サテライト・サロン活動

■第27回サテライト・サロン吉祥寺報告
朝からの冷たい雨に加え夕方から強い風が吹き、皆さんの足元が心配であったが、予定通り11月26日(水)午後6時30分から開始された。
その昔、中央アジアのウズベキスタン地域に優雅な王国があった。その三つの汗国(プハラ汗国、ヒワ汗国、コーカンド汗国)の遺跡を訪ねた9日間の旅に参加した三鷹在住の金子浩(7239)氏の報告。現地では日本語ができるガイドが付き助かったという。多数のスライドでタシケント他 多くの町を映した。いずれの町並もイスラム風の独特な形の建造物で、多くがタイル張り、青を基調とした配色と幾何学的な模様にあふれていた。デザインに関心のある人には非常に参考になるに違いないと思うほど多彩な文様であった。建物の内部がドーム状で天井には彫刻の技が大いに発揮された見事なものがあり、7世紀頃にこのような仏教寺院等を造りそのなかに彫刻美を作れるような技術の高さに驚かされた。
お土産屋があるのは古今東西お馴染みだそうで、ここでも地元の著名な寺院や史跡の入口あたりに店を出しており、まるで日本の祭りの出店みたいな感じであったと。ビックリしたことは日本語ができる美人の売り子がいたことだそうで、スライドを見ると日本人のような風貌で美人が多かった。演者の話では、この付近には日本人が日本語を教える学校のようなものがあるという。
また、街の道路が整備されており人通りが少ない。日本では良く見られる広告の看板や「立入り禁止」の標識等が全く見当たらない。街並みもシンプルで閑静な雰囲気である。遺跡を巡る旅だったので、列車や車を利用して移動した。宿泊したホテルの前でなかなかの美人の踊り子が民族舞踊のショーを見せていた。一方で、食時内容のスライドを見ると、パン、野菜、果物が豊富に出され、バザールでも肉、果物、野菜が多く売られていた。酒類はビールがとても旨かった由。今回の遺跡めぐりに多摩支部からも3名の参加があった。
 今回はパミール中央アジア研究会が企画したもので、出発前から現地に関する書物(例として 金子民雄著:西域 探検の世紀/岩波新書)や歴史などを参加者仲間で勉強した。作家の井上靖も二度ほどこの地を訪れておりその紀行文を書いていることを改めて知ったという。演者の金子浩氏は3回目の講演。
悪天候のなか参加された方々に感謝いたします。
次回1月のサロンでは、この続きを金子氏と同行した田村俊介氏により旧三汗国が滅んだ歴史を中心に解説していただく予定である。(記録 小清水敏昌)
出席者
金子浩 山口峯生 三渡忠臣 大橋基光 田村俊介 時田昌幸 徳永泰明 宮川清彦 長谷川公子 原山恵津子 副島一義 小清水敏昌(計12名)


■第44回サテライト・サロン町田報告
富士箱根トレイル『金時山から駿河小山へ』
開催日  平成26年10月25日(土)
町田市の北側は市街化調整区域なので田園緑地帯として残されている。鶴見川の源流を辿って尾根に飛び出すと、そこには大道路が走り多摩市・八王子市の大住宅団地が広がって驚かされる。そんな特異性があるため町田サロンでは開設初期から地元の緑地帯・里山をよく知ろうと「野外集会」を開いて、東西に連なる多摩丘陵山脈の「よこやまの道(の下の谷)〜尾根緑道(戦車道)〜相原自然緑道〜草戸山〜高尾山」と歩いて地図に引く朱線も一本につながっていった。
もう一つの町田の特異性といえば、町田を通る小田急電鉄は南に向かって走っており、多くの乗換が必要な奥多摩の山に出かけるより、小田急一本で行ける丹沢や箱根の山の方が身近な山として親しみを感じさせられている。
そんな訳で町田サロンの「野外集会」も地元の里山歩きが終わると、丹沢近郊の里山や「関東ふれあいの道」三浦半島から大磯・厚木周辺の神奈川コースへと転戦し、さらには箱根、富士方面へと足が延びていったのは「町田の山や」として必然だったのだろう。日本山岳会会員として本格的な登山は親しい仲間たちと個人山行で行い、里山歩きからハイキング程度はサロンの親睦を図る「野外集会」として扱うようになった。
表題の富士箱根トレイルは、神奈川県と静岡県、山梨県の県境に位置し、箱根の金時山から西丹沢と呼ばれる不老山・湯船山、山中湖の三国山を経て富士山五合目までを縦走する全長43kmのロングトレイルである。県境上の明神峠から西へ三国山(1328m)から須走への道は、昨年7月20日に第31回サロン野外集会として歩き、明神峠から東の不老山(928m)から駿河小山駅への道は、今年6月14日に第42回サロン野外集会として歩いた。そして今回、箱根金時山(1212m)から足柄峠を経て駿河小山駅への道を歩いて富士箱根トレイルコースを終えようとした。 (なお関東ふれあいの道と富士箱根トレイルのうち舗装道路コースは各自が歩くことにした)
さて今回は箱根仙石原から山歩きは始まった。矢倉沢峠から金時山頂上に至るも頂上は超満員で皆がひとかたまりになって食事もできない。晴天のため新雪に覆われた富士山は白銀色に輝き、春の雪と新雪との同じ雪の色の違いがはっきりと判った。
土曜日で晴天日の金時山の大混雑ぶりは想像を絶する。早々に腰を上げて金時山から北の足柄峠を目指してアルミ梯子を急降下。猪鼻砦跡から林道を足柄峠に向かい足柄城址で第二回目の昼食大休止をとった。ここまでは富士山を脇に見る皆さんおなじみの尾根筋道だが、ここから北の駿河小山駅までの6.9kmの道は未知の道である。 足柄万葉公園から矢倉岳への山道の上の尾根の道を776m峰へ登り、そこから西に折れ谷に急降下する。2万5千分の1地図「山北」には足柄峠を越える自動車道が東の地蔵堂へ下る曲り道辺りより西の谷へ点線の山道が下っているが、現場へ来てみると山道は北の776m峰まで登り西の谷へ折れて下っていた。
谷の600m地点で林道終点に合い、後は駿河小山駅まで長い長〜い林道を下って行った。途中「遊女の滝」があるもかなり下の沢まで降りなければならないので割愛し林道を歩き続け、東名高速道路をくぐり抜け小山の部落に出た。以前歩いた富士箱根トレイルのほとんどは見晴らしの良い尾根歩きだったが、今日のこの部分は深い谷の林道歩きであり、展望もなくあまり人にお勧めできないコースだった。残念!!
駿河小山駅から一時間に一本のJR御殿場線に乗って帰町した。
付記:秋の草花、リンドウやマツムシソウが楚々として咲いていた。万葉公園から先、他に登山者は見当たらなかった。途中、富士箱根トレイルの標識数か所確認。
(記・橋善護)
参加者
本間正士、宇野良夫、鎌田正彦、石原康生、小宮真理、植木淑美、植木信久、片野スミ子、橋善護  計9名


■第26回サテライト・サロン吉祥寺報告
夏休みを挟んだ久しぶりのサロンが、9月24日午後6時半から本町コミセンで開催された。演題は「アメリカ西海岸8,000km自動車の旅―山と海岸と美食を求めて」。米国西海岸周辺の4つの州を二組のご夫妻(三渡・宮川)がレンタカー(ダッジ キャラバン)を利用して巡った宮川清彦氏(6886)による旅の話である。
演者は昔、テネシー州に駐在していた折、シカゴやマイアミ、ニューオリンズ等米国の都市を車で回った経験がある。今回は米国の雄大な景色を観て、ネイティブを肌で感じ、訪問先々で美食を求めてと盛り沢山の想いを込めて5月23日に成田空港を出発。フェニックス空港でアリゾナ州立大学に留学しているお嬢さんの出迎えを受けた後、さっそく有名な美食を堪能。
アリゾナ州南部の都市、ツーソン市周辺から始まり、ハシラサボテンで有名なSaguaro国立公園を見学。この近くのツームストンは有名な映画“OK牧場の決闘”で知られており、ワイアット・アープを思い出したという。
アリゾナ州の北部を観光し、セドナではパワースポットとしてスピリチュアルな体験で人気が出ているBell Rock等を楽しみに訪れたが、北方の山火事の煙が濃霧のようになって視界がきかずガッカリ。ユタ州に入り有名な自然の岩のMexican Hatやモニュメントバレーを見て、まるで西部劇の一コマのようだったと。アリゾナ州第一の観光地グランド・キャニオンを訪れ、遠くにアリゾナ州最高峰Mt.Humphrey’sが正面に見えとても感動した。その晩はグランドキャニオンのYavapai Lodgeに泊り、翌朝早くに大峡谷の光のページェントを眺め感動した。途中、ルート66の街ウイリアムスを訪れ古き良き米国を垣間見た。
ここで一週間経過。飛行機でシアトルに飛び、有名なタコマ富士と呼ばれるワシントン州の最高峰レーニア山(4,394m 初登1870年)を眺め、オリンピック国立公園、オレゴン州最高峰フッド山(3,426m 初登1857年)の山麓周回ツアーで自然美(氷雪と針葉樹)を満喫した。タコマから南下しワシントン州とオレゴン州の美しい海辺の景色を観ながら走行。ここは魚介類、フルーツなどの食材は豊富で美味しさ満点。ポートランドに行き著名なバラ園や日本庭園を堪能。ニューポートを経由し世界で最も澄んでいる湖のクレーターレイク(深さ529m全米1位)、火山のあるラッセン国立公園へ。カルフォルニア北部から中部の大平原を横断するドライブでは、西部劇に出てくるような大牧場、大規模稲作やブドウ畑などを通りアメリカらしさを肌で感じたという。サクラメントに入り、西部劇風のSaloon風の店で地ビールとワイン、ステーキとサーモンに満足。翌日はヨセミテ公園を楽しむ。ハーフドームやグレーシャーポイントを回る。そしてサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを見て中華料理に舌鼓。市内見物をしてモントレー半島を車で巡る。スペイン風の街並みのサンタバーバラを通りロスアンジェルスに到着。旅の最後の晩餐は、やはりステーキハウスでリブ アイと赤ワインだった由。無事故、無違反、無病で充実した24日間の米国の旅を終えて6 月 15日無事帰国。講演では、スライドおよびルートに沿っての先々の天候、出来事・山の紹介など克明に記録した資料(A4・4頁)を基に、米国西海岸8,000kmを自動車で巡った 臨場感あふれる盛り沢山の話だった。宮川氏は3回目の講演。渡辺龍男氏(会員)はわざわざ甲府からの参加であった。
(文:小清水敏昌)
参加者
宮川清彦 宮川洋子 三渡忠臣 三渡ユリ子 原山恵津子 岡義雄 山口峯生 前田美千彦 長澤登 徳永泰明 大橋基光 渡辺龍男 副島一義 小清水敏昌
計14名


■第21回サテライト・サロン立川報告
・8月21日(金) 立川市女性総合センター第1会議室
・テーマ:海登研とのコラボによる「海外登山とトレッキングを考える」
ヒマラヤ登山に憧れながら、登れない環境、登れない年齢…。せめてサロン懇談会で、世界の山々をイメージして「山の話」を楽しもう―と、海外登山研究会(神崎忠男代表)とのコラボで開催した。後半は,大久保春美・埼玉支部長に,支部創立五周年記念・JAC110周年記念事業として行ったトレッキングについて話していただいた。

八月八日は[近代登山始まり]の日だ
八月八日は、ヤマが重なるようにみえて、岐阜県や山梨県が「山の日」としてきた。奇しくも、この日はジャック・バルマがヨーロッパアルプスの最高峰/モンブランに初めて登った日でもある。1786年の8月8日だった。近代登山の始まりとされている。以降、多くの人たちがスポーツとして山に登るようになった。1857年、英国に山岳会が設立された――。
神崎会員は、こう切り出して、スライドで多くの画像を見せながら、近代登山の歩み,また日本山岳会の過去の海外登山隊を振り返った。1905年、日本にも山岳会が設立された。冒険と探検の時代だった。南極・北極への到達競争の時代を経て、冒険家の目は第三の極地/ヒマラヤに向けられるようになった。53年にイギリス隊がエベレイトに初登頂。56年に日本山岳会隊がマナスルに初登頂した。
 映像は、エベレスト街道のトレッキングに変わった。ルクラからナムチェまで、いくつもの吊り橋があった。荷物を運ぶヤクとすれ違った。ラマ教の仏塔が立ち並び、チョルテンが翻っていた。

ヒマラヤ・チュルー最東峰登頂とトレッキング(大久保春美・埼玉支部長)
埼玉支部の「ヒマラヤ・チュルー最東峰登頂とトレッキング」は埼玉支部五周年記念事業として、ことし4月に実施した。登山隊は、あとわずかのところで山頂を踏むことはできず、トレッキング隊は、ナムチェまで詰めながらエベレストの雄姿を望むことが叶わないなど、残念だった点もあったが、神様のちょっとした意地悪だったのだろう。参加者全員が夢にチャレンジし、頑張って、それぞれに夢を掴んだのではないかと思う。

ビスターリ,ビスターリが合言葉
トレッキング隊は、前半はポカラを起点にアンナプルナ内院12日間、後半はエベレスト街道ナムチェまでの往復5日間という、二つのトレッキングを堪能した。 標高4130mのアンナプルナ・ベースキャンプ(ABC)へは、ポカラからバスで1.5時間ほどのナヤプル(1070m)から歩き始めた。モディ渓谷に沿った道は整備されており、派生する尾根を上り下りしながら徐々に高度をあげていくことになる。韓国人や中国人のトレッカーが多いことに驚きながら、シャウレバザール、ジヌーダンダ、バンブー、デウラリ、マチャプチャレBCのロッジに泊まり6日目にABCに到着した。早い人なら4日あるいは5日のルートである。アンナプルナサウス、ヒウンチュリ、そしてマチャプチャレの雄姿を、角度を変えて楽しむことができ、また段々畑のなかに点在する民家の生活を覗きながらの毎日は、飽きることがない山旅であった。

後半は、いよいよエベレスト街道である。天候により欠航が多いカトマンズ・ルクラ便だが、往復ともに予定どおりに乗ることができ、余裕のある日程でナムチェまで歩くことができた。ナムチェ手前の標高差600mの急坂も、すでにアンナプルナで高所への適応ができているため、辛さを感じることなく到着することができた。ナムチェに2泊し、エベレストビューホテルからクムジュンまで足を延ばしてエベレストとの対面を願ったが、残念ながら雄姿を眺めることは叶わなかった。心残りではあったが「また来る」口実ができたようで、またの再会を願ってナムチェを後にした。
さて,トレッキング隊5人の平均年齢は70歳、最高齢は79歳の藤野さん。高齢者集団での高所登山であることを踏まえて日程には余裕をもちながら、「ビスタリ・ビスタリ(ゆっくり)」を合言葉に、風景やその土地の文化を楽しみながらのトレッキングを楽しむことができた。著しい高度障害がでた者もなかったが、自分たちの年齢や体力を過信することなく、外部の環境に適応するような行動をとることを心掛け、全行程をとおして@ゆっくり歩行、A積極的な水分摂取(一日の水分摂取量は、標高(m)と同数の量(ml)が目安)、B食べ過ぎない、C昼寝はしない、高所順応のため)D体温保持、を心掛けたが、ツアーリーダーの小林さんに食事や行動などに細心の注意をはらっていただいたおかげとも言える。高所ロッジでの「湯たんぽ」も、安眠の保持に効果的であった。メンバー/藤野欣也,大久保春美,松本敏夫,石塚昌孝,高橋八千代
※この項は,埼玉支部報12号から抜粋させていただきました。
参加者
大久保晴美,岡義雄,小川武,小野長生,宇田俊二,内田尚一,小口治,川越尚子,神崎忠男,戸田正彦,志賀昴,副島一義,西村智磨子,西谷カエ,西谷隆旦,河野悠二,橋重之,橋郁子,富澤克禮,中野英次,廣田博,山本憲一
計22名


■第43回サテライト・サロン町田報告
・山岳保険徹底研究
・開催日 9月10日
・演者  藤田礼子(東京海上日動パートナーズ)
 「日本山岳会団体登山保険(以下、「保険」と記す)」で日頃お世話になっている藤田礼子さんを講師にお迎えして、「保険」の概要のお話を伺い、さらに活発な質疑応答を重ねて当該保険の理解を深めた。以下、内容を箇条書きに記す。(1)まず、この「保険」は一般の傷害保険をベースにして、日本山岳会との特約の遭難捜索費用補償や救援者費用等をセットにした保険であることを確認した。なお、一般的に山岳保険や登山保険と銘打った保険商品はないとのことである。(2)したがって特約以外の傷害(ケガ)に基づく死亡入院・通院に対する保険については一般の傷害保険と何ら変わらない。国内外どこでも、いつでも、仕事中であっても、山中であっても、日常生活で生じた傷害を病院で治療を受けた費用は補償される。なお、病院に行かず、自分で直した場合には対象外となる。(3)傷害の定義は、「急激かつ偶然な外来のケガ」である。靴ずれや日焼けなどは上の定義から外れ、また山小屋で体調を崩し、ヘリコプターで下山したといった病気に起因したケースは保険の対象外となる。(4)この「保険」では、冬山や岩登りなど登山用具を使用した登山を対象とする「山岳登攀コース」と、里山歩きや夏期のアルプス縦走レベルの「軽登山コース」とがある。夏に白馬大雪渓をアイゼンで歩行する程度ならば後者のコースに含まれる。(5)この2つのコースは、さらに、死亡・後遺傷害保険、入院・通院保険などの保険内容によってAからSまで14タイプに細分されている。2コース14タイプのどれを選択するかは、その人の登山スタイルや傷害保険に対する考え方に依存する。現在約1、700名が加入しているが、選択したタイプはバラバラである。例えば、最も保険料の安いものは軽登山コースのQタイプ(年間2000円台)では、保険項目が死亡・後遺補償保険金(上限100万円)と救援者費用等保険(上限500万円)の2つであるが、これを選択した人は厳しい登山はしない、ケガの治療は1〜2割負担の国民健康保険で一応大丈夫と判断したものであろう。(6)最小の掛け金で最大の効果を求めるとしたら、このQタイプに山行の度に「国内旅行保険」の割り増しを上乗せすることであるかも知れない。しかし、最近は傷害保険に加入する条件が厳しくなり、特に高齢者の加入は難しくなっていることと、団体割引(15%)と損害率による割引などを考慮すると、傷害に対する備えとしてこの「保険」のI、J、R、Sタイプに加入しておくメリットは充分にある。(7)登山計画書を出していないと保険金に影響するのではないかという質問がよくあるが、傷害保険上そのようなことはないとのこと。
最後に、本報告執筆者がよく分からなかった点は、山岳登はんコースにおける「遭難捜索費用補償(国内のみ補償)」と「救援者費用等補償(国内外補償)」とがどのように棲み分けして運用されているかであった。次の機会があれば、その辺の具体例を伺いたい。いずれにしても、なんとなく加入しているこの「保険」の特徴や内容が鮮明となり、有益な講演会であった。
(記録/笹本忠)
参加者
市川義輝・石原康生・宇野良夫・植木信久・植木淑美・片野スミ子・鎌田正彦・桐山裕子・小宮真理・笹本忠・高橋善護・高砂寿一・高芝一民・仲川侑子・原満紀・平井康司・本間正士・丸山さかえ・桜田直克(支部外)   以上19名


■第9回サテライト・サロン八王子日野報告
・開催日:2014年9月10日
・会 場: 八王子市労政会館
・講 師:河西瑛一郎 氏(会員番号4502)
・演 題:「高尾の森づくりの会の活動について」
「高尾の森づくりの会」は2001年1月に、日本山岳会の自然保護委員が中心になって設立したボランティア団体である。会の発足から現在に至るまで、中心となって活動されてきた河西瑛一郎さんに、会の歴史と活動状況について語っていただいた。 冒頭、演題とは直接関係ないが、7月に河西さんが訪れたキルギスタン天山山脈の紹介がなされた。昔のスイスのような景色で、お薦めの地域とのこと。 自己紹介に続き、高尾の森づくりの会の説明が、演者が準備した資料を基になされた。 以下は、その要旨である。

日本山岳会の自然保護委員会の取り組みは、長い間山岳地域の観光開発による自然破壊 に対する開発反対運動が主なものであった。 しかしバブル経済が終焉し山岳地域の観光開発が少なくなると、反対運動の対象が無くなり、「日本山岳会の自然保護委員会はこれから何をしたら良いのか」という問題に直面せざるを得なくなった。当時の自然保護委員達はこの問題について、かなり時間をかけて議論をして、「これからは単なる反対運動ではなく、何かを自分たちの手で作ってゆく自然保護運動を展開すべきだ」との結論を出した。この方向に見えてきたのが、手入れの行き届いていない山の森の問題への対応であった。即ち、植林をしたまま放置され、荒廃している人工林に対して、自分たちの力で何か対応が出来るものがあるのではないかという考えであった。そして、この問題に関与することによって、日本の山をより広くより深く知ることが出来るのではないかとも考えた。
この考えの実行に際し、先ず、長期的な活動を多人数で継続させるためには、東京近郊の公有林で、アクセスの良い場所が望ましいということになった。候補地としては、高尾山の南側と北側にある国有林が挙ったが、真夏の暑さの問題等を考慮して林内に川が流れる北側を選択した。これが小下沢国有林である。 この選択に基づき、2000年に林野庁に申請を行い、178ヘクタールという広大な面積での活動が認められる協定書を作った。なお、通常、この類の森林ボランティア活動に認可される面積は通常5から10ヘクタールだそうだ。
そして、翌年の2001年4月には、第1回の植樹祭を行うことができた。
2006年には、小下沢に作業小屋を建築する許可を得て、その後の活動の活性化に大きく貢献することになった作業小屋を建てることが出来た。建築に際しては、土台と屋根を除き、仲間の力で作り上げた。次に建設せざるを得なくなったのがトイレであった。 トイレについては当初使用者が所定の簡易トイレを用いて、各自がそれを持ち帰るというルールで実行したが、後に、使用者の利便性の点からくみ取り式のトイレを設けることにした。このトイレについては一般への開放を常時行うようにとの意向が、自然保護委員会から出されたが、現実の管理上の問題を考慮してお断りをした。お断りの理由は、高尾の森づくりの会会員が小屋にいる場合は、一般のハイカーにもトイレの使用を認めることができるが、会員が不在の時にも解放することは、トイレの衛生管理に責任を持てないというものであった。しかし、このことは、「高尾の森づくりの会」は山岳会自然保護委員会の下部組織なのだから、自然保護委員会の意向に従うのが当然だと言う発言に対して異議を唱えたことになった。この問題が自然保護委員会との間で色々な軋轢を引き起こす発端となった。そして、この問題がきっかけとなって日本山岳会における組織上の位置づけも問題の一つになった。自然保護委員会の下部組織とする考え、あるいは日本山岳会から外すという動きもあった。 これらの問題が全面的に解決したのは2011年で、4年という長い時間を要した。 色々な葛藤の中での議論や検討の結果、現在は常務理事会直属の機関となり、同時に日本山岳会森づくり連絡協議会(11支部で行われている森づくり運動)の纏め役としての機能を付与され、各種委員会と同等の位置付けになっている。
活動拠点として根付いた作業小屋は、携帯電話が通じない地域にあることから、現在は、下界とは衛星電話で、作業現場とは無線通信で連絡を取っている。
現在の「高尾の森づくりの会」は、個人会員230名(うち、日本山岳会会員70名)であるが、特別支援団体として、東京神奈川森林管理所、国土緑化推機構、それに法人会員19社があり、団体や法人からも多様な援助を受けている。
活動は、年12回の定例作業と年6回の補助作業、4月の植樹祭、各種研修会、体験会、ラオス植林プロジェクト、三宅島森林再生プロジェクト、気仙沼大島復興プロジェクト、年4回の会報発行等幅広く、年間の延べ活動日数は150日を超えている。 今までの活動に参加した延べ人員は優に4万人を超える規模となった。また、今までに重大事故の発生が無いという事も嬉しいことである。ここでの森林体験を通じて、高尾の森づくりの会に入会する人も毎年多い。会員の若返りは順調に進んでいると言って良い。そして、この会員の中から日本山岳会に入会する人も毎年出てきている。 森を作ってゆくには時間がかかる、森を作りながら我々の後継者も作ってゆかないと、長期の活動は継続出来ない。このことから、小学生を含む学生層や若手の企業人の育成にも力を入れている。まさに、「我々が木を育てているのではなく、木に我々が育てられている」ということを実感させられる活動となっている。
高尾の森づくりの会の発足に際し、50年の計画をたてた。現在90%近い針葉樹の森を50年後には針葉樹50%、落葉樹50%の風景林にするものである。 動物の餌になる実が無く、また、広葉樹の落ち葉がないことによって川や海へのミネラルの補給が出来ない針葉樹林を、広葉樹との混交林に変えることによって、動植物の種類が豊富に循環し、山にも海にも豊かな自然が生まれるという考えを中心に、今後も活動を続けて行きたい。
なお、河西さんから、山の森と河、海を関連付けた本として以下の紹介があった。
畠山重篤著「鉄が地球温暖化を防ぐ」文藝春秋社
        「カキじいさんは、何でも知っている」講談社
松永勝彦著「森が消えれば海も死ぬ」講談社
田中克著  「森里海連環学へ道」旬報社

自然保護が重要ということでは誰もが賛意を示す。しかしながら、多くの人が、これに関わり、実行し、継続発展させるという具体的な段階に入ると、各段階ごとに新たな課題が登場することは自然なことである。 いろいろな状況下にあっても、当初抱いた50年間という長期にわたる夢を追い続け、2001年からこの14年間、活動を継続させ発展させてきた「高尾の森づくりの会」に大きな拍手が送られた。

懇親会は京王八王子駅近くの居酒屋「さくら水産」で行われた。17名の方が参加され、楽しい懇談が遅くまで続いた。
・参加者:河西瑛一郎、竹中 彰、河野悠二、亀島英治、小口治、水谷弘治、大船武彦田辺忠宇、岡 義雄、松川信子、久保田貞視、亀山硯寛、十河三郎、依田修成、小木曽裕子、會田昭一郎、松本好正、澤登 均、飯島文夫、城所邦夫、野崎裕美 以上21名 (文/野崎裕美)


■第20回サテライト・サロン立川報告
日程 8月16日(土)  ―― 矢川を歩く ――
野外に踏み出して、現場を見ながらその場所のお話を伺うという試みを始めた。第1回は、西谷隆亘会員に玉川上水のお話を伺った。第2回は大船武彦会員の案内で矢川を歩いた。8月16日午前9時、JR南武線矢川駅集合。お目当てのキツネノカミソリが見ごろというものの、酷暑のお盆休みとあって、だれも来ないのではないかと危惧したが、8人が集まった。広瀬雅則会員が感想文を送ってくれた。

大船講師の案内で矢川を観察した。雑木の茂みのなかに、蔓が伸びていた。ヘクソカズラというそうだ。小さな鐘形の白い花をつけている。先が浅く割れている。内側は深紅色。「なんでこんな名前を付けているかな?」と聞かれた。「なんでだろう ?? 」さわると臭いそうです。さわりませんでした。
矢川の流れをみました。「えっ!!」――。 小さな川でした。透き通った水がすごくきれい。目を凝らしてみると、小魚がたくさんいました。アブラハヤというそうです。ザリガニも見つけました。矢川をたどりながら滝乃川学園へ。創立以来120年の歴史を持つ日本最初の知的障害児者のための福祉施設だそうだ。途中、「小さなスイカですか?」と尋ねました。「いいえ、カラスウリです。秋になると、赤くなるんです」。
「くにたち郷土文化館」での昼食は、いつもよりおいしくいただきました。1時間ほどの休憩を取って、次は古民家(旧柳沢家)を見学。その先が城山(じょうやま)です。鎌倉時代初期の、三田氏の館跡だそうです。大きなケヤキの木を始めとしてカシなどの木が生い茂っていました。東京都の歴史環境保存地域に指定されており、大船さん、仲谷さんは、ボランティアで環境保存に尽力されていると伺いました。
地上にはキツネノカミソリが群生していて、保護のためのロープの外まではみ出して威勢よく花をつけていました。最後は天満宮。裏手には清水が湧き出して、厳島神社を囲むように小さな池となり、たくさんの亀が気持ちよく居眠りしていました。

(追記) キツネノカミソリは、それは見事でした。広い斜面を埋め尽くしていました。ニッコウキスゲを一回り小さくしたような黄赤色の花を広げていました。ニッコウキスゲはユリ科、キツネノカミソリはヒガンバナ科だそうです。ヒガンバナほどに自己主張するのではなく、群生してはいるものの、どこか遠慮がちに咲いていました。早春に葉を伸ばし夏になると枯れてしまいます。そのあとから茎が出て、お盆のころに花を咲かせるのです。(記録/広瀬雅則、橋重之)
参加者
大島洋子、 大船武彦、川越尚子、河野悠二、橋郁子、橋重之、仲谷朋尚、広瀬雅則  計8名


■第44回サテライト・サロン町田開催案内
―― 富士箱根トレイル (第三回・金時山から駿河小山駅へ) ――
集合:2014年10月25日(土) [雨天の場合翌26日に変更]
箱根登山鉄道 箱根湯本駅改札口 8:40 時間厳守
 (参考アクセス)小田急線町田駅 7:09発→-8:11小田原駅着(乗換)→箱根湯本駅8:35着 (仙石原行バスに乗車)
行程:箱根湯本(バス)→仙石B.S〜金時山登山口9:30発〜金時山11:00着・昼食〜足柄峠13:30着〜駿河小山駅
16:00 着  ※コースタイム 約6時間、急登降あります。
地図:1/25,000  関本、御殿場 
持物:雨具、ライト、昼食、コンパス、非常用品、非常食。
会費:200円 
担当:高橋善護(090-1465-4538)、植木淑美(080-1348-7164)
   小宮真理(090-5532-8439)
申込:植木淑美 042-734-1498  〆切:10月18日(土)
順延時不参加の場合申し出てください


■第19回サテライト・サロン立川報告
―― 教養講座・懇談会 JAC創設期の先人を学ぶ ――
日程 7月8日(火) 立川市女性総合センター
もっと山岳会のことを学ぼう―-。立川サテライトサロンは7月8日、先人たちの人となりを知る教養講演会「JAC創設期の先人を学ぶ」を開催した。4月に小島烏水祭,深田久弥祭,6月にウエストン祭など,山岳会に大きな功績を残した先人を敬う伝統的行事が行われている。高頭祭が7月25日に開かれるのを機に、高頭仁兵衛・第2代会長の功績にふれながら,会創設期当時のJACの歴史を勉強した
教養講座・懇談会は,2部に分けて開いた。第1部は「日本山岳会の110年…いま登山界は…」をテーマに神ア忠男会員(日本山岳協会会長)を座長にして進め,2部は児玉茂会員(「山岳」編集委員/日本山岳会百年誌編集委員)に「創設期の日本山岳会,人なり山なり……」を話していただいた。
神崎会員は,ヨーロッパアルプスの最高峰であるモンブランが1786年8月8日に初登頂されたと語り,これが近代登山の始まりだったと説明した。1857年に英国に山岳会が設立された。マッターホルン初登頂は65年。1905年,日本に山岳会が設立された。09年ペアリーの北極点到達,10年アムンゼンの南極点到達などを経て,21年エベレスト第1次登山隊,53年ヒラリーがエベレスト初登頂へと続く。
日本山岳会は、一貫して日本の登山界をリードしてきた。最近は、その元気がなくなってきたのではないか、と残念そうである。「JAC創世期の先人に学び、チャレンジする心を持ち続けてほしい。海外に目を向けてほしい。クライミングなど山登りが多様化していることに直視してほしい」などと訴えた。

<第2部講演抄> ―― 創設期の日本山岳会、人なり山なり… ―― 
児玉茂/高頭仁兵衛と日本山岳会
外国人がまとめた山岳案内「ハンドブック」
日本の近代登山はだいたい明治10年代に、お雇い外国人によって始まっている。登山が日本人にとってまだ珍しい活動であったのに対し,日本にやってきていた外国人たちは休暇中に各地の旅行や登山を日本人以上に活発に行っていた。彼らによる旅行や登山は、やがて詳細なガイドブック“A Handbook for Traveller’s in Central and Northern Japan ,1881 Yokohama”という形でまとめられて情報が共有され、広められた。
このガイドブック(以後は『ハンドブック』と略称する)の際立った特徴として,E.サトウのような山好きが執筆編集しているために,登山の案内が極めて多い点が挙げられる。日本アルプスの命名者W.ガウランド提供による槍ヶ岳の登山案内が早くも載せられていた。
※この『ハンドブック』はその後も範囲を北海道や台湾まで拡大し,次々に最新情報を加えて9度も版を重ねた。第3版からはジョン・マーレイ社のハンドブック・シリーズの一つになる。
中部日本の信濃・飛騨・越中境界の高い山岳地帯の情報は、それまでに全く存在しなかったため,各方面で注目され引用された。明治21年(1888年)に日本にやってきた宣教師W.ウェストンもその−人で,1884年刊の『ハンドブック』第2版を片手に日本の主要な高山に登り,特に日本アルプスに新しい登山の可能性を見つけ,帰国後に日本での登山を綴った著書を出版した。あとにウェストン自身も『ハンドブック』第4版以降の登山部門の寄稿協力者となった。
日本人がこの『ハンドブック』の存在を知ったのは明治20年代後半のことらしい。志賀重昂が書いた『日本風景論』(明治27年,1894年)は、一つの啓蒙地理書として書かれ,気象現象や地質,地体構造など、さまざまな要素が未整理状態に並べられ,日本全国各地の山の特徴や登山案内的な説明が大半を占めている。さらには登山の際の実用的な注意や用具のことまで書かれている。「登山の気風興作すべし」という章には,中部日本の花崗岩の山の代表として『ハンドブック』から翻案した槍ヶ岳の案内記事が載せてある。槍ヶ岳という名の山で,しかも3531bという富士山に次ぐ標高の山が日本語の文献に登場したのはこれが初めてであり,しかも「須らく登臨を試むべき」とあって,山好きの青年たちを大いに刺激した。
そのなかに「山岳会」の発起人の一人である小島烏水もいて,明治35年の夏前に『日本風景論』の一章「登山の気風興作すべし」の趣旨を、より貫徹した論考「日本山嶽美論;山嶽論,登山論,登山準備論」を雑誌『文庫』に3回にわたって連載し(後に項目を増やし『日本山水論』と名を改めて明治38年7月に上梓),同じ年の8月には念願の槍ヶ岳登山を敢然と実行に移した。この画期的な登山の紀行を「日本山嶽美論」を中断して準備し,翌36年1月から『文庫』に10回の連載で「鎗ヶ嶽探険記」として発表し注目を集めた。執筆準備中に偶然にウェストンとその著書を知ることとなり,彼我の違いの大きさを痛感させられて,執筆態度が微妙にずれることになる。
高頭式編纂『日本山嶽志』、明治39年2月に発刊
同じく発起人の−人となる高頭式(仁兵衛)は越後の人であるが,登山活動を控える代りに,全国規模で膨大な地誌や地図類を渉猟し『日本風景論』の具体的な山の解説の部分を大幅に拡張し,小川琢治による地体構造論に基づく山系,山塊に分けた配列でまとめ,後に『日本山嶽志』となる大部の原稿を書き上げていた。原稿を携えて明治37年春に上京し志賀重ミを尋ね協力を求めたが,他の地域に比べ高山の集まる本州中部・飛騨高原に属する山の登山情報だけは乏しいままの故に,志賀による『はんどぶっく,ふおあ,じやぼん』の訳読(摘訳)を加えた。さらにその足で「鎗ヶ嶽探険記」「甲斐の白峰」などを読んで名を知った小島鳥水を尋ね,原稿を見せて協力を仰いだ。
烏水は高頭の原稿を手にとって,自らの考えと構想を重ね合わせて「日本の山と登山のハンドブック」とするべく最大限の協力をした。総論のなかの「登山術」の項目を,上梓したばかりの『日本山水論』などから借用,さらに本編(山嶽各記)と補遺に自身が知る限りの情報を書き込んだ詳細な補筆を行い,明治39年2月に高頭式編纂『日本山嶽志』として博文館から発刊した。それでも高頭自身は「本書本編ノ説文中,最モ確実ナルモノハ,志賀氏ノ稀釈卜小島氏増補ナリ」としており,後々まで増補訂正を繰り返した。ちょうどこの本の出版が山岳会の創設時期と重なり,結果的に山岳会の−種の基準書のようになったため,付録に山岳会の「主旨書」,「規則書」が付けられた。
烏水は槍ヶ岳に登った同じ明治35年の秋に,ウェストンの著書“Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps”,1898 Londonを偶然に横浜で見つけ(岡野金次郎が見つけて烏水に連絡),この著書を通してウェストンを知ることができた。ウェストンが二度目に来日して間もない時であった。槍ヶ岳登山という共通項で結ばれ,書簡を通じ,また面会してヨーロッパの最新登山事情の提供を受け,さらには日本アルプスの登山経験を直接聞いた。38年春にウェストンが離日する数日前に,知り合ったばかりの「日本博物学同志会」の武田久吉,高野鷹蔵も含めて会食し,日本にも「山岳会」を作ることが提案された。志賀重昂以来の「登山の気風興作すべし」の構想を実現すべく同志を募り,明治38年10月に7人が発起人となって「山岳会」が創設されることが決まった。
※以上、「山岳」105 「登山者の作った地図」による

「山岳会」発起人7人の平均年齢は26歳
発起人たちの年齢は,城数馬41歳,小島烏水32歳,高頭仁兵衛28歳,武田久吉22歳,高野鷹蔵21歳,梅沢親光20歳,山川黙19歳である。武田以下の若者は山の自然科学に目覚めた元気な学生たちで「博物之友」を発行していた。小島は銀行員をしながら文士として「文庫」で活躍中,そして城は法律家で山草収集家であった。高頭だけは地方の人で,新潟県長岡の素封家として家督を継いでいた。
高頭は始めから山岳会の財政を支える立場に立たされ,8年間にわたり1000円を毎年支出し山岳会の存続をささえたパトロンである。山岳会創設の一つの目的は,雑誌「山岳」の発行であるが,その経費の提供者である高頭仁兵衛が発行者として記されている。また創立に際し,会員集めのため各自が知合いを募ったが,高頭は出身地から百名を超える会員を集めることができ,東京を除いて新潟県の会員が最も多くなって「越後支部」として認められたこともあった。
山岳会の事務所は城数馬の日本橋室町にある事務所の一角に置かれたが,創立時には本郷西片町の高頭の東京別邸に−時置かれていた。城が朝鮮に赴任した後は,永らく横浜の高野鷹蔵宅に事務所が置かれたが,その高野が病気になり,事務所の所在が定まらなくなった大正8,9年頃からは,再び高頭の東京宅(この時は高頭の妹宅)への事務所の移動が図られたが,高頭一家の事情でその余裕がなくなり,大正11年からは長岡の本宅に事務所が移され,事務を引き受けることとなった。高頭はこれまでも長岡の自宅から,集会などがあれば東京へ毎度出てくるという日常であったが,事務所を引き受けてからは余計頻繁に東京を往復することになった。行動中は常にお付の使用人を伴っていた。
山登りは家のものが心配して一時登山を控えていたのだが,山岳会が出来てからは登山を再開し盛んに登った。小島烏水や幹事たちとの日本アルプス登山や志村烏嶺との東北の山々,そして地元越後の山,さらに高頭の恩師である大平晟と九州や台湾の山にも登っている。登山に際しても大旦那様にはお付が付添っていた。
このような高頭の多大な貢献に対し,山岳会は何度か感謝を表した。昭和6年に法人化を目指して山岳会の体制が変更された際には,小島烏水が初代の会長になったが,第二代の会長には高頭が選ばれて昭和9年から2年間務めている。昭和10年の創立30周年に際しては小島ら発起人とともに名誉会員となった。戦後のことになるが,昭和21年越後支部ができる際には,高頭宅で結成された。昭和25年には弥彦山頂に高頭翁の寿像を建設する運動が越後支部によって始められ,昭和29年以来,高頭仁兵衛の遺徳を偲ぶ高頭祭が支部員によって弥彦山で開催され今日に及んでいる。
※亡くなったのは昭和33年4月6日。翁の像は昭和36年5月に多宝山大平に移されている。
古文献を集め必要項目を引用した『日本山嶽志』
日本山岳会は創立百年に際して『新日本山岳誌』日本山岳会篇を記念出版した。名前は良く似ているが、『日本山嶽志』を引き継いだものではなくて,それは言うなれば大型の「山岳辞典」の一つである。高頭がまとめあげたものは「山岳辞典」を目指したものであったかもしれないが、趣を大いに異にしている。『日本山嶽志』は書籍の分類で言うと、むしろ「類書」(同じ類の書冊を集めて,一大部冊したるもの)に属するといえる。明治10年代に編纂の始まった『古事類苑』の例にならって,古文献を集めてそのなかから必要項目を抜き出して引用,主題ごとにまとめてある基準に沿って並べたものである。主題は名の付いた山一つ一つである。
高頭がもともと行いもとめた各種文献からの収集作業(『日本名山砂』と自身で名付けていた)は,途中から,すなわち小島烏水が協力を始めてから方向が変わってしまったように見える。小島の考えが前面に出た「補遺」をみれば,これはほとんど登山案内といって良いものになっている。高頭は中部日本の高い山々の情報が,自身が集めた地誌類や地理書のどこを探しても全く書かれていないことを確認し,その部分の補強のために『日本風景論』の著者志賀重昂をたずねると,それならば外国人がまとめた「はんどぶっく」があり,それを翻訳して充てるのが最良であることがわかった。さらには小島烏水という日本人では−歩先んじた登山者を尋ねて相談すると,山を登山という観点からはっきり捉えており,小島自身も山の研究,登山の研究のために総合的な基準書が欲しいところであった。
両者の考えが本にまとめるという点で一致し,『日本山嶽志』が完成した。まさに日本山岳会が結成される時にあたり,日本人の登山が本格的に始まる直前の,日本の山についての総合的な知識がどのようなものであったのかが示された。現在の私たちにとっては,記念碑ともいうべき書物となっている。『日本山嶽志』に記された内容や山名は,瞬く間に登山者たちによって書き改められることになってしまう。高頭自身はその都度訂正や改訂の準備を繰り返していたが,新しい知識量がそれを上回り,『日本山嶽志』の改訂版は実現せず,やがて登山界からは取り残された書物となってしまった。
先に高頭は「山岳辞典」を目指したのだろうと推定したが,当時の知識の水準はそれを許さなかった。逆に言えば,もはや新しい知識が追加される余地さえほとんどない現在は,さまざまかたちの「山岳辞典」を作るかどうかは資金と時間の問題だけとなっている。類書としての『日本山嶽志』は,今後も参考資料としての価値を保持し続けるだろうし,日本の近代登山が始まる時期の日本人の山と登山の記念碑としての意義も失われることはない。

誤謬遺脱は『山岳』で増補訂正あるべし
山の選び方は,当時知られていた日本の地体構造(小川琢治による)に基づき体系的に行われ,「系に別ち,系を又脈に小別し,脈中の山嶽を順次に列挙し」ている。目次は省略なく全ての山が並び,すぐ後に索引が付いている。「国別索引」「称呼索引」「字画索引」が各山に付けられ,目次と索引だけで234ページにもなっている。凡例にある「所載山岳の標準」によれば,登山に値する大きさのある山で,地図や地誌によって登攀できると信じられるものであるが,例外もある。山名については,「正確なりと想はるる書籍によりたるもの,某所属町村役場に照会したるもの及び実地踏査にかかるものは片仮名傍音傍訓を用い,疑はしきものは平仮名」で区別してある。「引用」は原則的に原文の儘(片仮名,平仮名,漢文)。「挿入文章詩歌俳句」は「著名なるものの文章詩歌俳句は多く之を省略し,著名ならざるものに関せるものは,拙劣なるものと錐も悉く採録せり,故に玉石同櫃たるを免れず」。収録した山の数は当初千三百山であったが,各府県の統計書や識者の助言を得て,「校正の傍ら極力増補して其数実に八百十余山を採録せり」。「誤謬脱漏」については,「経営多歳熱心に編纂せるものなるを以て,比較的精確なるものと信ずれども,誤謬脱漏なきを保せず」。しかしそれは他事も同じであろう。高頭は編纂作業に10年の歳月を費やしている。
付表として「山嶽噴火年表」(西暦紀元前477年の開聞岳噴出から明治37年の硫黄島付近の洋中噴火まで)と,「天武天皇以後噴火回数表」(最高が阿蘇山の70回)が付き,さらに「山嶽表」という掲載された全山の山名,標高,文献,地質をそれぞれ記した表が130ページにわたって載っている。巻末には「本書の誤謬遺脱は『山岳』の一端を借りて以て増補訂正する所あるべし」とあり,本書の発刊と山岳会の創立と『山岳』の発行が重なり,その関係がここに示されている。(記録/橋重之)
参加者
竹中 彰、成川隆顕、児玉 茂、石井秀典、仲谷朋尚、砂田定夫、大船武彦、高橋郁子、川越尚子、小清水敏昌、大島洋子、小山義雄、澤登 均、神崎忠男、西村智磨子、山本憲一、河野悠二、西谷隆亘、飯島文夫、辻橋明子、富澤克禮、高橋重之、市川義輝、志賀 昴、堀崎弘祐、福田雄一、小郷、相良泰子、堀 欣子、中野有倫、平野信尚、鈴木睦子、澤村貴和、小泉芳枝、小島伊津子、草深千鶴、谷 孝子、鈴木和子、宮原正代、滝本小枝子  計40名


■第42回サテライト・サロン町田報告
富士箱根トレイル「湯船山から不老山へサンショウバラを尋ねて」
開催日  平成26年6月14日(土)
 富士箱根トレイルは、静岡県と山梨県、神奈川県の県境に位置し、富士山五合目から西丹沢と呼ばれる三国山稜・湯船山・不老山を経て、足柄山系の金時山までを縦走する全長43kmのトレイルです。
真ん中の明神峠から東へ湯船山から不老山への13.1kmのトレイルは、昨年6月第29回町田サロン集会として計画したが、雨天の為一年延期したものです。
今回は幸いにも晴天の中、トレイルの中心地・明神峠に立ち最高峰・湯船山(1041m)へ登るも、雪を纏った富士山は昨日の夕立豪雨の為か雲が湧き出し雄姿を見せてくれなかった。
西丹沢の木立のなかの尾根道歩きは木漏れ日のなか風もあって涼しく、気分よく世附峠近くの「サンショウバラの丘」に向かったが、お目当てのサンショウバラは一輪二輪だった。見ている間に花弁がハラリ・・、ああ無情。わずか二週間がサンショウバラの咲き誇る期間だという。遅かったか、残念! しかし先週は梅雨入りの降雨だったもんなー。
目の前の箱根連山や遠く駿河湾を望みながら昼食をとり、午後は世附峠から不老山に登る。主稜線からわずか200m離れた不老山主峰(928m)はその山名から「不老長寿」を望む老々男女に人気が高いが、この頂上にこそ「サンショウバラ」が咲き誇っていた。私たちは若返り、サンショウバラの群落に会ってラッキー、幸運だった。待ちに待った一年間だった。
楽しみのあとは駿河小山駅を目指して南へ、生土へ長―い長―い尾根を下った。
富士箱根トレイル中間の明神峠から西へ三国山(1328m)から大洞山を経て須走への10kmの道は、昨年7月20日第31回町田サロン集会として歩いた。その先の須走から富士山五合目までの10kmの道は舗装道路だし、金時山周辺は会員たちご愛用の山なので端折り、残る足柄峠から駿河小山への道(6.9km)を歩いて、町田サロンの富士箱根トレイル・ウォーキングを終えようとしています。
(記録/橋善護)
参加者
本間正士、鎌田正彦、石原康生、上田昌子、桐山裕子、高砂寿一、小宮真理、植木淑美、橋善護  計9名


■第18回サテライト・サロン立川報告
◇2014年4月3日
◇玉川上水を歩く
サテライト・サロン立川では、部屋の中で話をお聴きすることから一歩踏み出して、現場を見ながらその場所のお話を伺うという試みを始めることとした。第一回は、西谷隆亘さんに玉川上水のお話を伺った。西谷さんは、お若いころに、一時玉川上水に凝ったことがあるという。
09:00に羽村の取水堰に近い、青梅線羽村駅に11名が集まった。「五ノ神マイマイズ井戸』からコースは始まった。マイマイは、かたつむりで、中心部に湧き出す水を汲みに掘り込んだ大きな穴の中に外周をくるくる回りながら、降りて行って、不透水層を通して流れている地下のミズ道を探し出して井戸にする。人間が、農耕に始まる文化の蓄積の中で、灌漑とまではゆかないが、[それまでは、水のあるところ、河辺、泉の傍]でなければ、住居にできなかった人間という生物が、この仕組みを発見したことによって、荒野のど真ん中で、暮らしを始めることができるようになった、と言うホモサピエンスの進化的な意味をみることができる。
 それからさらに、多摩川方面に向かう。五ノ神マイマイズ井戸が、武蔵面に成立していて、その下立川面に、何と!!!中里介山の墓所があってお参りした。介山の墓所がある立川面のすぐ下にも別のハケ[崖]があって、禅宗のお寺があるが、このハケの下が拝島面【青柳面】だとすると、複雑な浸蝕面が輻輳して現れる場所だ。  いよいよ、羽村の取水口に到着すると、多摩川の中流域の広々とした景観が、川水から放たれる、オゾンと相まって、気持ちいい。背筋が伸びる感覚をもたらす。西谷講師の玉川上水についての解説をお聴きして、そのまま、多摩川の流れに沿って、下流へ向かう。この間拝島周辺[拝島面は、小作から、拝島間に成立している。拝島まで来ると、また、武蔵野面・立川面が現れるということになる。それまで、奥多摩街道に就かず離れずに現れていた玉川上水は、一時街中に隠れてしまう。武蔵野面を乗り越えるのに、イベントがあった。玉川上水を掘り進んだところ、砂利層が現れて、水が、ほとんどその砂利層の中に吸い込まれて、流れなくなってしまったようである。その場所は、今は、水喰らい土公園として残されているが、青梅線と拝島で分岐する高崎線の間に挟まれたところに位置している。別のいい方になるが、この場所で、玉川上水は、拝島面から、二段上の武蔵野面に駆け上がって、東京西部の最も高い位置を流れることに成功したことになる。ここで昼食を取り、その後、玉川上水方面に歩を進めた。
其の後、立川断層を形成する残堀川との交差、野火止め用水との分岐などを見て、15:00解散した。講師の説によると、その後も、野火止用水が、クランク状に流れている場所であるとか、面白いところもあるようだが、それは次会のおたのしみとして、玉川上水駅まで戻り、解説の西谷さんに感謝しつつ、三々五々解散となった。工事にかかわる技術的な問題、大地形的に、低い[はずの]場所から、高い[はずの]ところに水を流す苦労など、400年も前に、こんな技術があったのか、と思えるような先人の知恵に驚いたものだった。羽村から、西武線玉川上水駅周辺まで、約15q、やはり街中の歩行は、疲れる。
(記録/大船武彦)
参加者
西谷隆亘、松本恒弘、河野悠二、岡義雄、平井康司、八木五郎、飯島文夫、西村智磨子、仲谷朋尚、高橋郁子、大船武彦  11名


■第25回サテライト・サロン花小金井・吉祥寺報告
 真夏のような暑さを感じた5月28日(水)午後6時半から、「JACに於ける40年」と題した講演会が始まった。演者は、日本山岳会で永年、自然保護委員として活躍され 担当理事でもあった松本恒廣氏(7440)。現在は緑爽会代表を務めている。略歴に基づき、歩んでこられた山岳活動について当時を思い出しながら話された。
 学生時代(慶大1959年卒)は山岳部ではなくワンダーフォーゲル部に所属。卒業後は仕事の関係で大阪に転勤になった。大正10年当時に会員だったお父上の勧めで、関西支部から日本山岳会に入会。紹介者は三田幸夫氏、佐藤久一郎氏で、共にお父上の後輩だった。その後、東京に転勤になり日本山岳会のオリエンテーションに出席した事がきっかけで、自然保護に興味を持ち1981年にはその委員会の委員になった。持参した昔の日本山岳会の沢山の資料の中から、幾つかのエピソードを紹介した。例えば、大正時代の山岳会名簿には760名程の名があるが、面白いことに五十音順ではなくABC順で表記され、発起人の他には槇有恒氏、松方三郎氏、柳田国男氏、与謝野鉄幹氏などの名も連ねてあったという。
 次いで、DVD(自然保護の歩み:自然保護委員会2004年8月制作)での説明では、当時の新聞が取り上げた自然保護関連の記事や写真など興味深い映像ばかりだった。自然保護の問題では、開発か保護かで必ず議論になるが、特に演者が積極的に取り組んだのは長野オリンピック冬季大会の際に岩菅山のスキーコース開設を巡る問題。また鳥海山南山麓のスキー場開設の問題であった。当時 日本人は開発のために自然を破壊することに拒否反応が強く、しばしば 反対運動がマスコミに取り上げられた。しかし、地元にも山岳会員が居たにも拘わらず あまり声は挙げなかったという。岩菅山の問題は五輪開催という国家機関をも巻き込んだ保護活動であったが、結局 既設のコースを用いることで目的は達成された。鳥海山の場合はスキー場開設地域の近くに特別天然記念物「イヌワシ」が生息していることを山形支部の会員がつきとめ、この保護を理由に日本山岳会が中心になり開発の中止を求めた。民間企業による開発だったが、長期に亘る息の長い反対運動を続けた結果 7年後にやっと開発を諦めさせた。こうした活動を含め、開発反対運動の成果というよりは、全国で展開した日本山岳会による自然保護の主張が多くの国民に支持された結果ではないのかと思うと結んだ。
 自然保護委員会が纏めた数多くの保護活動について記録の説明を聞き、改めてその素晴らしい活動に賞賛と敬意の念を感じた。
 サテライトだけでの話にとどめず、一般市民にも日本山岳会が取り組んだ自然保護活動を広く知ってもらいたいと思うような内容だった。
 講演終了後、意見交換を行った。今回初めて出席した4人の方々から自己紹介をしてもらった。また田村俊介氏からはパミール中央アジア研究会企画の「中央アジア旧三汗国9日間」の紹介。最後に、副島世話人から次回は9月24日に開催との案内をして午後8時半ごろに終了した。その後、いつもの「はなの舞」に行って更に懇親を深めた。(文責:小清水敏昌)
出席者
松本恒廣 山口峯生 西谷隆亘 岡義雄 田村俊介 大橋基光 金子浩 河野悠二 石塚嘉一 中杉健 大島洋子 横関邦子 藤下美穂子 原山恵津子 副島一義 小清水敏昌(計16名)


■第24回サテライト・サロン花小金井・吉祥寺報告
 岡義雄氏による「ぼくのほそ道・俳句ing」シリーズの3回目の話が始まったのは3月26日午後6時半からであった。前回(平成24年12月)は仙台までの話だったので、その続きの道中談。今回のルートは、仙台―松島―石巻―登米―平泉(中尊寺)―鳴子―尾花沢―山寺―大石田−新庄―古口(船旅)−羽黒山・月山・湯殿山―鶴岡―酒田までの話。芭蕉は船に乗って松島湾を眺めた。その松島の美しさに芭蕉は感嘆し美しい女が粧った姿と同じであることを讃えて、「美人の顔(びじんのかんばせ)」と表現している。芭蕉は「おくのほそ道」に出かける前に、当時から歌枕として有名であった「白川の関」と「松島」は期待していたに違いないのであるが、そこでは何故か句を詠んでいないと云う。岡氏は船に乗らず石巻まで歩いた。それは東日本大震災が起こる約11か月前の2010年4月19日のことで、桜が見事に咲いていたのをはっきり覚えていると云う。石巻市内を一望できる日和山に登り周辺を眺めた。その日和山には芭蕉と同行した弟子の曾良の銅像があった。山を下った芭蕉らは、北上川近くの住吉神社に参拝し鳥居の前の有名な「袖の渡り」を見ているが、この橋辺りは大震災を起こした3.11で壊滅してしまったと云う。登米町の「登米市教育資料館」に行った。その昔そこは小学校であり太平洋戦争時に岡氏が通っていた杉並の小学校の集団疎開先だった。しかもそこは氏の9歳年上の姉君が当時、代用教員として母校の生徒を連れて生活していた場所でもあった。その岡氏が約65年後に芭蕉の足跡を辿り、疎開先の場所にやって来るとは不思議な縁であると、その当時の写真等を映しながら感慨深く述べていたのはとても印象的であった。平泉で「夏草や兵どもが夢の跡」を詠んで芭蕉は西に向かった。尾花沢、大石田に10日以上滞在し山寺にも行っている。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」「五月雨をあつめて早し最上川」などの名句を詠む。その後、芭蕉は船に乗り最上川を下り出羽三山に向かう。岡氏も最上川の下りの船に乗ったところ民放テレビの「秘湯めぐり」の取材陣と一緒になり女優さんたちと同じ炬燵に入って話をしたが、放映されたテレビには岡氏の姿は現れなかったと云う。芭蕉は「おくのほそ道」では「鶴岡から川船で酒田まで下った」と記しているが、どう見ても船が通れるような川が酒田まで通じていない。その謎解きにいろいろ苦労したと云いながら今回の話を終えた。
 岡氏がスライドで示した芭蕉の句碑、旅姿像などを見ると、各地には足跡として大切に残してあることを思い知らされた。また、「全国文学碑総覧」という分厚い書物には、芭蕉に関する碑が圧倒的に多く収録されており第2位万葉集、第3位は種田山頭火という話も披露してくれた。(文責:小清水敏昌)
出席者
岡 義雄 長谷川公子 時田昌幸 津田保太郎 原山恵津子 長澤 登 三渡忠臣 副島一義 小清水敏昌  計9名


■第41回サテライト・サロン町田報告
・4月19-20日(土・日)  ――花旅シリーズ「日立 御岩山、高鈴山」――
 快晴の朝8:00上野発特急スーパーひたち 8号車自由席前に集合出発した仲間の顔は、どの顔も爽やかな春の日差しに輝いていた。車中で今日の行程の説明資料が配付され、宿泊予定の9名には明日訪ねる予定の五浦(いずら)方面の説明が行われた。定刻9:41日立着。
駅前には予約手配済のタクシー3台が我々を迎えてくれた。登山口の御岩神社までの街道の所々には咲き終わったソメイヨシノと山桜が見られた。約30分で御岩神社着。祭礼日とあって屋台が出て花見客と参拝客で賑やかだった。境内の庭には可憐な水芭蕉が咲いていた。
 支度を調えて10:15裏参道から歩き始める。暫くは杉林や雑木林の道を奥の院目指して登る。道端にはスミレやアブラチャン、アセビの花が咲いている。また参道には「常陸国風土記」にみえる「賀毘礼之高峰」にちなんで「かびれ」の句碑が建てられている。約60分で御岩山(492m)と呼ばれる分岐到着。その名の通り大きな黒い岩が横たわっており、高さ4m位のその岩の上で記念撮影をする。イワウチワの群生地のあった岩場は、3年前の崩壊で危険の表示があり、迂回路に誘導された。
期待のイワウチワがなかなか見られない為ガッカリの女性陣だった。小休止の後、高鈴山を目指す。ちょうど12:00頃高鈴山(623.3m)山頂着。1等三角点の標石と立派な電波塔や国土交通省の雨量測定タワーが建っている。ここで弁当タイムとした。
 当初に予定していた神峰山コースを諦めて、イワウチワを求めて岩場に10分はいいったが咲終わりの株が少々のみだったので、賀毘禮神社を目指すことにした。神社の祠の前に大きな黒い岩があって、その岩を包み囲むようにびっしりとイワウチワが自生して薄紫色の花がたくさん咲いていた。大歓声と共に今までの汗が吹っ飛んでしまった。心地良い風に当たりながら下山の足は軽くなった気分だった。
再び出発点の御岩神社に戻り、15:20のバスで日立駅前に戻った。日帰りの二人を見送って、今夜のホテルにチェックインした。コース途中で知り合った別のグループを案内していた市の観光課職員の紹介で、ホテルから10分ほどの商店街に在る焼き鳥屋で祝杯を挙げることになった。
 翌20日も快晴の気持ちよい朝を迎えた。8:50日立発の下り電車で大津港まで足を伸ばした。ローカル線のような寂しい駅舎だが六角堂のイメージをデザインした古風な建物であった。
駅前から約2.5kmの広い整備された道を歩いて茨木県立岡倉天心記念五浦美術館を訪ねました。明治時代の急激な西洋化の荒波の中で、この地に日本美術院を移して横山大観等とともに理想郷を見出した彼らの業績を紹介する立派な建物に納められた数々の展示品は必見でした。
天心のお抱え船頭の孫に当たる方が作る船頭料理を食べさせる「天心丸」で昼食を執ることにしたが、日曜日と行楽シーズンとあって1時間半の待ち時間ということになり、その間に「六角堂」を見学することにした。
そして3年前の3.11で流失した六角堂を訪ねてみると、元通りに復元された美しいその姿と磯の香り漂う庭園でしばし明治の空気を堪能しました。
次々と「天心丸」から食べ終わった客達が食べ残した料理をお
土産にドギーバックとして出てくるので笑って見ていたが、いざ自分たちの番になって座ってビックリ。刺身でも天ぷらでも三人前ほどもある大盛りで流石に驚いた。 大収穫の北茨城路で山の空気と海の味を味わった満腹と手土産を下げて家路についた。(高砂 寿一記)
参加者
荒木正弘、笹本忠、原満紀、藪田益資、鎌田正彦、小宮真理、植木叔美、植木信久、石原康生、桐山裕子、高砂寿一  計11名


■第40回サテライト・サロン町田報告
――関東ふれあいの道「荒崎 潮騒のみち」――
2014年3月15日(土)9時50分 京浜急行三崎口 集合
 町田サロンメンバー17人が集まった。
快晴の天気に例年より厳しい寒さにもかかわらず、ぽかぽかとし たすこし春めいた日和になった。それでも昨日までは早春譜の歌の ように「春は名のみの 風の寒さや・・・」といったところ。
 三崎口から歩いて円徳寺で海岸に出る。寺の庭先に花が咲いてい て春が近いことを実感する。潮と磯の匂いがいっぱいただよう浜辺にでた。
 神戸西の垂水、須磨の海に近い場所で25歳まで育っただけに、自 分の成長過程で海がどれだけ大きな関わりがあったか計り知れない。 海岸線からわずか山にむかって歩くと、六甲山系の西よりの稜線に すぐ立てる事も山との繋がりで結ばれるところである。
 海岸線に遊んで、そのまま山にむかった少年時代を思い出した。 三浦海岸の浜辺から感じることが重なりあって、一日中頭の中でさ まざまな過去の想いが駆け巡った。
 須磨の海岸は瀬戸内の穏やかな波打ちぎわと、一直線にのびる海 岸線がどこまでも続く浜辺である。右前方に淡路島、左方向は大阪 から和歌山に伸びる山なみが眺められる。まことに穏やかな海だ。  今日の三浦海岸は引き潮で、満潮時に波うち際の狭い通路をくぐ りぬけるように岩場が続くところなど、対照的に厳しさを感じると ころである。
 六甲山系の西端の鉢伏山から標高300〜500m前後の峰を経て、や がて六甲山にいたる。山頂から緩やかに宝塚に下る東西に並ぶ山脈 である。海で遊び、山に足を向けてやがて山との繋がりが強くなっ ていった。
 「単独行」の加藤文太郎もかつて神戸の市内を通り、須磨から六 甲山全山を縦走を行ったものだ。現在では年中行事として六甲全山 縦走というイヴェントが開かれている。
 先ほどの円徳寺で土地の人から「今日は富士山が見えるよ!」と いう話だったがすでに富士の方向には雲がかかって見えなかった。  海岸線に出るとたくさんのワカメが流れ着いて、皆で拾いはじめ るとかなり大量になる。良さそうなものだけでもかなりのボリュー ムになった。
 終戦直後は海岸に流れ着いたワカメは貴重な食料の一部として、 近くの子どもたちと遊びを兼ねて拾い集めたものだ。また漁師の網 にかかるイカナゴ漁のクラゲも捨てられる。そのクラゲも大切な獲 物だった。クラゲが10匹くらいイカナゴを飲み込んでいて、クラゲ を握りつぶして取り出し家に持ち帰り母への土産物になった。
その頃のイカナゴは現在の釘煮になっているものより大きかったような気 がする。 戦後の食糧事情がきわめて悪く、道路脇を掘り起こし家庭菜園と してサツマイモを植え、そのツルまで海水を汲んで漬け物にするような厳しい 食糧事情の生活を思い出す。
 この耐乏生活は昨今の生活からすると、想像を絶する世界ではな いかと思う。白米のご飯はせいぜい1月1日に一度だけで、ふだんは 米を探すのが難しいくらい多量の雑穀の入ったご飯だった。
 砂浜から岩礁となり海岸線もやがて、荒崎公園に到着する。
最終地点で、お昼のパーティとなる。ワカメのしゃぶしゃぶ風ポン 酢鍋、湯を通すとトタンにキレイな緑色に変わり新鮮なワカメをた くさんいただいた。途中で水の流れのそばのクレソンを採集して、 これも食材として並んだ。頭上には鳶がかなり集まりわれわれのよ うすを伺っている、まことに野趣に富んだ贅沢な昼食であった。
(文  藪田益資)
参加者
藪田益資、中野有倫、上田昌子、植木信久、石原康生、笹本忠、本間正士、桐山裕子、森静子、鎌田正彦、高砂寿一、平井康司、片野スミ子、荒木正弘、小宮真理、原満紀、植木淑美  以上17名


■第38回サテライト・サロン町田報告
「コンサートのおはなし」
・日時  2014年1月29日(水) 18:00〜19:30
・場所  まちだ中央公民館
・講師  藪田益資
今回は町田サロンメンバーの藪田益資さんから「コンサートのおはなし」というテーマでお話しいただきました。
藪田さんは大学卒業(1959年)後40年以上にわたってクラシック音楽関係のお仕事に従事されました。
 その間国内はもとより、海外からの著名な演奏家の招聘、コンサートのプロデユース等を手がけられたそうです。1997年に退職、その後インターネットを使ったサ イト「クラシック・ニュース」で音楽情報をサービスしています。現在も音楽関係者のインタビュアーとして活躍されております。最近は「ユーチューブ」を使って、 発信しています。
 山の歴史は古く、スキー、登山、トレッキングを楽しまれ、ヨーロッパに足を伸ばされることがあったそうです。
 お話はプロデュ―サーとしての長い歴史の中で経験された現代のクラッシク音楽の変遷や著名な演奏家・指揮者のこと、インタビューについてのことなど、流暢な 関西弁でユーモアを交えてお話し頂きました。
 BGМとして、ご自身がお好きな曲が流されていました。ショパンの遺作のノクターンです。「戦場のピアニスト」という映画に使われていました。「これから音 楽を楽しもうとされる方も先ず自分で好きな曲を1曲見つけて、それを中心にレパートリーを拡げるのが良いでしょう」というアドバイスがありました。
 ピアニスト:サンソン・フランソワ氏が1969年に来日された際に日生ホールで演奏を聴かれ感銘を受けられた話がでました。その時のライブの録音がCD化されたが 「生」の演奏に遠くおよばないということです。
 また現在のクラッシック界について、お配り頂いたクラッシク関係誌「ぶらあぼ」2月号に触れられ、業界では世界的な状況変化が起こり、CDビジネスが消滅し世界のマーケットが縮小しているものの、日本、特に東京地区でのコンサート開催回数は格段に多く有望なマーケットを維持しているそうです。
 また優秀な若手の音楽家が海外で学び、帰国してもなかなか国内のオ−ケストラに空席がなくて就職が出来ない現実の話を聞く。各地方のオーケストラに所属され ている多くの若手音楽家は常に東京に目を向けて東京のオーケストラの空席を狙うという現実、まことに厳しいオーディションを括り抜けるというお話でした。
 次に長年親しく付き合われていた方々との苦労話やエピソードを中心にお話がありました。
 音楽家には色々なタイプの方が居られ、コンサートの演奏前には非常に緊張感が高まり、想像出来ないようなことがあったようです。最高の状態で演奏に入ってい ただくにはその開演時刻をタイミングを会わせるとか、気遣い、心くばりをすることによるとの心の絆を深めストレスを最小限にするなど、舞台裏のご苦労があった ようです。
 また最近のインタビューではおもに上野公園を使うそうです。取材費が掛けられないという悩みからと、狭い室内の閉塞感を取り除くとかの苦労話も出ました。
 かつて思わぬハプニングに遭遇するという話題です。オーケストラの指揮者が開演直前になって蝶ネクタイを忘れ大騒ぎになった場面で、一瞬の閃きでしようか、 当のご本人がご自分の黒色の靴下で蝶ネクタイの形を作って、何食わぬ顔で指揮をされたお話、演奏に没頭された演奏家が休憩時間をとり忘れて続けて演奏をした為、 販売予約の300食のサンドウイッチを売り損なったお話、また演奏の途中で、舞台裏のエアコンの風が舞台に吹き下ろすというのをものすごく嫌うアーティストが多く、これでは演奏出来ないと理由で、帰り支度をされた演奏家を何とか引き止めた話とかご苦労の多い仕事だった等々。
 様々な国の音楽家の方と接する時に、彼は英語が得意ではなかなかった。その場合には身振り手振り、場合によっては昔懐かしい赤尾の「豆単」を使ってコミュ ニケーションをはかったこともあるそうです。
 ただ、中には食事中に我々がいつも口にしているこんにゃくをお酒のコニャックと思われたり、寿司屋で「おどり」を注文しても意味不明でキョトンとされる場合 があったとか・・。それでも誠意と音楽で心と心が通じ合っていれば会話は進んでゆくというお話に、いつもの藪田さんのお人柄がリンクして見えてきました。ため 息をついたり、爆笑したり、あっという間の1時間30分でした。
(文/鎌田正彦)
出席者
藪田益資、高芝一民、小松忍、本間正士、宇野良夫、鎌田正彦、石原康生、 高砂寿一、丸山さかえ、森静子、小宮真理、片野スミ子、上田昌子、北野忠彦、高 橋善数、植木信久、植木淑美、仲川侑子、中野有倫、笹本瑞江、松岡節子、杉本よ し子、甲斐郁雄    以上 23名。                                                    


■サテライト・サロン花小金井・吉祥寺合同講演会報告
本年最初のサテライト・サロンが1月29日(水)午後6時半から開催された。今回のテーマは武蔵野市在住の小野寺斉氏(会員11110)による「気候変動と登山 我々の役割」。氏は日本山岳会会員であり、且つ日本山岳協会や日本山岳文化学会の各常務理事を務めている。昨年10月にスイス山岳会創立150周年記念会に合わせて国際山岳連盟(UIAA)の総会がスイスのボントレジーナで開かれ、これに出席した氏はJAC「山」あるいはJMA「登山月報」の各11月号に報告していた。今回はそれらの報告記を基に詳細に述べて頂いた。
UIAA総会における各国の山岳団体が討議した内容や会場の様子などについて、スライドを用いて簡潔に話した。特に印象的だったのは、各国の登山家たちが山に登ってみて地球規模で山の変化を感じており、車やケーブルなどの交通機関の発達によって便利になったが反省する時期にきているのではないか、と熱い議論が交わされたと報告した点である。その実例として、氏はスライドを用いアレッチ氷河が経年で衰退している状況、アラスカのハーバード氷河湖が2002年に決壊したときの様子、エベレスト山麓のイムジャ湖は氷河湖であるが決壊すると土石流を起こす可能性が高い様子、インド北部でヒマラヤの氷河が溶け大洪水が生じ被害を受けた状況など、温暖化によって山や氷河の姿が変化している状態などを示した。
登山家、科学者、山岳関連団体が一堂に会した総会では、今までのように難しいルートを登ることではなく、これからはどのように山と向き合うかがメインテーマであった。登山における将来像として、気候変動(温暖化に代表される)、フリーアクセス(どの地域に行っても山岳情報などを得ることができる)そして山岳環境における利便性と自然保護のバランスなどが討議された。ネパール、チリなどは生活の糧として観光に力を入れているが自然のままを残したソフトツーリズムの考え方も大切である。要は山岳団体としての責任はどこにあるのか、自然保護と登山活動とが密接に関連している。ヒマラヤで登山者とシェルパとの乱闘があった事について議論になったが、会議ではシュルパには敬意を払いましょうということで落ち着いたという。会議の最後に前スイス山岳会会長F.Muller氏は、人と自然を見ながら相手に対して敬意を抱き、責任をもつこと、自分自身の“エベレスト”を発見し楽しむこと、人は手つかずの自然を必要としていることを理解し自然を守るために行動すること、謙虚な気持ちで登山を楽しむことと纏め、スイス山岳会はコマーシャル登山とは手を組まないと強調して会議を終えたという。続いて、昨年パキスタンで行われたアジア山岳連盟UAAA総会にも氏は出席したのでその内容も簡単に報告した。国内でもその昔、雑誌「アルル」に自然を守りながら山に行くべきと言っていた人の紹介をして、講演最後のスライドを用いて「将来に何を残すのか、残さないのか、一人一人が考えなくてはいけない。実践しなくてはならない責任とは何でしょうか」と締め括った。国際派の小野寺氏の話は、海外での登山界の動向に 氏の造詣の深さを示す内容であった。講演終了後に、いつもの場所で演者を囲み懇親を深めた。尚、UIAA総会は世界各国から約100人が集まりドイツ語がメインで話されたが、英語の通訳があったので比較的分かり易かったという。
出席者
小野寺斉、中村純二・あや夫妻、西谷隆亘・可江夫妻、鬼村邦治、原山恵津子、宇田俊二、宮川清彦、三渡忠臣、津田保次郎、金子浩、副島一義、小清水敏昌
(計14名)


■第37回サテライト・サロン町田報告
――新年会及び傘寿祝賀会「箱根外輪山.芦ノ湖西岸ハイク」――
石原、北野両氏に原の3名の傘寿の祝いを兼ねた箱根新年会は、総勢21名という大所帯となった。乙女峠バス停に降り立つと今にも雪が降りそうな雲行きなっていた。小雪の舞う乙女峠に展望はなく絶景の富士山は望めなかった。
トレイルの所々に雪が3pほど残っていて無風、温度計は5℃を示していた。
早めのランチをとり、金時山を背に緩やかな登りで丸岳を目指す。山頂では、南に芦ノ湖、東に大涌谷の噴煙が望めた。南面のみちは、残雪も消えていて、のんびり歩くには丁度良い。長尾峠から箱根カントリークラブ方面に下山、湖尻水門を経由して桃源台からロープウェイで1駅、姥子温泉の宿に到着。
夜は、飲み放題の傘寿を祝う盛大な宴でありました。穂高岳の手拭いに21名が寄せ書きをした。
(以上 原 記)
*Aグル―プ報告(原 満紀)  8名
 今日は快晴だ。早朝の野天風呂からも富士の勇姿が眺められた。
9時20分、タクシー2台で湖尻水門まで行き、芦ノ湖西岸散策路に入る。箱根町まで、約10qの行程のようだ。10時、深良水門では、保安要員が水門入口の倒木や藻を熊手で取り払っていた。毎日3回ほど清掃しているとのこと。道中、伐採された木の切り株の年輪の話や苔の話をしながら、13時20分白浜に到着。ここで、コンパスの使用方法の講習会開催。箱根町バス停で富士山に再会。尾根歩きのパーティーを気使いながら、14時15分、箱根湯本駅行きのバスに乗る。ご苦労様でした。
*Bグループ報告(本間正士) 12名
1月6日は昨日とは打って変わって快晴で、姥子の宿舎の野天風呂の目隠しが四角に空けてあり、額縁の絵のような笠雲の富士山が見えた。無風の静かな日和。富士と湖面を眺めながら朝食をとった後、芦ノ湖西岸ハイクコースと芦ノ湖外輪山三国山コースの2つのグループに分かれて出発した。1名ここで帰宅。外輪山周回組の12名は9時少し前に宿舎から3台のタクシーに分乗、湖尻峠まで送ってもらった。9時30分各自ストレッチで準備運動をした後、先頭 森さん、最後尾 植木さんで前後を両女性に守られて芦ノ湖スカイラインから尾根道に入る。山道は自動車専用道路に沿っているが車の数が少ないためか騒音が気にならなかった。
快適な道を歩き出す。日陰には昨年末に降った雪と昨夜ぱらついた白い雪が凍り付いていた。溶けていたら泥んこ道になるところだが歩きやすかった。湖畔の景色も開け鏡のように静かな水面を海賊船が行き来していた。
無風状態の静かな景色であったが、女性陣が話を盛り上げ賑やかだった。
富士山にかかる雲は、当初笠雲だったが、きれいに晴れたと思ったら、ちょっと頭を隠したりと変化に富んでいた。富士の展望は、樹の葉が落ちたこの時期でないと山道からは見えない。紅葉の時期も良さそうであるが富士山を展望できて幸運だった。ブナの大木が印象的だった山道の残雪を踏みしめ、ゆったりした登坂を詰め、10:30広い原っぱの三国山山頂(1101.8m)に到着。山伏峠11:50、ちょっと下ってドライブインの裏側に出る。ちょうどお昼時間だったので草わらに思い思いに座って昼食をとる。道路沿いの高台にはパノラマ絶景の案内があり、登ってみた。南斜面だったので霜が解け泥んこの道、滑らないように歩くのには難儀した。何も邪魔されない富士山と光り輝く相模灘の写真を撮って急いで元のところに駆け下り箱根に急ぐ。広く刈られた防火帯のなだらかな下りは快適で、振り返れば道の先に富士山がきれいに見送ってくれていた。海ノ平から箱根峠を越えて湖畔までが登り返しがあったりで長く感じた。駅伝のゴールの前を通ってバスターミナルに14:50到着。19,400歩あまりの予想より長い歩きだった。間もなく15:00の始発のバスで一時間余り、小田原駅前で解散となった。これ以上望めない好天に恵まれ、全員元気で歩きとおすことが出来て満足の山歩きだった。
参加者
荒木正弘、上田昌子、宇野良夫、片野スミ子、北野忠彦、原満紀、皆川靱一、仲川侑子、石原康生、植木信久、植木淑美、小宮真理、笹本忠、高砂寿一、高芝一民、本間正士、丸山さかえ、森静子、平井康司、平井安乃、藪田益資 21名


インフォメーション
第27回サテライト・サロン吉祥寺報告
第44回サテライト・サロン町田報告
第26回サテライト・サロン吉祥寺報告
第21回サテライト・サロン立川報告
第43回サテライト・サロン町田報告
第9回サテライト・サロン八王子日野報告
第20回サテライト・サロン立川報告
第19回サテライト・サロン立川報告
第42回サテライト・サロン町田報告
第18回サテライト・サロン立川報告
第25回サテライト・サロン花小金井・吉祥寺報告
第24回サテライト・サロン花小金井・吉祥寺報告
第41回サテライト・サロン町田報告
第40回サテライト・サロン町田報告
第38回サテライト・サロン町田報告
サテライト・サロン花小金井・吉祥寺合同報告
第37回サテライト・サロン町田報告

アカヤシオ
多摩の花 アカヤシオ

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