田邊壽氏講演 「ヒマルチュリ登頂に今の山登りをおもう」


講演会

 晩餐会に先立ち同じ会場で午後4時から、田邊壽会員による講演「ヒマルチュリ登頂に今の山登りをおもう」が始まった。支部会員以外に立川高・慶應義塾山岳会、日本山岳会アルパイン・スケッチ・クラブのみなさんらが約50人が参加された。1960年、ヒマルチュリ(7,893m)に初登頂したときの記録映画を上映したあと、田邊さんの“ヤマと人生”をうかがった。

――晩餐会記念講演録抄――
僕は断じて何ものにも先駆けてアルピニストになる 数年前。ある日、私のところへ1個のカートンボックスが届けられた。友人に預けた30数年間に及ぶ私の日記だった。思わず読み込んだ。1冊の裏表紙にこんな言葉が書かれてあった。
「僕はかつて、ただ善良な人になろうと思った。可愛い妻を迎え小さな自分の家を建て良い子供を育てる。こんなことしか考えられなかった。ただし今は違う。俺はアルピニストになる。それこそ俺の命だ。断じて、何ものにも先駆けてアルピニストになる」  1953年11月13日  22歳

初めて山に登ったのは終戦直後の高校生時代だった。奥多摩に住む友人に誘われた。近くの小さな山だった。青梅に生まれ、生まれた時から山々に囲まれながらも山に対して何も感じることがなかった。登った山はカヤトの美しい本仁田山(1,224m)と友人に聞いた。今でも本当に不思議なことだが、その時何かが私の胸に飛び込んだ。
次の日、学校へ行き山岳部を探した。当時の立川高校には地歴部山岳班しかなかった。そこで山岳班に入り、ヒヨコのような山登りを始めた。翌年、生徒総会で大演説をして山岳部をつくり、初代部長となって本格的に山登りを始めた。担当の先生で師範学校を出たばかりの2人の若い先生に、連れて行ってもらい、ご指導を頂いた。
50年、慶應大学に入学した。終戦後まだ日の浅いあの頃は若者は何をしてよいのか判らず、スポーツ、女性、赤旗等々に青春の行く道を求めた。1年は資本論研究会に入った。しかし、山への思い断ち切れず、青梅の先輩が山岳部に入っていて2年生から山岳部に入った。広い大きな世界が広がった。
槇さんたちが始めた慶應山岳部には多くの立派な先輩がいて出会いがあった。槇さんに始まって三田さん、谷口さん、山田さん、宮下さん。直接指導を受けながらの山登りの日々が続いた。宮下リーダーとともに、雪洞による北アルプス全山縦走(53年3月)、冬の滝谷第四尾根の登攀(同12月)など日本の山を登りまくった。日本山岳会の学生部の活動に参加した。そんななか英国隊のエベレスト登頂、日本隊のマナスル登山成功を頂点に、ヒマラヤ登山隆盛の時代を迎える。ヒマラヤへの登山を夢見て大学生活を2年延ばしたが、夢実らず、56年に卒業し三越に入社し社会人となった。59年、日本山岳会に28歳で入会した。会員番号はNo.4618だ。


――マナスルからヒマルチュリへ――
英国隊のエベレスト登頂には、世界中のアルピニストが夢を失ったと嘆いた。衝撃は本当に大きいものだったが、エベレスト登頂後の未踏峰への世界のアルピニストの登攀は激しさを加え、エベレスト登頂の53年からの5年間にナンガパルバット、K2、チョオユー、マカルー、マナスル、カンチェンジュンガ、ガッシャーブルム、ブロードピークの8つの8,000m峰が登られる激しい時代となった。日本山岳会は、次世代のヒマラヤを目指す若いクライマーを育てる目標を立て、マナスル三山のひとつヒマルチュリを目標とした。当時残った未踏峰のなかで7,000mを超えるピークで、50〜55年に英国の2隊を含む3隊、日本でも日大、慶應などが遠征の計画を持っていた。
日本山岳会は58年、金坂隊長のもとに、ヒマルチュリ東面に偵察隊を送り翌59年、村木隊長のもとに20歳代の3人の若手を加えた遠征隊を送った。幸いなことに私も選ばれた。私にとって初めてのヒマラヤ遠征はヒマルチュリ東面で6,000mの氷壁でのビバーク2泊などあり、厳しいものではあったが、高度順応を含めて翌年に続くヒマルチュリ登山にとっての大きなプラスとなった。
次の年、私は60年の慶應義塾創立百年を期して計画されたヒマルチュリ登山隊に参加を強く希望した。参加には、私の人生の大きな選択が2つあった。第1は職業との選択であった。すでに三越社員であった私にとって慶應隊への参加は2年続いての2回目のヒマラヤであり、当時の三越社長からは前年の1回目は日本山岳会の隊でオリンピック参加と同じとして、なんの問題も無く許可をしていただいたが、慶應隊の場合は「一私学の問題であり危険のあるヒマヤラ登山には許可することはできない」と、仕事を休んでの登山に対する規制は厳しかった。
私のなかに、もしこの遠征に行けなかったら「自分の心の大切なものが死んでしまう」という決心は強く、仕事か山かという問いに山をとるということに固まりつつあった。「行くか行かぬかは自分で決めろ、OBに応援してもらってまで参加すべきで無い」とも言われた。そんなギリギリのところで山田隊長の「今回の隊員の中でヒマルチュリに登ったことのあるのは田辺だけだから隊の安全のためにぜひ参加をお許しいただきたい」という願いにようやく社長のお許しが出た。
もうひとつは将来の伴侶への選択であった。高校時代からの愛する人がいた。大学生活を2年延ばし、さらにヒマラヤへ2年続けて行くということを受け入れられず、その人は最初の遠征のとき私から去った。ある日、槇さんが私を手招きしてくれた。何事だろうと槇さんの机の前に座ると、一枚のメモを出して「この紙に書いてあることにYESかNOだけ言ってください」と言われた。「田辺君は将来を誓った人がいますか?」と書いてあった。即座に私はこんな大先輩に嫁さんを決められたらかなわないと「おります」と答えた。山のことだけでなく伴侶にまで心配される大先輩にひたすら感謝をした。
そんなことがあって、故郷の青梅で同じ三越に勤める女性に出会った。最初の女性のこともあり、私の心中の山登り、特にヒマラヤ登山に対する想いが強く、今度のヒマラヤは将来結婚する人と一緒の想いで経験したいという願いが強かった。本人と先方のご両親にその気持を伝えた。私の気持を理解して結婚を許していただいた。爾来50年、エベレスト南壁、チベット・カルション峰遠征にも、本当の気持とは別の心で家内は静かに背を押してくれた。

[慶應義塾創立百年記念ヒマルチュリ登山隊]
いろんな問題をヒマルチュリに登りたいという一心でひとつずつ取り払い60年2月、11名の隊員とともにネパールに飛び立った。いくつかのの問題があった。
(1)地形状の問題/私達が採った西面のルートには@BCへのアプローチルートA登攀ルートになる大きな氷壁Bウェストピークと主峰とのつながり―の3つの困難な場所があった。
(2)隊員の件/隊員のほとんどがヒマラヤ初経験で6,000m上の経験者は10名の隊員中、2名のみである。
BCへのアプローチルートに関しては、当時の地図と全く異なっており大氷河にぶつかったが、「地球の暗黒を正す」といった探検家気分でBCへの道を発見した。三段の大氷壁は宮下さんの考案したジュラルミンの縄梯子を三本ロープにし、乗った足の横すべりを防いだもの、氷壁に荷物を上げるヨイトマケ滑車など、いろんな工夫をして乗り切った
頂上最後の部分のウェストピークから主峰に渡る部分の情況は全く分からなかった。当時の地図は信用度の問題があった。ある日、ポカラ空港で我々の近くにインド測量部のテントがあった。私と大森さんが何か情報はないかと出かけたら、インドの測量技師がそれとなく下図の地図を見せてくれた。大森さんが急いでトレーシングペーパーで写し取った。それはヒマルチュリ周辺のものだった。つい数年前、マナスル頂上からのヒマルチュリの写真で主峰とウェストピークがプラトーでつながっているのを見て、もう一頑張りすれば、頂上周辺の状況が分かった―と思った。

――エベレスト南西壁へ――
ヒマルチュリ初登頂した私は、長い休暇を頂いた会社に恩返しをしなければと一生懸命働き、順調に実業の仕事人として成長していった。そんな時、日本山岳会がマナスル以後の会の全力を挙げたプロジェクトとして、エベレスト南西壁の初登頂を柱とするプロジェクトを開始した。偵察隊長に宮下さんが決まった。山岳会屈指の戦略的ヒマラヤ登山オーガナイザーであった。 慶應隊のヒマルチュリ登頂後、私は仕事の世界へ、宮下さんは山岳会の遠征へ、なんとなく分かれていたが、宮下さんは私に一緒に行けと言ってきた。私の仕事のポジションは百も承知で言ってきた宮下さんに、浪花節で家族に行くと言えぬまま参加をOKした。38歳だった。

二度もヒマラヤへ行かしてくれた三越が仕入の課長を務めている私を簡単に出してはくれないと思った。宮下隊長が当時ろくに山に登っていない私にあの難しい南西壁の副隊長にと言ってきた真意は未だに宮下隊長からは聞いていない。
宮下隊長は私の立場を察知し、JACの長老であり登高会(慶應山岳部OB会)の長老でもあった早川先輩に私のことをお願いした。当時の三越社長にも影響力があった。早川さんは私を呼びつけると開口一番「ナベ、お前はまだヒマラヤなんか行きたいのか。もっと仕事をして三越の良い番頭になれ」と叱られた。早川さんは日本最初の海外遠征隊で槇さん達とカナダのアルバーター峰に登り、慶應だけでなくJACの中枢のOBでもあった。山より仕事だと言われたのには驚いた。私は「早川さん、私は今更世界一のものに“爪”をかけられるのは、エベレストだけです」と申し上げた。早川さんの応援でエベレスト南西壁への参加が決まった。
エベレストの壁の登攀は初めて経験だ。トップクライマーであった小西さんが参加した。小西さんとの交流は、私の人生に大きな影響を与えるものだった。8,000mを超えるエベレストの壁を登るのは、私のクライマーとしての限界を超えていた

――シニアーにとって登山は単純スポーツではない――
シニアー登山者にとって登山は単純スポーツではない。これは、私が初めてたった一回登って山が好きになったことで考えれば分かる。とくに自然が舞台となるところに問題がある。普通のスポーツは年をとると記録は落ちてくる。山登りには記録はあまり問題ない。いかに自然を楽しんだかが問題だ。山登りにとって大切なのは、いかに自然と親しんだかということだ。 人の能力には、筋肉的なものと感性的なものがある。山登りが素晴らしいことは、年をとって筋肉が衰えても自然を美しいと感ずる感性のあることだ。昔、それに関係なくどんぶり飯を13杯食べ何10キロもの荷を担いだ私も、今は絵筆で自然を描くことの中に喜びを感じている。絵を描くもよし、詩をつくるもよし、楽器を奏でるのもよい。豊かな感性を育て、山という大きな自然と親しみ楽しむことには、体力・年齢に関係なく広がる山が、世界があります。

皆さん、山登りをしていて良かったですよ。かぎり無く素晴らしい自然と付き合うにはムキムキマンだけではもちろん無い。山を登りながら感性を育てることに着手してください。

――山でも仕事でも“初めて”が好きだ――
私は山でも仕事でも“初めて”というのが、なぜか好きだった。“初めて”は山よりも仕事の方に先にきた。エベレストがきっかけだった。70年、三越は初めて沖縄の百貨店と提携し復帰前の沖縄に「沖縄三越」を開設することになった。開設会議の席上、沖縄の生活環境が厳しいとのことで責任者の選考に行き詰まった時、岡田社長が「最近ヒマラヤから帰ってきた社員がいたな、ヒマラヤなら沖縄でも問題無しだろう・・・」との一言で、店内アナウンスで呼び出された。本社へ行き辞令を受け、まだパスポートの必要な沖縄へ着任した。 沖縄三越の仕事は、私の心に残る仕事だった。東京からの大勢の応援を「占領軍になっては良い仕事はできない」と判断し、わずか2名で赴任した。「沖縄三越」の社長として、初めて小さいとはいえ社長になった。
「この仕事のマーケットは何なんだ」と考えることが社長のリーダーシップだと思った。「ファッションと民芸品の店 沖縄三越」となった。大成功となり、沖縄海洋博まで仕事をすることになっていたが、1年半で東京に呼び戻され、いきなり本店次長・販売促進室長・宣伝部長・広報部長の営業の中枢のポジションに着いた。
三越の本社に帰って5年、話題の岡田社長のもとで仕事をしたが、押し付け販売から公取の摘発を受けたことなどもあり、関連会社への転任を機に80年、ダイエーの中内社長のもとに移り、ダイエーがフランスのオ・プランタンデパートと提携して設立したオ・プランタン・ジャポンの社長になった。48歳。
ダイエーに移り、中内さんの広範な事業展開のなかで、90年(58歳)ダイエーのプロ野球のダイエーホークス社長に就任。ダイエーの専務になると同時に95年(64歳)、ダイエーが再建を引受けた株式会社マルコーの事業家管財人に就任、負債600億円返済の更生計画を7年で終了し、更生計画の早期終了と同時に一切の仕事から引退した。70歳だった。

――再び海外の山、山のスケッチへ――
更生計画の管財人を引き受ける時、中内さんから毎年8月に10日間の休暇を頂くこととし、再び海外の山々に還った。もちろん日本の山々に登る一方、ノルウェー、アルプス、アラスカなどに登り、2005年にはチベット・ヒマラヤのカルション峰に慶応隊の一員として初登頂もした。仕事と登山の充実した60歳代であった。下手くそな絵も、展覧会を重ねている。第3回は16年(85歳)に、第4回は21年(90歳)に、そして第5回を95歳にやるつもりだ。展覧会の名前は「登りたい心で描いた山のスケッチ展」です。
(記録/高橋重之)