講演会 日大山岳部「北極圏グリーンランド登山隊 1966年の記録」


講演会

   ――幻のフィルム/ノンフィクション・シアター――
かつて日本テレビに「ノンフィクション劇場」という人気番組があった。ドキュメンタリー番組の草分けだった。日本テレビ第一期生の看板プロデューサー・牛山純一が企画し,意欲的な番組を相次ぎ放映した。羽仁進,大島渚,井上梅次らを起用した。62年から68年まで続いた。そのなかで「北極圏グリーンランド登山隊 ―1966年日大隊の記録―」が放映された。昨年夏,フィルムが偶然に発見された。神崎忠男や尾上昇の若々しい顔があった。東京多摩支部の年始晩餐会で,50年ぶりに再上映した。隊長の中嶋敬さんにもお出でいただいた。
 1965年。ネパール政府が突然,ヒマラヤを閉鎖し,ヒマラヤ登山が出来なくなった。ヒマラヤへ行けないのならどこへ行ったらいい。世界地図を広げるとグリ−ンランドといいながら真っ白な島があるではないか,「ここには山があるのか……」ということから,日大グリーンランド登山隊は出発した。Mt.フォーレル峰(3,360m)をめざした。氷河のなかから頂上だけが突き出ている。1次隊は,ネパールでエベレスト・ビューホテルを経営している宮原巍さんが隊長となり,6人で出かけた。全く初めてのことでもあり,歯がたたなかった。第2次隊が編成され出発した。
若々しい顔が大きくスクリーンに映し出された。中嶋,尾上,神崎のほか池田錦重,早乙女次男,三好勝彦の計6人。7月1日,デンマークの船でグリーンランドの港に着いた。4日氷河の末端に着いた。行進を開始した。荷物は総重量660kg。1人あたり100kg以上。それでも最小限の装備だった。ヒマラヤのようなポーターはいない。すべて自前で運ばなければならなかった。2台の橇に乗せた。目的地のMt.フォーレル峰は200km奥にある。
グリーンランドの夏には夜がない。午後10時に日は沈むが,2時間ほどで日の出を迎える。白夜である。人跡未踏の地だ。奥地にはいるにつれ,クレバスが多くなる。幅は狭いが,底は深い。落ちたら助からないだろう。地図は当にならない。磁石だけが頼りだ。クレバスとの闘いとなる。手さぐりの行動で思うようにならない。10日は500mほどしか進めなかった。橇が落ちた。どうにか上げて荷物は助かったが,橇の根元がぽっきりと折れた。缶詰の空き缶を利用して修理した。半日も費やした。行進を再開した。クレバスとの闘いは続いた。食糧はビスケット。来る日も来る日もそうだった。ハラが減った。腰が痛い。白夜のため眠られない。医者がいない。凍傷やケガは絶対に許されなかった。
20日,北緯66度33分。ついに北極圏にはいった。坂が多くなり,高さ300m以上はあると思われる巨大なアイスフォールが立ちはだかった。橇では上がらない。足場をつくり荷揚げした。上がったり下ったり。1人7回は上下を往復した。連続18時間の作業だった。25日,ようやく,Mt.フォーレル峰の麓にたどり着いた。これまでに多くの探検隊が目指したが,たどりついた隊はほとんどいない。途中で挫折した。第1段階の目標を達成したことになる。日本から大事に持ってきた米を炊いた。
計画では1,800mのアタック・キャンプから1,000mのアイスフォールを登り,さらにスノードーム,アイスドームを越え稜線に出て頂上にたどり取りつく。27日午前零時10分,行動を開始した。先発は池田と神ア。体を3本のロープで結び慎重なカッティングとアイゼンワークで氷の谷を登る。スノードームを超えるころ太陽が昇り始めたが,気温はマイナス10度。15時間経過した。午後3時15分,ついに頂上に立った。険しい山々の間に,のたうち回るように氷河がうごめいていた。 「彼らは勝った。餓えと疲労,孤独と睡眠不足。そのことごとくに若さと情熱で打ち勝った。氷の島を再び訪れ,グリーンランド1000km横断を成し遂げるのだという」と,映像は結んだ。
極地の魅力にとりつかれた。日大隊は78年に日本人はじめての徒歩隊として北極点に立つことになる。
(文/橋重之  写真/飯島文夫)