講演会 山口耀久氏「『アルプ』とその時代」   平成26年2月25日


講演会

  山口耀久さんは、獨標登高会を創設して、数々のパイオニア的登攀をなしとげ、『北八ッ彷徨』『八ヶ岳挽歌』『山頂への道』など名著の著者として知られる。
 新著『アルプの時代』の出版を機に、刊行の経緯とその時代を語っていただいた。開会に先だって会場受付で、山口さんは著書へサインをされた。
支部長の挨拶に次いで、岡田委員長から講師紹介があり、松澤会員の進行で始まった。
今回の講演会はたぶん2〜30名くらいの人を相手にお話しをすると思って気軽に引き受けたのに、ご覧のとおりの盛会で、逃げ出したくなっちゃった。今日何をお話しするか、実はほとんど考えていないのです、と山口さんがそう切り出すと笑い声とともに会場は和やかな雰囲気に包まれた。
今夜は「アルプ」の時代について打ち明け話みたいなこと、あるいは私の考えていることをおしゃべりすることになるかと思います。という言葉に期待が高まる。
今年6月に88歳(米寿)になる山口さんは、いつも山に行きたいんですよね。夢にしょっちゅう自分の山の思い出が出てくると言う。現在は脊柱管狭窄症に悩まされ、80歳をすぎてから山に行っていない。「みなさんも体を大事にしてね」というやさしい言葉に、会場からは笑い声が。また、本当は処分しなければいけないのだが、山の道具―岩登りや冬山の道具はね―今も自宅に置いてある。文章を書く上で山と縁が切れると書けなくなってしまうからという言葉に、多くの出席者がうなずいていた。
 この「『アルプ』の時代」は、10数年前に山と溪谷社の神長幹雄さんから、「アルプ」の歴史について書いて欲しいと要望があった。それでも執筆にとりかかっていなかったら、今から8年前に「山と溪谷」に連載してほしいと注文があった。その時点では調べてもいないし、書いてもいなかったけれど、いよいよ書かなければならなくなって、神長さんに言って了解を求めた―ハードルを上げると書けなくなるので、70点の原稿を渡すよ、ただし、本にするときは85点まで上げるから、とね。そう言って2006年4月から2007年6月まで連載したんですが、経験上から15点分、質を上げるには大変なエネルギーがいることがわかっていた。書けなくて飛ばした箇所を、調べ直して埋めなければならないからです。
文章を書く上で、調べたことなどを膨らませて書くことは、私にとってはわけがないことで、エネルギーもあまりいらない。だが、資料などを調べて、たくさん書きたいことが頭の中にあるのに、それをぐっと絞って15点上げるのは大変なことなんです。結果的に連載終了後、この本になるまで6年くらいかかってしまったので、本当は90点に近いものを出したかったけれど、これ以上は出版を延ばせないので、とにかく今の形で『「アルプ」の時代』を出版することにしたわけです。
本の造りについても、いろいろと注文をだして神長さんを困らせたが、神長さんは辛抱してよくやってくださった。(と最前列に着席している神長さんに向かって、心から感謝の気持ちを伝えられた。)
 次いで、原稿を書く理由については、私にとって三つしかないと話された。
一つは原稿料を稼ぐこと。二つめは儲からなくても俺の作品を見てくれと世に問うこと。これは個展を開く画家の気持と同じ。三つめは、「ご祝儀原稿」というやつで、例えば序文を頼まれると好い本を書いてよかったですね、という風によいことばかりを書くこと。
山口さんがこの本−『「アルプ」の時代』を出すにあたっては、お金を儲けるために書く、というのが全然ないとは言わないけれど、原稿を書くほんの一部の小さな理由にすぎないと語られる。
この本では、悪い意味で、いわゆるきれいごとにすます、あまり突っ込まない、悪口を書かないということを、私はやらなかった。かなり自分を抑えたが「批評」がたくさん入っている。本心を書いたと、熱い語りが続く。
ほめてばかりいるのは、私は誠実に反すると思って、憎まれることを覚悟でかなり批評的なことも書いた。また「アルプ」の生みの親である久保井理津男氏(創文社社長)の顕彰という気持も入っている。大洞正典編集長のことはみなが書くが、久保井社長のことはだれも書かない。不公平だと思ったからです。
「アルプ」のなかに修辞学的(レトリカル)なちょっとしゃれた言いまわし、内容が割に浅いのに言葉でいかにも文芸作品だというような作品がないとは言えないと、串田孫一さんの文章について触れていった。
「アルプ」には、呼びかけに応じて多くの投稿がきたが、串田さん調の亜流のような文章がかなり見受けられた。
串田さんの文章は口当たりがよく、真似をしたくなるようだ。だが、感性は個人的なものだから、いくら串田さんの真似をしても、言葉は似ているかもしれないが、書いている人の言葉や感性が肉体化されていない。別の言葉でいうと、串田さんの文章はかなり危険な文章です。ぼく自身だって、串田さんの影響を受けていますよ。それで、これから書こうという若い人に、こういう話をしました。
『北八ッ彷徨』に「富士見高原の思い出」を書いたが、あれだけは苦しまないですらすら書けた。ただし、生死にかかわる闘病生活をした(腎臓結核で腎臓の片方を摘出されている)後だから、そう簡単には筆を執れない。書くのが大変重い、気持が重いんですよ、緊張して……。しかし、串田さんの『花火の見えた家』という過去の思い出を綴った本を読んだら、気持がすっと軽くなって、「あー、これでいこう」と思った。串田さんの持っている良い意味での軽さ、例えば音楽でいえば、モーツアルトの浮力がかかった軽さ、沈み込むことがないそうした文章にした。
ただ、串田さんの文章の言葉を真似たり、しゃれたスタイルを真似たりすることは大変に危険です。と、念を押すように話された。
この本では、人物批評と作品批評をはっきり分けて書いた。ついつい人物批評に逃げてしまいがちだが、作品批評は厳しく書いた。作品を批評したことで人に恨まれても仕方ないと思い、覚悟して書いた。ただ、人の作品の欠点を暴くような文章は書くと気持が悪くなり、自分がなんて意地悪でいやな奴だと思って、1ヶ月くらい筆を執る気がしなくなる。
人の作品を自分が良いと思ってほめた文章を書くと、まことに良い気持になる。本当の批評は、ほめることだ。ただし、ほめることに説得力がなければだめ。読んだ人がなるほどこれは良いなと思えれば、それはいい文章だ。
会場で配布された『「アルプ」の時代』出版記念会資料の巻頭にある「感謝をこめて」のとおり、山口さんは刊行に尽力された方々に深く感謝している。今回の本の出版では、函入りでなければいやだよと言って困らせたが、あんな立派なケースに容れてくれというつもりはなかったのにと、ユーモラスに語る山口さんは「120点くらいの函を造ってくれた」と装丁の小泉 弘さんと、版画でこの著書とともに「アルプ」が持つ清涼な山の雰囲気を伝えてくれた大谷一良さんに感謝の言葉を述べられた(両氏とも最前列に着席)。

その後、出席者からの質問にていねいに答えられた。
・療養生活をされた富士見の印象と尾崎喜八さんの思い出などを…… 富士見時代の尾崎さんはとにかく潔かった。東京に戻られてちょっと変わった。富士見で尾崎さんに会わなかったらあんまり敬愛しなかったかもしれない。富士見で尾崎さんに出会えたことは、人生の上で一事件だった。

・もし登れるとすれば、どんな山に行きたいか?
70代の終わりに木曽の御嶽に行ったのが最後だったか?今みんな百名山のような有名な山にどんどん行くが、もし元気だったら、まだ行きたい山がたくさんある。 たとえば日高山域の谷、今でも血が騒ぎますよ、地図を見ると。頸城三山を縦走して焼山の北側に沢がある。そんな場所おそらく静かなはず。流行の山はつまらない。

・「烟霞淡泊」についての思いを……(同名の著作がある)
  山口夫人の実家に掛けてあった扁額を、尾崎喜八氏が「旅は淡く泊る」と評論されたが、古くから知られた中国の成句であることを、あとで人に教えられた。

・執筆者の人選方法や基準は?
特段の基準はなかった。編集委員が互選した。私の若いころ好きだった著者は大島亮吉、尾崎喜八、松方三郎、浦松佐美太郎だが、浦松さんには一度書いてもらったけれど往時の『たった一人の山』の生彩を求めるのは、もう無理だった。

・「アルプ」の原稿料が安かったと聞いているが……。
  当時の山岳雑誌など勘案すれば、世間相場どおりだった。

・これから書いておきたいことは?
一番書きたいのは「岩登り」のことです。後立山の不帰や、甲斐駒ヶ岳の摩利支天のことだとか、利尻岳西壁登攀のことなど、自分で言うのもおかしいがパイオニアワーク時代のことを書いておきたい。ただ、今回の出版でちょっと息が切れたので気分直しに、下北半島を5日間くらいあちこち旅したことをまとめてみたい。59枚「アルプ」に3回くらいぽつんぽつんと書いたが、あと50枚くらい書きくわえて薄い本を作って、それから岩登りのことを書きたい。

・広河原沢の岩小屋はその後どうなっているか?
訪ねていないが、最近は、その下に折りたたみ椅子が置いてあったとか聞いた(会場から笑い)。
『北八ッ彷徨』所載の「岩小舎の記」に触れて、私は自分が非常にセンチメンタルなんですよ。山へ行くと、ひとりで冬山、ことに谷筋を歩いていて雪の道がずうっと続いていると、涙が出るような、そういうところがあるんです。だけど、自分の文章にそれが出ないように隠しているわけです。本当に自分のセンチメンタルなところをなくすには、一回センチメンタルな文章を正直に書くこと、そう考えて「岩小舎の記」を書いた。冬の岩小舎の思い出は自分の気持そのままです。だから私は好きじゃない、全部恥をさらしているから。だけれど、不思議なことにあれが良いという方がいる。(会場から笑い声)近藤信行さんが編集した岩波文庫『山の旅』(大正・昭和篇)にも、これが採られています。
獨標登高会で『八ヶ岳研究』を出していて、私もいくつか記録を書いている。「岩小舎の記」には友達が晩にラッセルに出かけて、私が迎えに行くためにスパッツをはいて出たところで終わっている。翌日の登攀のことは書いていないのです。そのときの登攀のことや『八ヶ岳研究』に入れた私の記録を含めて、1冊の記録集をまとめてみたいという気持もあるのです。『北八ッ彷徨』と『八ヶ岳挽歌』は作品集で、これは記録集だから、八ヶ岳三部作ということでは全然ありません。だけどトシがトシだから、そんなに欲張っても、はたしてどこまで命がもつか分からないけれど……と、いきいきと力強く、そう語って質疑応答を締めくくった。会場から大きな拍手が沸き上がった。

参加者は104名。会員64名(東京多摩支部34名、他支部30名、一般40名)であった。
(文/竹内康雄、写真/飯島文夫)