講演会「高尾山からエベレストまで」を開催、神崎講師 200人の聴衆を魅了


講演会

 「高尾山からエベレストまで」と題し、日本山岳会東京多摩支部は5月10日、多摩市関戸公民館ヴィータホールで、支部講演会を開催した。日本山岳会エベレスト隊が,日本人として初めてエベレストに登頂してから40周年を迎えたのを記念し、登山隊に参加し初登頂成功に大きな役割を果たした神崎忠男会員(日本山岳会副会長)に、当時のなまなましい話を披露してもらった。

田部井さんも友情出演
 この日は、広く地域のかたがたに参加を呼びかけた。朝日、毎日、読売新聞に紹介されたこともあり、午後6時30分の開演前から多くの人たちが並び、会場はほぼ満席となる盛況。田部井淳子さんもご夫婦で駆けつけていただいた。竹中彰支部長が、東京・多摩の地に日本山岳会支部が誕生したことを報告。田部井さんは、NHK登山教室で23日をかけて北アルプスを縦走したこと、多くの人たちが登山に関心をもっていることなどを紹介、「人間の最大の特長は二本足で歩くこと。その人間だけしかできないことを山に登る人はやっている。なんと偉大なことでしょう」と話しかけた。

 講師の神崎さんは、プロジェクターを使ってヒマラヤの魅力を語った。1970年5月11日、日本山岳会エベレスト隊(松方三郎隊長)は、東南稜からの登頂に成功した。隊員30人、報道9人、シェルパ26人が参加しての遠征だった。日本は世界で6番目の登頂国となった。登頂した4人は世界で25〜28番目の登頂者だった。支部講演会の開催日は、この初登頂の前日にあたる。神崎さんの頭のなかには、40年前の風景が広がっていたことだろう。

ルート工作の途中で滑落
 日本山岳会エベレスト隊は、南壁からの初登攀に挑戦したが、併行して、いまは一般ルーと呼ばれる東南稜からのルートも取った。神崎隊員は松浦輝夫、植村直己隊員らとともに東南稜隊に加わった。2人ずつパートナーを組んで第3キャンプから第4キャンプへのルート工作を開始した。ローツェ・フェースは凍った急斜面である。
―― 私たちのパーティーは標高7350mあたりでインド隊が残していった麻のロープを発見した。水を含んでいて20ミリぐらいの太さになっていた。これをみて、パートナーが「ルートは、これで間違いなし。これで引き返そう」と言い、「先に下りなさい。落ちたら私が止めてやる」と保証してくれた。ところが、行動開始して5メートルも行かないうちに、そのパートナーが滑落した。「止めてくれ」と言いながら滑っていった。巻き持っていたザイルの真ん中にピッケルをさして止めようとしたが止まらない。2人で落ちた。幸いなことに、私のピッケルが氷のなかにできたこぶのような塊りに突き刺さった。なんとか踏ん張ることができた。40メートルのロープが延びきって、パ―トナーは、下のほうにうつぶせになって倒れているのが見えた。ロープを引っ張って合図したが、反応がない。私は、慎重に、ゆっくり降りた。ロープをたぐって近づくと、5メートルぐらいのところで、むっくり起きて「どうしたんだ」と問いかけてきた。意識が朦朧としているようだった。 私は、通信機を持っていたので、標高差で700mはある前進キャンプに連絡を入れた。このあたりの高度では1日の行動が標高差で500mくらいだから、かなりの高低差だ。前進キャンプからはテント、医療品などを持った隊員とシェルパが救援に向かってくれた。ドクターも登ってきた。私はパートナーがテントに収容されたのを見届けて下へ降りた。 翌日だった。大塚隊長から「全員、テントを出ろ」という無線がはいった。滑落したことで、お咎めがあると思った。月明かりだった。大きな月が出ていた。「成田隊員が心不全で亡くなった」と伝えてきた。信じられなかった。成田は、私より3つ若かった。滑落したあと「おまえが登ってくれ」といったばかりだ。高所・高山病の恐ろしさだ、といまも思っている―――。

 5月11日、植村隊員と松浦輝夫隊員が頂上に立った。翌12日、平林隊員とチョタレイが第2次登頂に成功した。 とても40年前の話とは思われなかった。まるで昨日の出来事を語るような口調だった。ベースキャンプで記念撮影した写真がプロジェクターで大きく映し出された。およそ70人の隊員・シェルパが並んでいる。これが○○隊員、これが△△隊員、これはシェルパの□□……と、紹介した。写真は、頭のなかに焼きついているのだろう。

エベレストには4回挑戦
 神崎講師は、4回エベレストに挑戦した。1回目が、この日本山岳会エベレスト隊。2回目は1980年だった。中国側からのチョモランマ隊のチームリーダーだった。6500m付近で心筋梗塞に見舞われた。88年は、三国(日・中・ネ)友好登山。今西総隊長をベースキャンプまで連れて行くのが役割だった。4回目の挑戦は95年。日大の70周年記念事業のひとつだった。そのころ、ひとつの大学で成功したところはなかった。最も長い北稜からのルートをとった。隊長を務めた。神崎講師は、満足げだった。

 講演会は、最後に成川隆顕日本山岳会常務理事が、日本山岳会や日本山岳協会が進めている「山の日」制定運動を紹介し、参加者に理解と協力を呼びかけた。成川常務理事は「山の日を制定するだけではない。山を理解し、親しみ、楽しむ運動としたい。山といわれる地域が国土の7割を占める。生活の場としての山を大切にしよう。見つめ直そう」などと訴えた。 (文・写真 高橋重之)