→唐木田駅
 年始晩餐会記念山行で歩いた「多摩のよこやま」コースの南側には、町田市北部丘陵の森が広がっている。この残された多摩丘陵の森には雑木林、竹林、谷戸、水田、古街道、古城址、神社など、誠に興味深い自然や史跡が残されていて、里山好きにとって格好のフィールドを提供してくれている。今回は小田急多摩線の黒川駅から唐木田駅まで約6時間、鶴川奥の里山の核心部を歩いて丘陵の原風景を楽しんだ。
黒川駅から多摩川支流の三沢川に下り源流を目指す。水力発電所や毘沙門大堂など寄り道しながら、川崎市の「黒川特別緑地保全地区」脇の谷戸を登りつめると町田市境で、突然黄金色の観音様が迎えてくれる。
三社大権現から桜並木を下り、「鎌倉街道」を横切って昔近藤勇や土方歳三が歩いたという「布田道」に入る。谷戸沿いに「関谷の切通し」へ出て、竹林、梅林を通って小野路宿へ下り「小野神社」で一休み。神社は天禄年間(972年)に武蔵の国司に下った小野氏が先祖小野篁を祀ったもので、千年以上の昔からこの辺りは開発されていたのだ。
ここから『図師・小野路歴史環境保全地区』歩きである。これが谷戸だ!!と感じる開けた万松寺谷戸の水田の中を歩いて小野路城址へ登る。平安末期に築かれた小野路城は、都内で最も古い城址の一つと云われ、城郭研究グループが調査をしていた。本丸の下には小野の小町伝説の「小町井戸」の湧水がある。雑木林を歩いて、奈良ばい谷戸と東谷戸の間の尾根を下る。この辺の谷戸群の田植え・刈入れ時期は美しい。
「都立小山田緑地」に入ってみはらし広場にて昼食にする。今日はあいにく曇り空で、遠く丹沢山群や富士山を望むことが出来なかったが、寒い日に皆で固まって鍋をつっつくのは最高の食事であった。ただし表題の陽だまり山行が出来ないのが残念。
昼食後は小山田緑地の谷戸コースを歩く。ゴルフ場と谷戸とが交差しており、全体が明るく広々としている。大泉寺の裏山は小山田城址で、紅梅林から「多摩のよこやま」コースと合流し、唐木田駅にて解散した。(記・高橋善護)
◇参加者
竹中彰、森武昭、森静子、荒木正弘、丸山さかえ、足立孝也、笹本忠、鈴木謙治、北野忠彦、松本好正、植木淑美、長谷川昌雄、橋善護(L) 計13名


■第7回 サテライト・サロン立川報告
 今回は「奥多摩あれこれ」と題して奥多摩山岳会・西川敏明氏のお話をお聞きした。
山野井泰史氏が熊に襲われた事故の話から始まった。奥多摩には20〜40頭の熊がいる。奥多摩町、檜原村、八王子市、日の出町、青梅市と広い範囲で動いており、どうしたら熊に出会わないかを知る必要がある。まず、熊の習性を知ることが大事。熊の動く時間帯には、熊の生息地帯でランニングやジョギングをしない。熊に出会ったら、静かに立って背を高く見せる事くらいしか対処方法はないという。ご本人は奥多摩で三度ほど目撃しているという。
 高校生の時に黒部ダム下流ゴゼンザワ小屋でアルバイトをしていた時、集中豪雨で増水した内蔵助谷徒渉点で客の一人が流さるという悲惨な事故に遭遇した。その事故原因を、三人パーティーのリーダーとフォロワーとの関係から詳しく説明され、リーダーは絶対のものだと強調された。
 次に奥多摩山岳会の新入会員教育方針は「失敗から学ぶべきである。成功の仕方を教えてはいけない。」であると話された。また、ハインリッヒの法則「一つの重大事故の陰には、29のかすり傷程度の事故がある。その陰にはヒヤリとした300のミスがある。300のヒヤリとしたことから一つの重大事故が起こる。」を実践するヒヤリ・ハット報告会を行ってミスの原因を話し合っているという。
 奥多摩の地名の話として、長沢背陵は「はいりょう」、「せきりょう」と呼ぶかどちらも間違いでもあり、間違いでもない。そもそも背陵という言葉がないのである。三頭山(みとうさん)は、御堂山が正しいとの説明があった。 お話は1時間半にも及び、「奥多摩あれこれ」だけではなく、数々の経験、体験された事を詳細にお話され、とても有意義な時間を持つことができた。
講演会後の懇親会には19名の方が出席し山談義に花を咲かせた。(報告:山本憲一)
参加者(敬称略)
平野武利、平井康司、本多祐造、西谷隆亘、西谷可江、長尾武彦、澤登均、小清水敏昌、富澤克禮、金邦夫、笠原功、高橋郁子、岡義雄、松川信子、持田豊、竹内康雄、河野悠二、石井秀典、川越尚子、大関保、高橋重之、田中恵美子、西村智磨子、渡辺顕次、大船武彦、神崎忠男、山本憲一、藤本一美   計24名


■第7回 サテライト・サロン吉祥寺報告
今回は剱岳 早月小屋の管理人である田制忍氏による話。「早月小屋の四季」と題して、いつもの本町コミセンで1月23日(水)午後6時30分から始まった。
四季を通しての小屋周辺の植物や動物、あるいは最近の登山者のモラルや遭難例、山に対する考え方などを淡々と話した。小屋に入っている期間は6〜11月、半年以上も生活している体験に基づいている話でリアルに感じられた。冒頭、山が好きになった理由は小学校時代に社会科の先生に富士山につれていかれて素晴らしい景色を見てから、と。オープンは毎年4月20日で周辺の積雪が8mくらいの頃。春になるとスミレが咲きウサギなどが目立つ。桜が咲くのは6月20日頃。シラネアオイは大体毎年7月10日頃に咲く。この頃が最も登山者が多い時期で、年間に早月小屋に泊まる人は1500人程度。クマは7月に出る。300頭位居るのではないか? 筍を主食とし、8月下旬には下に降り馬場島辺りをうろうろしている。人間が気がつかないだけで山道にはかなり現れている由。 紅葉は9月20日から1か月位までがベスト。その頃には雪が来る。初雪は大体毎年9月20〜25日である。
一方で、最近は山を知らない人たちが多く入ってきている。剣岳を日帰りする、雪があるのにピッケル、アイゼンを持たず剣岳に来る、「はやつき」小屋なのに「そうげつ小屋ですか?」と電話してくる人も、などなど。今年で71歳になり体力的にも限界かな?と笑いながら話を終えた。今回は25名と過去最大の出席者を数え、氏の同期生の会員の出席もあった。また、有難いことに遠方(埼玉県日高市、江東区、昭島市、町田市)からの出席があり関心の高さを物語っている。講演終了後、有志19名で二次会へ行き更に山の話で交流を深めた。(文責:小清水敏昌)
出席者
田制 忍、村井龍一、神崎忠男、梅本知榮子、河西暎一郎、松本好正、山口善弘、原山恵津子、山嵜智弘、西村智磨子、河野悠二、岡 義雄、長谷川公子、今田明子、川口和男、山口峰生、長澤 登、宮川清彦、田村俊介、川合 周、徳永泰朗、金子 浩、高比良 昭、渡邉正子、副島一義、小清水敏昌  計26名


■第6回 サテライト・サロン町田報告
・1月25日(火)スピーカー 北野忠彦会員(山岳地理クラブ代表)
北野さんから大分水界と1等本点網による美しい1等本点が次々紹介された。その美しさに魅了されたとおっしゃる北野さんの眼差しも美しい。講演のお手伝いにと高く掲げた地図の裏に現れた正三角形は、ダイヤのようだった。未知の世界に引き込まれたひと時であった。次回実地でお話して戴く約束を取り付け次への期待ふくらみ、又サロンの計画が増えそうな 嬉しい気配で終了した。
参加者
上田昌子、宇野良夫、西村智磨子、本間正士、小宮真理、笹本 忠、高橋善数、北野忠彦、原 満紀、荒木正弘、鈴木謙治、足立孝也、太田浩司(非会員)、吉澤平治、片野スミ子、丸山さかえ、森静子、植木信久、植木淑美、竹中 彰  計20名

インフォメーション
第12回サテライト・サロン町田報告
第12回サテライト・サロン吉祥寺報告
第11回サテライト・サロン立川報告
第6回サテライト・サロン花小金井報告
第3回サテライト・サロン八王子・日野報告
第11回サテライト・サロン町田報告
第10回サテライト・サロン立川報告
第11回サテライト・サロン吉祥寺報告
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第9回サテライト・サロン立川報告
第10回サテライト・サロン吉祥寺報告
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第8回サテライト・サロン立川報告
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アカヤシオ
多摩の花 アカヤシオ

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