サテライト・サロン活動

■第36回サテライト・サロン町田報告
―関東ふれあいのみち「峰の薬師への道」―  12月25日午前11時、京王・高尾山口駅に全員集合。土日は大勢のハイカーで賑う駅前広場も今日は閑散、ザック姿の団体は我々だけでした。今回は忘年会で締め括ることで遅い出発となり、逆コースで歩きます。11:15高尾自然科学博物館に立ち寄る。高尾山周辺の自然に関する資料を収集し整理展示され、なかなか見応えがあります。甲州街道を20分程歩くと峰の薬師北参道口(石柱)に着、ここからは街道を離れて梅ノ木平の集落へと入ります。ポカポカ陽気で風もなく真冬とは思えぬ暖かさ、小川沿いの畑道、丁度12:00昼時だ。皆で土手の日溜りに腰を据え、のんびりと弁当を広げます。子供の頃の遠足気分。のどかなランチタイムを堪能し、12;35集落を通り過ぎて林道に入ります。竹林が美しい“うかい竹亭”を過ぎると緩やかな林道が続きます。13:10高尾グリーンセンター(林業施設)に立ち寄り、これより南高尾風景林と呼ばれる国有林の林道をひたすら峠を目指して登ります。樹林に遮られ日差しが無く寒い。13:55三沢峠着。南高尾山稜の主要な峠の一つで小広く良く整備されています。ほっと一息、35分休憩。ベンチで、来年、傘寿を迎えられる会員3名を祝して、皆で寄せ書きをする。年明けの新年会で贈ります。少し冷えてきた、急いで歩き出す。14:45峰の薬師(大覚山東慶寺)着。明応元年(1492)創建と伝えられ、病を治す薬師さまとして厚く信仰されてきました。梵鐘の音がとても素敵でした。15:00薬師を後に下ります。15:40城山高校前バス停。16:10橋本駅着。17:00より矢部「築地 天辰」で忘年会。美味しい料理に美味い酒、一年を振り返り歓談に興じました。(15名)
参加されたスケッチクラブの小松忍さんに冬枯れの風景林スケッチ画を描いていただきました。ありがとうございます。(高芝一民/記)
参加者
荒木正弘、石原康生、宇野良夫、飯島文夫、植木信久、植木淑美、片野スミ子、北野忠彦、小松忍、小宮真理、笹本忠、高橋善数、高砂寿一、高芝一民、本間正士、藪田益資 計16名


■第34回サテライト・サロン町田報告
・平成25年11月27日(水)
・関東ふれあいの道(神奈川J)〜順礼峠のみち〜
・コース
集合/小田急線伊勢原駅9時/9:15(バス)日向薬師バス停9:35日向薬師堂10:10順礼峠11:55/12:35(昼食)物見峠13:30/13:40むじな坂峠13:45/13:55白山14:10/14:20長谷寺(飯山観音)14:40/14:45飯山観音前15:00/15:16(バス)本厚木駅15:50
 表参道の長い石段を登り、身の丈3.5米程と云う偉大な阿形・吽形の仁王像に迎えられ、ふた抱え余りありそうな杉木立の参道を辿って、日本三大薬師のひとつ日向薬師堂へ。「霊亀2年(716)行基によって開山された。大山の東側に位置し日の光を遮るものがないので日向薬師と呼ばれている。本堂は朱塗りの単層藁葺きで、山寺らしい落着いた風情がある」との事だが、平成22年から28年にかけての「平成大改修」の工事中で残念ながら拝観できない。
 左手の宝殿の脇を通って、巨大なイチョウの見事な黄葉に感嘆しつつ、すぐ裏手の別名「薬師路・すすきの道」とも云う日向薬師林道を辿る、林道とは云えアスファルトの舗装道路。右谷側はひと抱え程の桜並木が続いている……が、何故かほとんど枯れて半ば朽果てている。生きていれば見事な花のトンネルだっただろうに。途中、コンクリート造りの立派な展望台が出来ている。
七沢温泉への分岐を過ぎ、県道?交差点に出る、地図では中沢集落から峰岸集落を経て順礼峠への登り口へとなっているが、車の往来の激しい街中では見当つかず、路傍の鮨屋を覗いて教えてもらう。
 登り口からやっと山道らしくなり20分程の登りで、坂東三十三ヶ所の五番、飯泉観音(小田原・勝福寺)から六番、飯山観音(厚木・長谷寺)への巡礼道の途中、七沢から上古沢の集落へ越えたと云われる順礼峠に着く。峠には道中安全を願って立てられたと云う巨体の地蔵尊が石の角柱の台座の上に祀られている。享保8年(1737)作の由。立派な解説板の周りに木と石のベンチが点在して居り、木漏れ日が暖かい。丁度正午なので昼食とする。  順礼峠からは尾根伝いにカエデ・ナラなど気持の良い、適宜な起伏のハイキングコース。鎖の付いた鉄柵の設けられた丸太階段の急登に一汗かいて登り着いた物見峠。峠と云うより小ピークでその眺望は遠く霞んで判然とはしないが、東京〜横浜〜湘南から近くは大山と高さの割に素晴らしい。すぐにむじな坂峠(貉ではなく、白山橋、長坂、花立峠、月待場、京塚、細入江の六つの地名、六つ名が訛ってムジナになった=石標に彫られた説明)
を経て、この山並みの最高峰、白山(284m)へ、ここにも鉄骨造りの展望台がある。
 白山から20分程で飯山観音(飯上山長谷寺)に下り着く。行基が神亀2年(725)に開基とされる観音堂は江戸時代に再建されたとも云われ、参道の両側に石灯籠の並ぶ均整のとれた格調高い見事なもので、厚木市の重要文化財に指定されている。
 折から境内の真っ赤に色づいたカエデの大木と同じ様に大きな山茶花の紅・白花とが折からの夕陽に映えて見事な景観をなしていた。
飯山観音は「神奈川の景勝50選」にも指定されている。
 朱塗りの庫裡橋を渡り、飯山観音前からバスで本厚木駅へ。駅前で全員反省会の杯を交わし、好天にも恵まれた快適な一日を祝した。
(文/石原康生)
参加者
石原康生、植木信久、植木淑美、片野スミ子、小宮真理、笹本忠、高砂寿一、平井康司、本間正士、丸山さかえ 10名


■第22回サテライト・サロン吉祥寺報告
・平成25年11月20日(水)
・演題「一筆書登山@」
・演者 岡 義雄 氏
一筆書登山とは、岡義雄氏が独自に名づけた表現ですが、「始点から終点まで、できるだけ高い山のピークを辿り、足跡(地図上の赤い線)を切れ目なく繋げる」という意味です。
「ぼくのほそ道俳句ing」終了(2012.05.)後、昨年から次なる登山目標として、一筆書登山を始めようと思った理由は;@ 昔から、下山すると歩いて来たルートを地図上に「赤い線」を引くのが、楽しみだった。そして次は「赤い線」の無い部分を優先的に目標にして歩こうと計画した。「赤い線」の「書初め」(登山の始まり)は、1952.8.(中3)林間学校で大菩薩嶺に登る。A 仕事で、目標管理が身に着いていた。B「トランス・ジャパンアルプスレース」等に刺激された。そして、具体的に「わが家から親不知海岸まで」のコースを選んだ理由は;@「ぼくのほそ道俳句ing」の途中、親不知海岸(2011.10.)で「アルプスと 日本海をつなぐ栂海新道登山口」の道標を見つけ、このコースを歩いた仲間から薦められ無性にここを歩きたくたくなった。A本部集会委員会のウエストン祭(2012.06.)島々宿ー徳本峠ー明神に参加したら、自宅(小平市花小金井)から親不知海岸まで、「赤い線」の繋がっていない部分が2割程度であった。
本コースでの一番古い登山(1953.08.)以来達成(2013.09.)まで丁度60年の間のこのコースに関連のある主な登山記録;@家族(兄弟)と登った山:松原湖ー白駒の池ー高見石(1953.08.高1) 御岳ー大岳(1958.03.大1)など。A大学時代の仲間と登った山:焼岳ー槍見ー双六ー黒部五郎ー薬師ー立山ー剣ー阿曽原縦走(1959.07-08.) 信州峠ー金峰ー甲武信ー雲取縦走(1960.05.) 涸沢ベースに前穂の岩登り(1960.09.) 横尾本谷ベースに北穂・槍の岩登り(1962.08.)など。B会社の仲間と登った山:黒部渓谷S字・十字峡(1965:08.)CJACメンバーと登った山:島々宿ー徳本峠ー明神(2012.06. ウエストン祭登山に参加) 白馬ー朝日ー犬ヶ岳ー親不知海岸(2012.09. 最終目的地)鴨沢ー三頭山(2012.11. 分境嶺踏査登山L)奥多摩三山一日踏破(2013.05.)唐松ー(不帰)ー白馬鑓(2013.08.)など。D単独行登山:白馬(1996.09.) 街道歩き(わが家ー青梅、信濃川上ー松原湖、など)北横岳ー蓼科ー車山ー美ヶ原ー松本(2013.09. 松本駅で完結)など。
スクリーンに、家族との楽しい白黒の写真から、学生時代の岩登りで岸壁に取り付いている若々しい姿、仲間との昔の装備での記念写真、カラーでの姿、そして親不知海岸での満足した顔、等等、見ている我々も楽しくなる、画像でした。
尚、次の太平洋までの「一筆書登山A」は、2014.10.を目標に赤い線のない空白部分を歩いています。
(文責、岡 義雄、副島 一義)
参加者
岡義雄、原山恵美子、平井康司、西谷隆亘、西谷可江、笠原功、竹次優子、富澤克禮、金子浩、山口峯生、田中清介、西村智満子、時田昌幸、吉田啓、小清水敏昌、副島一義  16名


■第36回サテライト・サロン町田開催案内
関東ふれあいの道〜峠の薬師への道〜
峰の薬師の歴史にふれ、津久井湖や丹沢山地の展望を楽しみながら三沢峠から南高尾風景林と名付けられた美林の中を梅ノ木平へと下ります。このコースが、高尾山麓にある「梅ノ木平」を起終点とする 「関東ふれあいの道」全長1667kmの最終部分となります。今回は、都合により逆コースで歩きます。
・日時: 2103年 12月25日(水) (雨天中止)
・集合: 京王・高尾山口駅 改札口前 午前11時 
   ※当初、橋本駅を予定していましたがコース変更により変りました。
・行程: (8.2km  所要時間約4時間30分 寄り道、見学、休憩時間を含む)
  高尾山口駅(甲州街道)〜高尾自然科学博物館〜峰の薬師北参道口(梅ノ木平)
  〜うかい竹亭〜福祉ホーム〜高尾グリーンセンター(南高尾風景林)〜あずまや
  〜三沢峠「関東ふれあいの道標識」〜電波塔〜峰の薬師〜三島神社〜
  城山高校前バス停20分→JR&京王橋本駅(解散)
・持ち物:日帰りハイキングセット、弁当各自、 その他美味しいもの
・会費: コピー代、連絡費等 200円 
・申込: 芝 一民 12月18日(水)締め切り
      042−722−9103 (Fax 兼)   E-mail: takasiba@onyx.dti.ne.jp


■第17回サテライト・サロン立川報告
・開催日 11月6日
「琉球列島の山・特異な生物相と保護〜西表島の現状を中心として〜」をテーマにイリオモテヤマネコの専門家である安間繁樹会員の話を聞いた。
1965年、大学3年の時にイリオモテヤマネコが発見された。そのニュースを聞いて、こんな自然がまだ日本にあるのかと驚いた。その年の夏休みに西表島に行き、すっかり自然に魅せられてしまった。それ以来、西表島に関わり、イリオモテヤマネコの研究で最初に博士号を貰った。
自己紹介に続いて、1500万年〜1000万年前の地図を開きながら、説明に入った。その頃の琉球列島は大陸や九州と地続きであった。東シナ海は大きな湖であり、ボルネオ島くらいまで繋がっていた。500万年〜150万年前になると、1000m以上の海水面が上昇し、また地殻変動があって琉球列島は島として独立していく。琉球列島とトカラ列島の間に海峡ができ、その海峡を越えてこられる生物がなかったことにより日本と琉球列島との生物相の違いがおこった。琉球列島の動物はインドネシアなどの南方系の動物に近い生物相となっている。
西表島が一番寒い1月の気温は平均17度、夏は28度前後である。亜熱帯降雨林(照葉樹林)帯で、シイやカシの森に覆われた島である。一番高い山は470mで、複雑な地形の島である。 とくに危険なところはないが、谷が綺麗である。稜線はツルアカネが絡み合って歩けない。
旅行シーズンは3月〜9月初めの頃で、花の一番綺麗な時期である。4月インシュという椿の仲間が、6月から8月にはカワリバナが咲く。3月末には南方系の鳥が一斉に渡ってくる。アカショウビンは毎日見ることができる。真水と海水が混ざるところに、本州・九州では見られないマングローブの林がある。
西表島の産業としては果樹栽培がある。ドリアンなどが育てられている。肉牛の育成も盛んである。海岸線が80キロあるが、牧場が広がり、以前は飲めていた清水が飲めなくなってしまった。
西表島は294平方キロメートルで、人口は2000人ほど。その内先祖代々続いている人達は50人にも満たない。1200人位は戦後移住してきた人達の子孫で、残りの6〜700人は沖縄本土復帰後に入ってきた人達である。
イリオモテヤマネコは幻の動物と思われているが、2〜3日滞在すれば7割くらいの確率で見ることができる。
イリオモテヤマネコがいる関係で、西表島では自然保護活動がやりやすい面はあるが、開拓の人達の反対運動でヤマネコが殺されるという大変な時代があった。今でもイリオモテヤマネコが交通事故で死ぬことがよく起こっているが、新聞にも出ないのでほとんど知られていない。イリオモテヤマネコは夜ゆっくり道路を歩くため、車にひかれることがよくある。
また、イリオモテヤマネコの敵は野良猫である。今は、西表島でネコを飼う場合は届け出制となっているが、野良猫退治が急務であるし、その啓蒙活動が大事である。
環境省の担当者が島に入っている。環境省の職員が一人、非常勤のレンジャー二人がいるが、担当者の異動がよくあり、なかなか島の人達とのコミュニケーションが難しいようだ。
イリオモテヤマネコは現在80〜100頭いるといわれている。(環境省調べ)
行動範囲は一頭当り1平方キロメートルくらいだが、かなり重なっているようだ。生息範囲は人里と近いところに分布している。島を一周する道路に近いところにいる関係で、交通事故にあう確率も高いようだ。
安間氏の話では、西表島の環境では150匹ほどしか住めない。哺乳類は100頭以下に減ると絶滅するといわれているが、西表島ではそういうマイナス因子がはじき出されており、自力で生きていけるのではないかと考えている。もちろん、交通事故対策はしなくてはならないがと付け加えられた。
質問タイムになると、ハブの話題に集中した。安間氏の話ではそんなに怖がる必要はないとのこと。西表島にはサキシマハブがいるが、小型でおとなしいタイプだそうだ。
特別天然記念物のイリオモテヤマネコの保護は全島を上げて行われているのだと想像していたが、今でも開拓時代にイリオモテヤマネコを排除したお年寄りグループがおり、ふざけ半分に交通事故でひき殺す若者がいるという現実に驚かされた。やはり、地道な啓蒙活動が必要なのだと痛感させられた。
参加者
安間繁樹、大船武彦、北口マリ子、下野武志、宮崎はるみ、西谷隆亘、西谷可江、江村美津子、富澤克禮、沢登均、本多祐造、岡田陽子、山本憲一  計13名
(記録/山本憲一)


■第7回サテライト・サロン八王子・日野報告
・開催日:2013年11月1日
・会 場: 日野市/七生公会堂
・講 師:城所邦夫 氏(会員番号8210)
・演 題:「初の富士山越冬気象観測に挑んだ野中夫妻の顛末について」
野中夫妻は、明治の中頃、天気予報における冬期の高層気象観測の重要性を世に訴え、また個人でそれを実行に移した。このような野中夫妻について、かって気象庁に勤務され、また日本山岳文化学会の登山史分科会で野中夫妻の活動について調査を行い、情報の整理をされた城所さんが、いろいろな思いを込めて話をされた。 野中夫妻については、新田次郎の小説「芙蓉の人」のモデルとなったので関心をもたれた会員も多いと思われる。当日には13名の方が集まった。
野中至は1867年(慶応3年)に現在の福岡県に生まれた。生家は黒田藩に仕えた武士の家系であった。また、野中千代子は1871年(明治4年)福岡県の能楽師の能楽師の娘として生まれた。二人は1892年に結婚、三男二女に恵まれた。なお、至は1955年(昭和30年)、88歳で没し、千代子は1923年(大正12年)、52歳の若さで没した。 欧米の留学を通じて、高層気象観測の必要性を強く感じた野中至は、富士山に観測所を設けて、年間を通して観測を続けることが天気予報の確度を上げるために効果的であることを国に訴えるも、その実現に際して予想される危険と困難から実行に移されることはなかった。 このような状況の下で、至は自費で、外国にある観測所を参考にしながら、富士山頂に観測所を建てることを決心する。 1895年(明治28年)計画は実行された。数回の下調べの後、8月12日に建設が始まり、27日に落成。薪炭室2坪、器械室2坪、他室2坪という小さな観測所であった。 9月に中央気象台から貸与された観測器機を荷揚げし、10月1日より隔時観測(2時間ごとの観測)を一人で開始する。 しかしながら、隔時観測のため時間の余裕もなく、荷物の整理や炊事の時間もとれず、缶詰でしのぐという状況であった。 10月12日、千代子が越冬覚悟で観測所に到着。至は当初猛反対をするも、千代子の提案を受け入れ、共に観測生活に入る。だが、、電池や風力計の破損、千代子の浮腫という困難にみまわれ、その上、至も浮腫になってしまった。 12月12日に地元の山麓の有志や弟・清が山頂に訪れ、この惨状を見る。訪れた彼らに対し、至は、皆には「山頂では元気でいる」と伝えて欲しいと頼む。 12月20日、気象台の技師、御殿場警察署長、3名の強力で観測所を訪れたが、凍り付いた小屋の中に入れず、途中の小屋まで引き返す。翌21日の再挑戦にて至と千代子に会うことが出来た。その時の至の状況は這うこともできないほどであった。至は「官命」であるとの説得で下山を決意、八合目の小屋に着いたときには瀕死の重体であった。 翌年、至は再度冬期観測の準備にかかるも、諸般の事情により断念する。
城所さんのまとめは、つぎのようなものであった。
1895年といえば、ようやく志賀重昂の「日本風景論」が出て、登山の気風が興りかけたばかりのころであり、「冬山登山」という概念など、まだ一般にはなかった時代である。それは、我が国における近代登山の幕開けとされる小島烏水と岡野金次郎による夏の槍ヶ岳登頂に先立つ8年前のことである。野中至こそ日本に於ける冬期登山の先駆者の一人と言えるであろう。 野中千代子は、当初、至の観測業務の裏方であったが、途中から主役になったようにみえる。・・・準備の周到さ、観測に於ける技量、苦難の中で発揮された明治の女性の強さという点からも、この観測事業の主役は千代子のように感じられる。
城所さんのこの講演を聴いて、私は、「人は自分のためよりも、他人や大儀のために大きな力を発揮することがある」という言葉が真実であると感じた。
懇親会は高幡不動駅近くの居酒屋で行われ、7名の方が参加された。
・参加者:竹中 彰、河野悠二、西谷隆亘、中村小一郎、水谷弘治、北野忠行、岡 義雄、吉田文子、広川清治、澤登 均、飯島文夫、城所邦夫、野崎裕美  以上13名
(文/野崎裕美)


■第33回サテライト・サロン町田報告
・日程 9月25日(水)
・会場 まちだ中央公民館
・「車座会」打合せ会
1. 関東ふれあいのみち「佐島・大楠山」報告:森静子
2. 関東ふれあいのみち「巡礼峠」詳細説明:石原康生
3. 荻野西山三山 詳細説明:平井康司(代理 植木淑美)
4. 関東ふれあいのみち「峰の薬師」予告:高芝一民
5. 富士箱根トレイル番外編「新年会」予告:荒木正弘
サロンでの約束事の確認や今後の活動計画について話し合った。
24年9月から歩き始めた「関東ふれあいのみち」野外集会は25年9月までに10回開催し、残り3回となった。26年3月の「荒崎・潮騒のみち」でフィナーレとなる。「富士箱根トレイル」は、26年も継続する。新たに「信越トレイル」をスタートさせる。
室内での「車座会」の新担当者も決まったので、ユニークな運営に期待したい。次年度への計画に心躍らせて、全員で二次会会場に移動した。 (植木淑美 記)
参加者
森静子、笹本忠、本間正士、高砂寿一、宇野良夫、原満紀、石原康生、高芝一民、荒木正弘、小宮真理、片野スミ子、植木信久、植木淑美


■第21回サテライト・サロン吉祥寺報告
・日時 2013年9月25日
・演題 私のボランティア
・演者 大橋基光
 私の慶応山岳部時代は、戦後の食料がない、衣類がない、まして山道具など殆どない不遇の時代だった。社会人となってからは、細々と山登りを続けていたが、時を経て会社をリタイアするに当たり、好きな登山とそれに関連するボランティアをやろうと思った。ボランティアについては、アメリカや西欧では自分の持つ時間や収入の5〜10%をこれに使い、社会に還元せよといわれていると知った。
そこで始めたのが視覚障碍者との山登りと植林作業である。
先ず視覚障碍者と山へ登る六つ星山の会へ入った。この会は障碍者100人、健常者200人で成り立っており、山へ行くときは障碍者1人に健常者が前後に2人つく。前者はリュックにサポート紐なるものをつけ、障碍者はこれに左手でつかまり、右手に杖を持つ。杖は前方の障害物や高低差を計る大事な役目を持つ。後者は片側が崖のときは障碍者が踏み外さないよう指示したり、或は簡易ロープで障碍者を確保したりするし、岩場などでは足の位置などを指示する。山に慣れた障碍者は前のサポート者を殆ど押したり引いたりしないが、初心者はそうはいかない。サポート者も相当疲れるときもある。目の見えない人が山へ登って何が楽しいのかとよく聞かれるが、彼らは頂上で下から吹き上げる風を敏感に感じ取ってそれに喜びを見出しているのだ。
次に植林の話であるが、日本山岳会の下部組織である「高尾の森づくりの会」へ入って活動している。この会は景信山の下約180haを活動エリアとし、今まで植えられていた杉、檜等の針葉樹の隙間に広葉樹を植え、針広混交林を作って行く、所謂風景林の創生を目標に作業している。1〜3月地拵えという植樹地の整備、4月植樹祭、5月以降植樹苗の手直し、草刈り、蔓切り、間伐等年間スケジュールで作業している。植樹祭に来て苗を植えるのは簡単だが、そこに至る準備が何倍も大変ということだ。
なおこの会でラオス植林プロジェクト、三宅島緑化再生プロジェクト、粟島竹林整備プロジェクト、気仙沼大島復興プロジェクト等も行っている。 最後に蛇足であるが、60歳からの山登りではモンブランを皮切りに、モンテローザ、ユングフラウ等のアルプス、カナダではアシニボイン、アサバスカ、ビクトリア等、ヒマラヤトレッキングではカラパタール、アンナプルナBC、エベレストチベット側BC、カンチェンジュンガ等、その他変わったところでは天山山脈のカルリータオ、アラスカのマーカスベーカー等に登っている。国内の山もいろいろ行っているが、割愛する。
参加者
大橋基光、小清水敏昌、山口峯生、原山恵津子、長谷川公子、大倉昌美身、吉田敬、川口和男、副島一義  9名


■第32回サテライト・サロン町田報告
――関東ふれあいの道/佐島・大楠山のみち――
・日程/9月18日(水)
・コース/JR横須賀線衣笠駅集合9:30 衣笠山公園10:30 衣笠城址・大善寺11:40 大楠山頂上13:30 前田橋バス停16:05 逗子駅16:40 解散
 台風一過の快晴に恵まれ、初参加者の紹介後衣笠駅を出発。住宅の間をくねくねと前進し、山道を歩かない内に衣笠山公園展望台に到着する。トイレが完備されていて誰かが「ワンコインパーティの最適場所だ」と話していた。
少し先の展望塔には「馬鹿と煙は高い所が好きなんです」とばかりに10名が登りました。テラスの案内板にニュヨーク、北京と世界の主要都市の名前迄刻まれていました。こんな案内板ははじめて。興味のある方は一度足を運んで見てください。小休止の後、衣笠城址に到着しすぐ下にある大善寺に移動する。大聖殿には「木造阿弥陀三尊像」がまつられていて、横須賀市指定重要文化財になっているとか。境内では衣笠観光協会の方々が休憩中で、「今日は登山道の整備をしています」とのこと。次の場所への移動中、草刈り機や鎌を持った人達が寺の休憩所に戻ってこられるのを見かけました。衣笠観光協会の皆様、本当にありがとうございました!
 横浜横須賀道路をまたぐ橋を渡り、ゴミ焼却場の舗装路の横につくられたハイキングコースを歩く。二本の送電線の下を潜って大楠山の稜線に辿り着く。
昼になったが、のんびりした歩きで予定地の山頂へはまだ小一時間もある。広場らしき場所で腹ごしらえをすることになりました。弁当を半分食べて、残りを大楠山で食べましょうとの事でしたが、殆どの人が残さずに食べてしまった様でした。阿部倉方面からのトレイルが右から合流し、その先で ゴルフ場を右に見ながら、歩き難い登山道を柵の柱を避けながら登って行く。最後には235段の階段が。左に迂回して山頂に行くエスケープルートがあるが、全員が最後の階段登りで汗をかきました。  日当たりの良すぎる山頂を避けてコスモス畑の傍らで、残りの昼食タイムを取る。どちらを向いてもにっこりと笑顔が返ってくる。これぞ至福の時間なり。食事後は一路下界を目指しピーチク、パーチク言いながら山を下りる。最後は前田川の遊歩道を通り、前田橋のバス停に無事下山した。(文/原満紀)
参加者
荒木正弘、笹本忠、森静子、原満紀、薮田益資、小宮真理、植木淑美、植木信久、丸山さかえ、片野スミ子、辻橋明子、桐山裕子  以上12名 


■第7回サテライト・サロン八王子日野案内
・日時 2013年11月1日(金)18:00〜
・場所 日野市 七生公会堂
     日野市三沢3丁目50−1 電話:042−593−2911
・会費 200円(通信費、資料代に充当いたします)
・演題 「初の富士山越冬気象観測に挑んだ野中夫妻の顛末について」
     新田次郎の小説「芙蓉の人」のモデルとなった野中夫妻について、かって、
     気象庁に勤務されていた城所邦夫さん(会員番号8210)にその実像を語って
     いただきます。
・担当  八王子 城所邦夫 042-622-9121  野崎裕美 042-650-7261
      日野 澤登 均  042-591-8935 飯島文夫 090-3537-8759
・その他 講演会終了後、懇親会を「華の舞」で行う予定です。
      ご出席される方は、当日、直接会場にお越しください。
      出席のご連絡は不要です。


■第17回サテライト・サロン立川案内
今回は、若い頃から琉球列島に関心を持ち、特にイリオモテヤマネコの生態研究を最初に手掛け、成果を上げられた安間繁樹氏のお話をお聞きします。
・日時  11月6日(水)午後6時30分から
・会場  立川女性総合センター5階第2学習室
・演題  「琉球列島の山・特異な生物相と保護〜西表島の現状を中心として〜」
・演者  安間繁樹氏 (日本山岳会会員)
・安間繁樹氏プロフィール
 1944年  中国内蒙古に生まれる。
 1963年  清水東高等学校(静岡県)卒業。
 1967年  早稲田大学法学部卒業。法学士。
 1970年  早稲田大学教育学部理学科(生物専修)卒業。理学士。
 1979年  東京大学大学院農学系研究科博士課程修了。
        農学博士。哺乳動物生態学専攻。
        世界自然保護連合種保存委員会(IUCN・SSC)ネコ専門家グループ委員。
        熱帯野鼠対策委員会常任委員。公益法人平岡環境科学研究所評議員。
 2013年  日本山岳会自然保護委員会委員
 2004年   市川市民文化ユネスコ賞受賞。
        琉球列島に関心を持ち、特にイリオモテヤマネコの生態研究を最初に
        手がけ、成果をあげた。1985年、40歳からは国際協力機構(JICA)の
        海外派遣専門家として、ボルネオ島の動物調査および若手研究者の
        育成に携わって来た。西表島とボルネオ島の自然と人々の営みを、
        あるがままに記録し続けることをライフワークとしている。
・主な著書
『ネイチャーツアー西表島』、『琉球列島』、『キナバル山』東海大学出版会。
『アニマル・ウォッチング』、『ボルネオ島最奥地をゆく』、『西表島自然誌』、晶文社。
『ボルネオ島アニマル・ウォッチングガイド』文一総合出版。他。
2010年よりネット連載中「熱帯雨林のどうぶつたち」『どうぶつのくに.net』


■第34回サテライト・サロン町田案内
関東ふれあいの道  順礼峠のみち(神奈川J)から飯山観音へ
日本三大薬師のひとつ日向薬師に詣でた後、別名「薬師路・ススキの道」とも云う日向薬師林道を辿って、坂東三十三ヶ所巡礼の五番飯泉観音(小田原・勝福寺)から六番飯山観音(厚木・長谷寺)への巡礼道の途中、七沢から上古沢へ越えたといわれる順礼峠を訪ねます。最後は「関東ふれあいの道」からは一寸外れますが、この山並みの最高峰白山(283.9m)と名刹飯山観音を経て、飯山温泉へ下ります。
・日時  2013年11月27日(水)、雨天の時は28日(木)
・集合  小田急線 伊勢原駅北口 9時
      (バス)9時15分発 日向薬師行き B乗場
・行程  伊勢原駅=(バス)=日向薬師―七沢温泉―中沢・峰岸集落―順礼峠―むじな坂峠―白山・御門橋分岐―白山―飯山観音―飯山温泉入口バス停=(バス)=本厚木駅  (歩程 約10km)
・地図  1/2.5万 厚木
・持物  日帰りハイキングセット、昼食、飲み物
・申込  石原 康生 042−722−1412   締切 11月20日
           090−1795−1908
           E-Mail: y_ishihara34@yahoo.co.jp
・担当  石原 康生  本間 正士(090−4390−1032)


■第30回サテライト・サロン町田報告
2013年6月26日(水)町田市民センターでの車座会
 朝から雨の中、17人が出席する。新しく理事になられた大槻氏を拍手で祝福し、大槻氏からご挨拶をいただいた後、支部長の竹中さんから全国支部長会議の話題等を聞かせてもらい、「すぐに役立つ応急処置講習会」と「会員の皆さんの近況報告会」に移る。
 第1部「すぐに役立つ応急処置講習会」は最近行われた山岳会本部の集会委員会主催の登山リーダーのための救急救助実技講習会に参加した内容を基に、植木淑美、森静子が説明。救急救助の基本について、まず事故現場では「自分の身の安全は自分で守る」が基本である。出来ないと判断したらすぐ、他の救助を頼むことが大切であることが強調される。怪我をしたときには、感染予防のため傷口には直接手で触らないよう薄手ポリ手袋使用。 傷口はペットボトルの水を圧力をかけてきれいに洗い流す。外傷の治し方も以前の乾かして治す方法から湿潤を保つ方法に変ってきている。傷口が大きければ体重をかけて止血するが、圧迫しすぎないように指先の爪を圧迫して血流チェックをすること。三角巾の折り方、三角巾による捻挫包帯の仕方の説明。そして、今一番起こりやすい熱中症について説明が進む。水に砂糖と塩を溶かした経口補水液を配布、各自試飲してもらうと、意外と甘いねという感想が聞かれる。熱中症は湿度の高い6月がもっとも危険であり、予防が第一であり、自分で水が飲めない状態はもう危険な状態だと判断して、すぐに救急要請をしなくてはならない。また低体温症になったときの対応について、思わず手足をマッサージして温めようと思うが、マッサージすることによって手足の冷たい血液を体の中心に送ることになるので禁止と聞いて、意外に思うと同時にしっかり納得する。行動中に充分な水分と食料を摂ることがポイントとのこと。あってはならない事故だが、山でできることは限られているので、とりあえずできる最善の処置の方法をみんなが知っておくことはとても大切であることを再認識する。
 第2部「会員の皆さんの近況報告会」では、最初に集会委員会主催(植木淑美さんリーダー)の1月21日から31日までの「ニュージーランド・サザンアルプス/ホックステッダードーム&マウントオリビエ」登山の様子を映像で見せてもらう。氷河や山の映像にはため息が出るばかりだが、マウントクックリリーやロッジの映像、参加者の幸せそうな笑顔には思わず同感してしまう。この後会員が順番に、袈裟丸迦葉山山行、五郎山・男山山行の映像、高尾山で行われた山の日制定の集会の話、山研委員会主催の新入会員向けオリエンテーション山行の話やペルーのマチュピチュ、大和三山の山名の由来の話、九州 平治岳の話、高尾の森活動、登山教室同行の話など近況報告で盛り上がったところで閉会となる。その後定例の親睦会へ移行し、山行の楽しみと無事故を祈って乾杯。(文/森静子)
参加者:
竹中 彰、大槻利行、石津谷悦朗、高砂寿一、高芝一民、高橋善護、荒木正弘、植木信久、植木淑美、宇野良夫、蒲田正彦、片野スミ子、小宮真理、笹本 忠、原 満紀、丸山さかえ、森 静子
以上 17名


■第29回サテライト・サロン町田報告
富士箱根トレイル湯船山
 6月16日に予定していた富士箱根トレイルは、サンショウバラを愛でに湯船山、不老山を歩く予定でしたが、雨の予報のため延期いたしました。20名の申し込み者に来年6月7日(土)にリベンジのお約束をして、お詫びいたしました。再見。
                     報告:植木淑美


■第20回サテライト・サロン吉祥寺報告
・日時  平成25年5月22日(水)18:30〜
・場所  吉祥寺本町コミュニティセンター  3階 会議室
--演題「自然と歴史の宝庫:魅惑のカラコルムを歩いてみませんか?」--
1:講演の発端と目的
 世話人小清水敏昌氏より「カラコルム山脈」で講演を依頼されましたが、平成22年11月24日(水)「ヒマラヤをあるいてみて」の講演結果から、広大な地域で膨大な内容(歴史、文化、人物、等)を短時間で発表することは、荷が重過ぎると辞退しました。
 再考を求められ、カラコルムへの強い想いを発言して、現地へ足を運んでくださる方が現れればと、受諾しました。
「私のカラコルムへの想い」
①パキスタンとカラコルムが大好き。山岳美、地政学の多様性、触れ合ったフンザやナガールの人の暖かく優しい人間性。
②カラコルムハイウエイで山旅が容易に実現、テント生活も可能、英語が普及。
③パキスタンは全土が危険と報道されていますが、フンザ、バルティスタンは政情は安定、不安無く山旅は快適!
④友人の前パキスタン山岳会長ナジール・サビール氏、数人のサーダーから、「北部パキスタンの安全」を正しく説明して、パキスタン・カラコルムの素晴らしさを宣伝して、登山客、観光客の来国を懇願された。
2:カラコルムの意味と範囲
カラコルムはカラコラムとも呼ばれ「黒い石」の意味です。
カラコルム山脈の形成は 4000年前から始まり 今まで続いています。
範囲は、東は、インダス川の上流ショーク川(Shyok River)、西は、バツラ氷河西端、インダス川の支流カランバール川、北は、ヤルカンド川の支流シャクスガム川、南は、チラース市近くのインダス川、までの範囲、
3:カラコルム山脈の山々と谷
・カラコルム山脈は 8000m峰は4座、7000m峰は60座を越し、6000m峰の数は不明
・氷河は 世界2位(Siachen;70.km)ほか 50km以上が4箇所
山域別に区分
①東部カラコルム:ショーク川源流のヌブラ川、シアチィエン氷河の山々。
   K12(7469.m)、他。
②中央カラコルム東部:フーシェ谷、バルトロ氷河とビアフォ氷河沿いの山々。
   ・フーシェ谷    K6(7281.m)、他。
   ・バルトロ     K2(8611.m)、GasherbrumT(8968m)、
              他。
   ・ビアフォ     LatokT(7151.m)、他。
③中央カラコルム西部:レッサーカラコルム及びヒスパー峠
           以西の西フンザ川までの山々。
   ・レッサーカラコルム  Rakaposhi(7788.m)、他。
   ・ヒスパーカラコルム  Disteghil(7885.m)、他。
   ・ゴジャール 及び シムシャル  MonhilSar(7343.m)、他。
④西部カラコルム:フンザ及びバツラ氷河沿いの山々。
   ・フンザ HunzaPeak(6270.m)、他。
   ・バツラ Batura(7794.m)、他。
4:カラコルム山脈への交通。
・日本からは、首都イスラマバード(ラウルピンディ)へ。
①北部地域の州都 ギルギット(飛行便あり)。
②旧フンザ王国の首都 カリマバード(飛行便無し)。
③バルティスタンの中心都市 スカルドォ(飛行便あり)。
・カラコルムハイウエイ(パキスタン中国友好道路;KKH)
イスラマバード北方100kmのHavelian〜ススト(出国)〜中国〜タシュクルガン(入国)〜カシュガル。
・幹線道路 ギルギット〜スカルドォ。
5:カラコルム山脈のトレッキングコース、その現状。
 「Trekking in the KARAKORAM & HINDKUSH」 lonely planet社に掲載されたコース。
 上記山域別に、4、5コースで行程2日〜15日間を紹介
・快適なシーズン  5月中旬〜10月末。フンザ地域では3〜4月、10月。
・予算 飛行機代金¥20万円、滞在費用1日1万円。
・トレッキング隊
1)編成  旅人2〜4人の場合;
       スッタフ;サーダー1名、コック1名、ハイポーター1名、キッチンボーイ1名、
2)行程  地域のポーター組合が難度、距離、を検討して歩行区間(ポロと言う)に基づき運営している。
3)幕営  給水でき安全な草地でテントを張る。
       個人用テント、スタッフ用テント、食堂用テント、キッチン用テント、トイレ用テント。
4)食事  食材は出発地で事前に調達。コックの腕前は相当なもの。
       アルコール類は宗教上、原則禁止。
6:今後の展望について。
アンナプルナW峰を2015年に、2014年度夏季には、吉祥寺サテライトに集まる多摩支部会員有志とアンナプルナW峰隊員予定者合同の登山隊及びトレッキング隊を編成し、カラコルムに出向き5000m〜6000mクラスの軽い登山トレッキングを組み合わせたプランを推進したら如何?とのメールを三渡忠臣氏より頂き、物事を実現させるには順番があり、それらをきちっと踏まえて目標に望みたいとの大きな命題を共有し、多摩支部の理解と精神的支援のもとおくりたい。(文責 副島一義)
参加者
宮川清彦(演者)、長澤登、西谷可江、西谷隆亘、渡邉正子、山口峯生、金子浩、川合周、原山恵美子、吉田敬、平井一男、樋口裕幸、下田俊幸、小清水俊昌(世話人)、副島一義(世話人) 計15名


■第28回サテライト・サロン町田報告
「関東ふれあいのみち」を歩く――鷹取山・里の道(神奈川⑧)――
・4月20日(土)
 4月20日朝9時、集合場所の小田急線秦野駅前にいつもの笑顔が弾けた。挨拶もそこそこにバスに乗り込み南平橋バス停車で降りた。金目川を渡って、なだらかな丘陵をのんびりと登り、前半のハイライトである鎌倉時代の豪族・土屋一族ゆかりの城址や遺構、名刹を目指してスタート。燃え立つ新緑の中で咲き競う八重の山桜、ツツジやフジなどに加え、乱舞するツバメや初鳴きのウグイスに心が浮き立つ。南平集落に入って15分も歩くと熊野神社。隣接の大乗院は新しい社殿を建築中だが、すべてが金ピカで「純金だよ!」と大笑い。丘陵を登り続けると、台地一帯のそこかしこに頼朝の鎌倉幕府樹立に貢献したという土屋三郎宗達ゆかりの「土屋ワールド」が広がる。ちっぽけな城址よりも目を引いたのが、畑へ下る崖に並ぶ大小の墓石群だ。朽ちかけている墓もあるが、どれも純朴で美しい。遺跡をあちこち見歩きながら、だれかがつぶやいた「これ、まさに寄り道する楽しさね!」。何人もが笑顔でうなずき合う。墓石群の傍らに「昭和33年、浩宮一行見学記念植樹」の小さな立札があった。
丘陵をさらに進んだ突き当りが、近隣の人々から「土屋の銭洗い弁天」の名で親しまれている妙円寺。フジ棚が美しい境内の一角に古い朱塗りのお堂があり、その中に弁天様がまつられ小さな銭洗い池がある。私も百円玉2個に、三度水を掛けながら「せめて、倍になりますように!」と願う。ケチだね、と自分をあざけて苦笑した。
11時50分、昼食。毎回のことながら、みんなでおかずを分け合って談笑しながらの食事は楽しい。気力回復、降り始めた小雨の中を足早に登り約40分で鷹取山頂に。途中、ゴルフ場の外棚に沿って歩きながら遠くに目をやると、丹沢山塊が隅々までくっきりと見渡せる。「あれがヤビツ峠」「あのピークが大山」などなど、仲間の解説が嬉しい。掲示板のイラストを見る必要がなかった。
鷹取山の山頂一帯は、神奈川県指定の環境保全地域。うーん、立派な巨木がのびのびと繁茂する純粋な自然林に圧倒される。特に、社殿の傍らにそびえる大タブの木は樹齢400年とか、幹に裂け目が生じているが、まだまだ健在のように見受けられた。深呼吸する木々の息吹に、森は生きていると感じた。山登りならぬ山歩き段階の初心者の私には、鷹取山は尾根の下りが急で実にしんどかった。丸太組の登山道を降りながら正直、「登りだったら、ばてるな!」と思ったものである。
その後は一気にゴールの大磯・城山公園へ。雨のため茶室「城山庵」での抹茶一服は断念したが、太平洋の海原を眺めながら見晴台で開いた“茶話会”は盛り上がり、小一時間も続いた。楽しかった。仲間のみなさん、ありがとう。(皆川靱一)
参加者
皆川靱一、鎌田正彦、深田美好、平井康司、平井安乃、北野忠彦、高芝一民、深田伸代、仲川侑子、荒木正弘、森静子、原満紀、高橋善護、植木信久、植木淑美
以上 15名


■第27回サテライト・サロン町田報告
「関東ふれあいのみち」を歩く
・4月13日(土)「弘法大師と桜のみち」「弘法大師と丹沢のみち」
・コース/小田急線秦野駅9:15集合→秦野駅09:35発バス→鳥居前下車9:58→源頼朝公首塚→波多野城跡→弘法山12:42→権現山13:01[昼食]→なでしこ広場前バス停→秦野駅16:12(解散)
――弘法大師ゆかりの歴史の道を行く――
 今年の桜の開花が予想外に早く、葉桜どころか八重桜の お花見山行となってしまった。秦野駅から蓑毛行きのバス に乗り、蓑毛の1つ手前の鳥居前バス停で下車。ここには 昔の人たちが大山参りへの旅でくぐった大鳥居が道路の中 央に立っている。我々もまず山行の無事を祈り参拝し、記 念撮影を行った後、リーダーを先頭に一列隊列で弘法山を 目指して出発したが、途中で源頼朝公首塚を訪ねることに した。寄り道に入るとツバメが飛び交うのどかな田園風景 となり、民家の庭や路傍にはタンポポ・つくし・菜の花・ ムスカリ・藤・山吹・芝桜・オドリコソウ・イカリソウな どが春を待ちわびていたかのように咲き誇り、百花繚乱 であった。ホタルカズラという珍しい花も観賞できた。
首塚(みしるしづか)を後にして再び弘法山に向かった が、またまた寄り道して波多野城跡を見学した。昔、中国 の秦系統の人々がこの地に帰化し、波多野名で呼ばれてい たことや、鎌倉時代の後裔がこの地名を波多野とし、金目 川のほとりに城を構えたことなどを案内書で知った。しか し、この城跡からはその歴史の面影を思わせるものはなく、 何の変哲もない所であったが、当時は大山を眺望できる小 高い丘にあり、城に適した場所であったのかも知れない。 光明院の古寺を過ぎると正面に弘法山が見えてきた。
日本たばこ産業の前を通って国道246号線の信号を渡る。 桜の名所の加茂神社を過ぎて車道が大きく右に曲がる地点 から階段を登り、弘法山の山頂を目指す。
よく整備された石段を登り12時42分に標高235mの弘法 山山頂に着いた。気温が25℃と高く、道中でかなり汗を かいたので、木陰が涼しく心地よい。正午を過ぎていたの で休むこともなく権現山に急いだ。山頂の展望台の下のベ ンチですき焼き鍋を囲み、気の置けない山仲間とわいわい 言いながら至福の豪華なランチタイム2時間を楽しんだ。 秦野盆地と丹沢山塊を一望の下に眺められる展望台で、 大山を背景にして集合写真を撮り、さらに二等三角点を 囲んでリーダーから三角点のうんちくを拝聴して権現山 を後にした。最寄りの「なでしこ広場前」バス停から秦野 駅前まで戻り、山でのまたの再会を約して解散した。 (原満紀 記)
参加者
平井康司、小宮真理、本間正士、丸山さかえ、植木信久、 原満紀、荒木正弘、植木淑美、上田昌子、笹本忠、片野スミ子、 北野忠彦 計12名


■第16回サテライト・サロン立川報告
・2013年3月26日  立川市女性総合センター
・秦和寿講師/マダニの被害を防ぐ
 気がかりなことである。野山にいるマダニが媒介するウイルス性感染症が話題になっている。重症熱性血小板減少症候群(SFTS/Severe fever with thrombocytopenia syndrome)というそうだ。3月14日には、厚生労働省が国内で確認された患者8人の症例をまとめ公表した。個人が特定されるとして公表していなかった年齢も明らかにした。患者は50歳代が2人、60歳代が1人、70歳代が2人、80歳代が3人と、すべて50歳代以上で年配世代に集中している。性別は男性6人、女性2人。そのうち5人が死亡している。地域別では長崎県が2人、広島、山口、愛媛、高知、佐賀、宮崎の各県が1人と、すべて西日本。発症時期は4月中旬から11月下旬の春から晩秋にかけての期間だった。
秦和寿会員は、昭和22年生まれ。東京都衛生局で衛生害虫を30年以上研究された。日本有害生物研究会幹事、防虫具研究会代表。日本山岳会医療委員会の委員でもある。急遽、「山地におけるマダニと虫刺されの被害を防ぐ」と題して話してもらった。

無理やり取り除くと針が皮膚に残る
 ダニ類は2つの群に大別することができる。一群のダニ(mite)は微弱な体長0.3〜0.6mm程度の微小生物である。他方はマダニ(tick)で外皮が硬質のキチン質でおおわれた体長2〜7mm程の大型の群である。このマダニは、通常哺乳類からの吸血によって生活している。活動時期は春から秋。ササの葉の裏などで哺乳動物が通るのをじっと待ち、二酸化炭素(炭酸ガス)と振動などに反応する。外気の炭酸ガス濃度は約400ppmだが、人の呼気には40、000ppmの炭酸ガスが含まれるからマダニは直ちに感知する。すぐ皮膚にくらいつくわけでもなく、しばらくのあいだ安心できる部位をさがし皮膚をさまよう。この段階で除去するのが良いのだが、人間側は知る由もない。皮膚に長期間寄生し吸血する。無理やり除去すると口下片と呼ばれる針が皮膚に残り予後が悪い。着衣がウールなどであればマダニの虫体がひっかかりやすい。薮こぎをした場合、衣服をざっと見渡すことは寄生を防ぐことになる。近年、マダニは山地のみならず都市部の緑地帯でも−部生息が見られる。生息域に変化があるのかも知れない。

マダニの防ぎ方
マダニを付着させないためには、なるべく薮の中にはいりこまず、着衣や忌避剤で予防する。さらに身体を点検する。マダニが寄生した時の除去法、受診時の注意などをあげてみよう。
①服装/肌を露出させないよう長ズボン、長袖、帽子を着用。ウール製品をさけ樹脂加工布の製品を着用。
②スパッツ/スパッツを着用。ウールの靴下は避ける。
③忌避剤/草叢を歩くとき忌避剤(虫除けスプレー)を利用する。短時間の効果なので1時間おきに処置。
④身体の点検/薮や草叢を歩いた時、風呂に入り身体をチェックする。皮膚の柔らかなところや寄生例が多い瞼や陰部などを重点的に。
⑤寄生された場合/マダニが皮膚に寄生しても痛くも痒ゆくもないが、しっかり吸着すると離れない。無理やり引っ張ると口器の一部が皮膚内に残存し予後が悪い。虫体にべンジンまたはワセリンをつける。呼吸できなくなるので自ら離れることを期待する。それでも除去できなければ外科的な処置となる。また寄生部位を中心に大きな紅斑ができた場合、何らかのウイルスが入った可能性があるので受診する。

 秦講師は、防虫具研究会の代表だ。いくつかの防虫具を持参された。伝統的な日本の防虫具である。わら筒のような防虫具は、稲わらをたばねたもの。なかに藍染めの芯があって、これをいぶしてブユなどを防いだ。腰にぶら下げた。奈良・平安時代から昭和30年代ごろまで1000年にわたって脈々として使われたという。東北から九州まで同じ。いろんな材料があるが、日本の防虫具の原点だ。
ダニやブユ、ハチ、ツツガムシ・・・。山林従事者は、さまざまな工夫で害虫からの被害を防いできた。ところが近年は、ごく普通の人が山に行くようになった。草叢に入り込む。害虫の防ぎ方を知らない。防御策が十分でない。多くの被害が報告されるようになった、などと話された。 (文責/橋重之)

※山口県が4/16、県内の60歳代の女性がマダニを介する重症熱性血小板減少症候群(SFTS)ウィルスに感染し死亡したし発表した。国内で感染が確認されたのは12人目で死亡は6人目になったそうだ。

参加者
秦和寿、芦川昌子、飯島文雄、大関保、大船武彦、岡義雄、宇田俊二、加藤信夫、神崎忠男、神田直子、酒井省二、下田俊幸、副島一義、橋郁子、橋重之、田中恵美子、竹中彰、富澤克禮、中野英次、西谷隆亘、西谷可江、西村智磨子、野崎裕美、平井康司、山本憲一 計25名


■第26回サテライト・サロン町田報告
・開催日  平成25年3月27日(水)
・会 場  まちだ中央公民館
・講演者  松田雄一(本会名誉会員)
・演 題  「松田雄一さんを囲む会」
本日の演者松田雄一さんは、日本のヒマラヤ登山の嚆矢・マナスル登山隊に二度参加(1954年の第二次登山隊と、初登頂に成功した56年の第三次登山隊)し、その体験をもとに「八千メートル峰登山のタクティックス」を著わした。その論文は高所登山に必須な多岐な内容に及び、その優れた理論的高所登山法は後に続く日本のヒマラヤニストたちのバイブルとなり、高所登山法の基本となった。現在はやりの速攻登山法(アルパインスタイル)もまた高度馴化などの基本の考え方は松田論文と同じである。
松田さんはさらに1959年にヒマルチュリ、70年にエベレストと当時最先端の登山隊を主導するほか、全日本山岳連盟と日本山岳会を併せた現在の日本山岳協会の設立や、日本ネパール協会の設立などに関わり役員を歴任した。そして63年には日本のヒマラヤニストを集めた海外登山研究会を開催(今年で51回を数える)するなど、日本のヒマラヤ高峰登山を教導するのみならず、登山組織運営にも秀でた能力を発揮し登山史上のキーポイントで活躍した文武両道の岳人であります。
松田さんは1991年には本会副会長、2006年には本会名誉会員に推挙され、「日本山岳会百年誌」編纂委員長を務められた。町田サロンでは地元にお住まいの偉大な先輩の「長年の登山に関わる経験豊富なよもやま話」をお聞きしたく『松田さんを囲む会』をお願いしたところ快諾いただき、今集会の開催が待ち遠しかった。

会は竹中多摩支部長より開会挨拶があり、次いで松田さんの話に移った。氏の祖が明治時代に一族郎党を引き連れて足尾銅山開拓に従事したことから始まり、足尾鉱毒事件での閉山に伴い東京へ移るのに農商務大臣榎本武揚卿に面倒を見ていただいたとのことで、のっけから歴史上の人物名が出てきたのには驚かされた。そして戦時中の学徒動員先は府中の競馬場で軍馬の飼育担当だったため、8月の終戦の後も帰宅できず12月まで馬の世話をしていたことや、松田さんが騎手に向いている体つきなので、もし騎手になっていれば人生が変わったことなど、山以外の話が聞く者を引きずり込む。
1952年松田さんは大学卒業後外国に行きたくて水産会社に就職、捕鯨船団に乗り組んで南氷洋まで三度も出かける。スライドは昭和二十年代の南極捕鯨の懐かしい映像を映し出していた。氏が南極で捕鯨中の1954年(昭和29年)11月、富士山七合目で大雪崩があり冬山訓練中の40人が巻き込まれ、東大、慶大、そして松田さんの母校日大の三大学山岳部員の15名が行方不明になった。捜索は翌年夏までおよび、遭難者は雪崩に運ばれて御中道のはるか下三合目まで流されていたと云う。その三大学の共同捜索体験がその後の南極観測隊編成につながっていったとのことであった。しかしながら町田サロンの現役メンバーに、この大雪崩遭難の捜索隊に参加した古強者が居ることの方がもっと「びっくりマーク」である。これだからサロンに参画する山岳会員は侮れない。
マナスル登山では、頂上手前のピークから撮った頂上岩壁の、ヒマラヤ造山運動を顕著に示す二極に分かれた色違いの岩質岩壁のスライド写真には驚かされた。マナスルに関心ある筆者も見たこともない、きれいに縦に2色に分けられた美しい岩壁だった。初登頂者の今西寿雄隊員がその頂上下岩壁に打ち込んだアイスハーケンを筆者の隊(1971年のマナスル西壁登攀隊)が引き抜いて山岳会に返還したこともあった。(岩と雪22号表紙参照) しかし最近のマナスル登頂写真として、この顕著な頂上岩壁が写っていないものがあるのが少々気にかかる。
マナスル登山本隊では、高い補償金を要求するサマ部落民と登山交渉中の槇有恒隊長の渋面と、登頂成功後にラマ帽子を被って破顔一笑する槇隊長の顔の対比がおかしい。槇隊長は本当に「役者」だった。
クライマックスは松田さんがライフワークとした「ヒマラヤを越える鶴」である。氏は1958年より関心を持ち、鶴の渡りとモンスーン明けの関係を調べ、ある地域、ある場所という特定条件下ではあるが「ポストモンスーンの好天の予知」に使えないかとの考えを多くの登山隊にアドバイスした。そして1995年にはヒマラヤまで出かけ、実際にヒマラヤを飛んでゆく鶴の群れを調べて好天の予知に使えることを実証して見せた。青空を飛ぶ鶴の群れは美しい。スライド映写を交えた松田さんの話は中身が濃く充実した二時間であった。

会の最後は、寺田会員(前町田市長)より寺田さんが編まれた『千曲川源流紀行』本にまつわる話があった。町田市民文学館々長を務める氏の話をもっとお聞きしたかったが、時間がなかったので次の機会にお願いすることになった。
今回の『松田さんを囲む会』には前町田市長をはじめ市在住の会員はもちろん、遠く小平市や八王子市、調布市、狛江市からの支部会員や、神奈川県の鎌倉市、横浜市、相模原市、座間市などの隣県隣市から関心ある会員たちが集まった。まだまだ松田さんからお聞きしたいことは沢山あった。反省会(二次会)に及んでも話題は尽きなかった。(記・橋善護)
参加者
松田柳子、寺田和雄、寺田瑠美子、竹中彰、原満記、岡義雄、荒木正弘、橋善護、加納巌、今村千秋、砂田定夫、北野忠彦、倉持内武、石原康生、高芝一民、植木信久、植木淑美、笹本忠、丸山さかえ、本間正士、片野スミ子、長尾律子、小宮真理、宇野良夫、森静子、鎌田正彦 計27名


■第19回サテライト・サロン吉祥寺報告
 年度末の3月27日(水)午後6時30分から、いつもの本町コミセンで開催。演者は元気象庁職員、現在は山岳気象アドバイザーである八王子市在住の城所邦夫氏で、今回のテーマは「山岳気象と気象遭難」。登山者にとっては天候の情報は欠くことができない。これからゴールデンウィークを迎え、登山を計画している人にとっても関心の高いテーマである。最初に基本的な話として、山の天気を左右する3つの要素について解説があり、上昇気流と下降気流の仕組み、天気(空気)に含まれる水蒸気量の多少、大気(空気)の安定度を挙げた。気象を考える上での注意を易しく述べ、山には天気のパターンがあるのでこれを覚えると大まかな予側ができる。また、山の気温は標高が高くになるにつれて低くなるがこの現象を「気温減率」といい、具体的には標高が100m増すごとに平均約0.6℃低くなる。これは北から南まで、季節に係わらずほぼ同一という。従って1000mで6℃、2000mで12℃低くなる。例えば1500mの山では、標高1500m―山麓の標高200m=1300m、1300/100 ×0.6で約8℃となる。山麓の気温が20℃の場合には20−8=12℃が山頂や稜線の気温となる。更に、氏は実際に遭難した過去の事例とその時の天気図を示し、悪天候の原因を気象面から解説した。山ではいつでも天候の変化が起こっている。その天候を軽視して遭難を起こした例を4シーズンに分け事例を解説。古くは、昭和34年10月に起こった台風崩れの低気圧による穂高連峰や八ケ岳などでの遭難例。昭和37年元旦から3日にかけて九州の九住山から北海道の芦別岳まで全国的にわたって起こった遭難では、死者26名負傷者27名にものぼっている。レジュメの天気図を見ると、元旦午前9時では九州南部と日本海に低気圧があり、いわゆる二つ玉低気圧。これが発達して24時間後には東北地方北部で一つになり984mbと猛烈な台風並みの天気であることが分る。わずか正月3ケ日で30名近い命が失われている。城所氏もこのとき当直で12月31日から元旦にかけ気象庁にいたが、ニュースが入らず帰宅してから知ったという話を披露した。参加者からは、天候も重要ではあるものの、山に登るチームの登山技術、装備、気力、リーダーの能力などがもっと重要で、悪天候に遭ってもこれらを保持しているチームは生還できるのではないか、との意見も出された。
山岳気象の基本的なことから天気図を示しながらの天候の動きなど説得力があり、普段の日常生活においても役に立つ話で、参加した会員にとっても有意義であった。終了後、参加者の多くが懇親の場で天候の話、最近登った山などについて話がつきなかった。  なお、次回は5月22日(水)に開催する予定である。(文責/小清水敏昌)
参加者
城所邦夫 宇田俊二 大関保 大橋基光 小野寺斉 加藤信夫 川合周 西村智磨子 西谷可江 西谷隆亘 宮川清彦 三塚光一 三渡忠臣 吉田敬 山口峯生 渡邉正子 副島一義 小清水敏昌(計18名)

■第25回サテライト・サロン町田報告
3月16日(土) 関東ふれあいの道「丹沢山塊東辺のみち」
小田急線本厚木駅8:30集合、8:50発半原行きバスで撚糸組合前下車、仏果山山頂12:05〜13:00、半原越14:45、坂尻バス停16:10、本厚木駅帰着17:40、同駅にて解散
今日登る仏果山ルートは1/25000地形図「上溝」によると、首都圏自然歩道と記載されています。この山にも何回か登りましたがこのコースを歩くのは初めてです。町田サロンの山行は毎回大勢の仲間がやってきます。今日の山行にも総勢17名となり、晴天に恵まれ賑やかな山行となりました。バスの終点「半原」の手前バス停「撚糸組合前」で下車し、半原神社の広場で出発前の軽いストレッチ体操を実施した後、先頭を石原サブリーダ、ラストを本間チーフリーダの隊列で勇躍出発する。国道412号線を潜り、さらに宮ケ瀬ダムに向かう県道の下を通って、標高520mの地点で送電線の下に到着する。送電線に沿って樹木が伐採されていて頗る眺めが良いので小休止する。振り返れば半原部落には中津川の曲がりくねった川筋や、長竹ゴルフ場、東名厚木ゴルフ場などな望めた。地形図を見ると半原の北側にも首都圏自然道の道が記載されていて、その先に津久井湖が望める。関東ふれあいの道マップによると、「⑬山里から津久井湖へのみち」があるようでいずれ歩くチャンスがあるだろう。
仏果山の頂上にはベンチやテーブルがあちこちに作られていて、さらに鉄製の大展望塔が建っています。昼食後馬鹿と煙は高い所が好きとばかりに展望等に登り、眼下の宮ケ瀬ダムから丹沢山塊の山々の眺めを楽しみました。スカイツリーや大島なども見えるらしいが春霞のせいで遠方の景色は見ることが出来ませんでした。昼食後ゆっくりと半原越に向かう。今までののんびりした尾根歩きが一転、俗に言う馬の背歩きの尾根が続きました。鎖が張られた登山路はあちこちに岩が露出していてハイキング気分から、スリルを味わいながら慎重に下りました。
地形図には640mと記載されているだけですが、たどり着くと「革籠石山」なる山名の書かれた標識が立っていました。さらに進むとリッチランドに下る道との分岐に出ました。近道ではあるが腰痛のメンバーもいたので半原越に下る安全なコースを選んで下山することになった。
1ヵ月前の「北条武田合戦場のみち」での半原越は雪と氷だったが今回はもうからからでした。小休止の後長い林道を三々五々のんびり歩いて下り、リッチランドを過ぎてやっと麓の「団子や」に到着、売店のおばさんにバス時間まで4分と云われて急いだが間に合わずがっくり。1時間近く待つことになったが大勢で雑談しながら待っているとあっという間に過ぎた感じでした。本厚木まで全員バスに座ることが出来、無事駅前で解散となりました。いつものように反省会を有志で行い、楽しい余韻をもって家路を辿りました。(文 原 満紀)
参加者
飯島文夫、植木信久、植木淑美、宇野良夫、鎌田正彦、森静子、深田美好、深田伸代、小宮真理、片野スミ子、中川郁子、上田昌子、丸山さかえ、荒木正弘、原満紀、(SL)石原康生、(CL)本間正士 以上17名


■第27回サテライト・サロン町田開催案内
関東ふれあいの道 弘法大師と桜のみち(神奈川⑨
             弘法大師と丹沢のみち(神奈川⑮)
・日時 2013年4月13日(土)雨天14日(日)
・集合  小田急線 秦野駅 9時15分
 (バス 9時35分発 蓑毛行き)
・行程  蓑毛バス停〜波多野〜合同庁舎前〜弘法山〜権現山(ランチパーティー)〜大河原郵便局〜-本厚木駅
・地図 1/25000 伊勢原、秦野 
・持ち物 日帰りハイキングセット、ライト
・申込 片野スミ子(046-251-1598)締切 4月5日
・担当  北野忠彦、 片野スミ子(046-251-1598)
 *弘法山、権現山でお花見の宴を開きます。
・会費 1000円(昼食代含む)
 順延となった場合の出欠とともに、18〜21時の申込みを希望。


■第24回サテライト・サロン町田報告
2月16日 関東ふれあいの道(北条武田合戦場の道その1)
日だまりハイク日和の山行の楽しさ!
 経ヶ岳の頂上の手前のピークから見た雪の丹沢山塊の素晴らしさ に思わず目を見開いた。
 大山から三峰にかけて前日の雨がすっかり雪になって山を包み、 三ノ塔から塔が岳、丹沢山と見事な展望に惹かれた。船橋に住んで いると、見られない風景である。丹沢の雪の風景にであう機会のな い者にとって大変新鮮である。
 東の空に重い雲が垂れ込めている。前日までの不安定な空模様に、 わずか雲の薄い空に希望をつないで早朝に家を出た。
 経ヶ岳から田代に向かって下りながら、厚木方向の平野に目を移 す。たちまち頭のなかでシューマンの交響曲No1「春」、No3「ラ イン」が聞こえはじめた。2、3日前にBSでクララ・シューマンの 映画を見たからだろう。ロベルトとクララ・シューマン夫妻とブラ ームスの絡み合う愛情のストーリーは良く知りながらも、あらため て映画によって増幅されたのだという思いに浸る。
 山稜の歩みの楽しさに倍加されて、今日一日の充実した山行を思 う。
 経ヶ岳に、はじめて出かけたのは大きな楽しみだった。坂尻のバ スを降りて車の通りを左手に手作りの店で甘党向きの品を買う。道 でログハウスの販売とも、貸し別荘ともつかない建物を通過して、 半原越に到着する。いよいよ雪のついた山道にかかる。30分くらい で経ヶ岳手前のピークで食事をする。東北からの風は冷たくて寒い。 風のない日だまりは春まっ盛りという感じだった。田代の半増坊( 勝楽寺)に下り、由緒ある古刹で行程を終えた。(文 藪田益資)
参加者
飯島文夫、鎌田正彦、深田美好、深田伸代、藪田益資、本間正士、荒木正弘、笹本忠、宇野良夫、森静子、小宮真理、高橋善護、植木淑美、植木信久   計14名


■第6回サテライト・サロン八王子・日野報告
・開催日:2013年3月2日
・会 場: 日野市/七生公会堂
・講 師:徳久球雄 氏(会員番号3768)
・演 題:「山と人・深田久弥」
故深田久弥さんも、約50年前に出版された「日本百名山」に載せられた山々が、今のような賑わいの時を迎えるとは想像していなかったに違いない。 このようなブームのきっかけを作った深田久弥さんについて、徳久球雄さん(会員番号3768、S6年生、82歳)が、氏の人となりについて語った。徳久さんは、深田さんと一緒に日本山岳会の図書委員をつとめ、また、谷川岳の山麓にある徳久さんの山小屋にて酒を酌み交わした仲であったとのこと。
当日には、八王子日野地区以外の会員も含め14名の方が集まった。話は、徳久さんが持参されたプリントを参照しながら、また、深田久弥さんの著作本や深田さんが写っている写真を回覧しながら行われた。
深田久弥さんは、1903年に石川県の大聖寺に生まれ、1971年に山梨県の茅が岳で亡くなられた。小説家、山の研究家として知られ、山に関係する代表作は「日本百名山」、「ヒマラヤの高峰」である。作品も人柄も幅広く多くの人に愛されてきたことから、現在でも、氏についての研究会が作られたり、「深田久弥を語る」といった鼎談も開かれている。
日本百名山については、著作本に述べられているように、山の品格、歴史、個性、標高1500メートル以上という基準を基に山が選択された。 山の選択については異論も多いが、徳久さんは、深田さんの博識と山歴が選ばれた百名山に重みを与えているとしている。 また、深田さんは、山に対してだけでなく、山に登る者に対しても、品格、個性は大切にされるべきものと考えておられたとのこと。 なお、百名山として挙げられた山そのものについては徳久さんが編集委員を務められた「日本山名辞典(改訂版)」2011年8月10日三省堂発行、に詳しく記されている。
現在のように情報があふれ、手軽に入手できる時代とは異なり、貧しさから豊かさへと変化しつつあった高度経済成長期において、深田久弥さんの著作が、多くの山好きの若人に貴重な情報と夢を与えてくれたことは間違いない。 そのような時代に、深田さんと親しく酒を飲みながら夢と希望を語り合う機会を持ったという思い出を、徳久さんはずっと大切にしてこられたということを感じさせられた時間であった。 深田久弥さんの酒の飲み方は、ガブガブ飲むタイプであるというお話にも実感がこもっていた。
徳久さんの話の終了後、高橋重之さんより、現在日本山岳会が進めている「日本三百名山登山ガイド」の発刊準備、東京多摩支部の役割について説明がなされ、支部への協力依頼がなされた。
懇親会は高幡不動駅近くの「天狗」で行われ、11名の方が楽しい一時を過ごした。
(文/野崎裕美)
・参加者:徳久球雄、成川隆顕、飯島文夫、城所邦夫、澤登均、近内 昇、高橋重之、高橋郁子、小清水敏昌、北原周子、中村小一郎、足立孝也、古市 進、野崎裕美  以上14名

■第3回サテライト・サロン花小金井・吉祥寺合同報告
1月23日(水)午後6時30分から、いつものように本町コミセンで始まった。今回は、前日本山岳会副会長で現在は日本山岳協会会長の神崎忠男氏(会員6002)による「ワシの登山談義」。自ら持参のスライドやビデオを映しながらの講演、また20頁もある講演用資料も準備。氏の登山人生から山に対する熱い想いが感じられる講演であった。わが国で最大の会員数を誇る日本山岳協会の責任者である神崎氏は、まず 老人クラブ化した日本山岳会のことや今後の山岳会のあり方、登山仲間の意識向上などについて 氏が日頃からから感じている事について問いかけた。最近の山岳会の運営に対して、以前は大いに意見を戦わしていた自由奔放な雰囲気があったが 今はなくなったこと、エチケットやモラルが欠落していること。また、多摩支部を例にあげて在住会員の半数位しか会員になっていない現状から、山岳会に“登山魂”をどうやって入れるかを一人一人がよく考えるべきであり、組織のための山岳会ではなく山好きな人たちのための 山岳会のはずであると力説。そして自分が歩んできた登山の経過をスライドで説明。特に4回も行っているエベレストの話では、登頂した時の当時の隊員のことやそのルート。更には、チベット側とネパール側の違いやその周辺のマカル―やローツェなどの写真を提示して裏話を披露した。加えて、日大山岳部の過去の遠征の様子、昔の探検家が遠征をした歴史的事例、あるいは日本の山岳会の設立経緯と国際的な関係などについてもスライドを用いて語った。まさに氏の様々な登山経験を通しての話でどれも説得力があり聞き惚れた。
 一方で、最近はクライミングが大いに盛んで、その国際大会の模様をビデオで紹介。それによると、ワールドカップが開かれるくらい活発で、特に多くの国々では若者が挑戦して雰囲気を盛り上げているとのこと。日本とは事情が異なるものの中国や韓国でも若い人たちが大会に参加している様子などの紹介。
最近ではわが国でも小学生や高校生など若い人が多く集まるようになってきたという。こうした動きは、われわれが山に登る、山を歩く、自然を楽しむなどとは異なり、スポーツとしての競技するクライミングが興ってきた。日山協の年間予算が約1億4千万円であるがそのうち40%はクライミング関係だという。
講演を聴いて、いまや 山への考え方の変化を時代の流れとして受け止めざるを得ないが、われわれも新たな取り組み方を考えていかないと先細りしてしまうのではないかと感じた。(文責/小清水敏昌)
参加者
神崎忠男、山口峯生、原 満紀、岡 義雄、大倉昌身、金子 浩、 宮川清彦、川口和男、今田明子、川越尚子、渡邉正子、三渡忠臣、大船武彦、前田美千彦、西村智磨子、菅沼満子、長澤 登、近藤雅幸、近藤節朗、西谷隆亘、西谷可江、吉田 敬、小口 治、田制 忍、柄澤洋城、原山恵津子、副島一義、小清水敏昌(計28名)


■第23回サテライト・サロン町田報告
―関東ふれあいのみち「油壷・入江のみちA、三浦・岩礁のみち①」―
・日時 1月5〜6日
新年初歩きの駅前には、元気な仲間が続々と集まってくる。あちこちで 「明けましておめでとうございます」の声が聞こえる。
それにしても総勢 17名とは、お正月から凄いですね。天気予報は余り芳しくなかったけれど青空も望めてまずまずの日のようだ。油壷バス停から東大臨海試験場の横を通って油壷験潮場を見ながら湾の先端へ下る。登り返して海岸沿いのハイキングコースを一周する。最後に薄暗い森の中を通って三浦道寸の墓に詣でる。昼食は、観潮荘レストランで各々好きな料理を注文し、食べ放題、払い放題。バスで城ケ崎大橋を渡って今夜の宿に荷物を置いて島歩きに出発。
海岸は、砂浜と岩礁の連続で山のトレイルと違って足を取られ歩き難いけれど、三々五々喋りながら賑やかに散歩。別名「メガネ岩」と呼ばれている「馬の背洞門」を見物する。ここから海岸を離れて「うみう生息地」へ。最後に島の東にある第一展望台で360度の展望を楽しむ。南に大島、西に伊豆半島、雲の上に雪を被った富士山を発見。帰りは丘陵地の水仙ロード辿る。宿で早々と新年会の予行練習と本番。マグロのカマ焼きや巨大な板に乗ったお造りを堪能。
翌日、宿の車で宮川湾のスタート地点に移動。途中、日帰り参加の笹本さんをピックアップし、18名の「おのぼり様」の団体となりました。昔、盗人もここで追い詰められたという「盗人狩り」から「毘沙門洞窟」へ。弥生時代から平安時代まで住居として使用していたとか。埋葬された人骨も発見されたそうです。コーヒータイムの後、三浦七福神「白浜毘沙門天」へ。大根畑の中を通って江奈湾の漁協直営店で今日も新年会。この二日間は、天候にも恵まれ、大勢の山仲間たちとの新年会を兼ねた「関東ふれあいのみち」は、最高に素晴らしかったです。来年も是非続けて下さい。参加された皆様、有難うございました。(文:原 軍曹)
参加者
荒木正弘、植木信久、上田昌子、宇野良夫、片野スミ子、鎌田正彦、小宮真理、笹本忠、仲川侑子、原満紀、深田伸代、本間正士、丸山さかえ、皆川靱一、森武昭、薮田益資、森静子、植木淑美(18名)


インフォメーション
第36回サテライト・サロン町田報告
第34回サテライト・サロン町田報告
第22回サテライト・サロン吉祥寺報告
第17回サテライト・サロン立川報告
第7回サテライト・サロン八王子・日野報告
第33回サテライト・サロン町田報告
第21回サテライト・サロン吉祥寺報告
第32回サテライト・サロン町田報告
第30回サテライト・サロン町田報告
第29回サテライト・サロン町田報告
第20回サテライト・サロン吉祥寺報告
第28回サテライト・サロン町田報告
第27回サテライト・サロン町田報告
第16回サテライト・サロン立川報告
第26回サテライト・サロン町田報告
第19回サテライト・サロン吉祥寺報告
第25回サテライト・サロン町田報告
第27回サテライト・サロン町田報告
第24回サテライト・サロン町田報告
第6回サテライト・サロン八王子日野報告
第3回サテライト・サロン花小金井・吉祥寺合同報告
第23回サテライト・サロン町田報告

アカヤシオ
多摩の花 アカヤシオ

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